「通史学習は不要」再・再論
どうも同じ言葉を使っていながら意味が違ったりしているように思います。それとどうも短い文章で議論をすると、お互いの前提条件やニュアンスが
伝わりにくくて、双方に誤解や理解不充分なところができるようです。突っ込んだ正確な議論をするためにはメールマガジンを経るのではなく直接メ
ールで何回も往復書簡の形でやりとりし、その全体をメールマガジンに載せると言う形をとらないと、議論が不正確で堂堂巡りをしてしまいそうな気
がします。
そしてもう1点。このメールマガジンは、「個性に配慮した教育を考える」ということだったと思います。私の『とりあえずの「通史廃止論」』は、今の学
校の中での通史学習のあり方は子供の個性をつぶすと考えたので成り立っています。一人一人個性が違うと言う事は一人一人興味を持ったり関心
を持ったりする事が違うということです。今の学校の学習は(歴史学習も含め)この一人一人の興味関心を無視して成り立ち、一人一人が自分の視
点で疑問を持ったり考えたり追求したりすることを阻害しているからです。どうも今回の議論はこの前提条件を無視して一般論で議論しているような
気がします。
以上の点を踏まえてHamaさんの意見について幾つか意見を述べさせていただきます。
@「本や会話中にわからないことが出てきたとき、ほとんどの生徒がわからないまま放置しておくのではないか」とありますが、その通りです。でもそ
んな生徒を作り上げたのはなんでしょうか。興味も関心も関係なしに膨大な事項の知識を覚える事だけを義務付けてきた教育ではありませんか。
私の意見は理想論からではなく「とりあえず考えない生徒を作らないため」の緊急避難の案です。
A「いくら時間が少なくとももう少し肉をつけたような通史教育はできる。それができないようであればその先生のやり方が悪いのです。そんな先生
はほとんどいないでしょうが」とありますが、「そんな教師がほとんど」なのが現状です。そうするしかないのです。なにしろ授業の進度は決められて
おり地域一斉テストなどで決まった時期までに教科書を教えたかそして覚えたかがテストされそのテストの平均点が学校ごとに公開されます。これ
は教師にはすごい圧力ですよ。「おまえは受験に役立たない授業をするのか」「入試で点の取れる授業をしろ」と校長や先輩教員や父母から責め
られます。肉をつけるどころではないのです。現状は。
B「学校を学ぶ事の楽しさとその方法を学ぶに限定するのではなく、学ぶための基礎知識を身につける場としての役割も考慮する必要があります」
とありますが、これはまったくそのとおりです。私の言い方が舌足らずでした。ただ問題は「学ぶための基礎知識の学び方なのです」。そして「何が
その基礎知識か」が問題なのです。文部省は現在教科書に載っている事が基礎知識だと強弁します。中学生が使っている教科書を全教科全て目
を通された事がありますか。すごい分厚さ、すごい重さ、すごい量です。これを全部決められた期日までに教えろ覚えろとやられるのです。しかもテ
スト問題はひねってありますから単純に覚えただけでは答えられない。かなり深く理解していないと答えられない。優れた力を持っている人はどん
な教え方をされても平気ですが多くの生徒にとってはこれは難行です。まずは子供たちの個性をつぶさないためにも『何が基礎知識なのか』を各
教科毎に明らかにせねばなりません。その上で問題なのが「学び方」です。「学ぶための基礎知識」ではあっても「一方的に押し付けるもの」であっ
ては学ぶ意欲も気力も失せてしまいます。
CあとHamaさんは歴史の通史的な基礎知識は本を読んだり人と会話したりするのに必要とおっしゃいます。そして多くの本や人は人がその基礎知
識を持っている事を前提にしているとも述べられています。本当にそうでしょうか。それってかなり一部の人ではないですか。多くの人の日常の会
話に歴史的知識が必要であるとは思いません。それはかなりな知的レベルの高い人々の間だけの会話ではないでしょうか。本もいったいどれだけ
の人が読んでいるのでしょう。歴史的知識が必要な本がどれだけあるのでしょうか。そしてその本を必要としている人はどれだけ居るのでしょうか。
疑問です。現実は、多くの人はこの個性を無視した詰め込み教育で本という知識の泉からは遠ざけれているのが現状ではないでしょうか。少しで
もこの現状を変えるには現実に何が可能かと言う観点から考えてみたいと思います。
D「歴史としての現在を生きるための、現在を歴史過程の一部として捉える認識」を得るためには必ずしも「通史」学習は必要ではありません。「通
史的視点」いいかえると「ある時代に限って学習するときでもその時代を成り立たせた歴史的経緯をその時代を学ぶために限って学ぶ事」で充分
だと思います。(2000年2月5日)
コアラ様 早速メールをいただき、ありがとうございます。私のような教師ではない、いわば素人で、本来はコアラさ んと対等に議論できる立場にないような者にも丁寧にお返事してくださり、嬉しく思っています。 >
どうも同じ言葉を使っていながら意味が違ったりしているように思います。 葉がありましたか? 々巡りになってしまっては、読者にはうっとおしいだけですね。 > たとおり、コアラさんの「今の学校の中での通史学習のあり方は子供の個性をつぶす」という前提にたった 論に反対しているわけですから、決して前提条件を無視したことにはなりません。 しょうか? す。申し訳ありません。少し話題がそれますが、私はまったくお世辞を抜きにして、コアラさんは素晴らしい 先生だと思っています。授業を受けたことはありませんが、そう確信しています。しかし、コアラさんのように 優れた先生はまれで、そうでない先生が多いのは、私も良く知っています。(以前そのようなことに関して、 コアラさんにメールをいただいたこともあります。)しかし、コアラさんのように、ベテランの先生の立場からな ら別ですが、私のようなただのメールマガジン発行者の立場から必要以上に刺激の強いことをいうと、ご たごたが起こってしまいますので、あのような書き方をしてしまったのです。以下は、そういう先生が実は 多いのだと言うことを前提に書きます。 それにしても、言葉の意味の違いとは、このあたりでしょうか。私がいう「肉」とコアラさんの理解された 「肉」のレベルは違うようです。私がいう「肉」は、教科書の内容にほんの少し説明を付け足す程度のもの です。何年か前、学習塾で社会科を教えました。週1時間で、教科書を終わらせるのですから、教科書の 内容すべてを網羅することはかなり難しいです。(これは、理科を教えたときでも同じでした。英語や数学 は週2〜4時間はとるので、それこそいくらでも深い肉付けができますが・・・) しかし、私は理科でも社会でもきちんとすべてを教えました。その上で、メールマガジンの第1号で書い たように、テストの点を30点上げたようなこともあります(実は、私自身の体験談でもあったのです)。もち ろん、点を上げたことを自慢するつもりは毛頭ありません。典型的な良くない詰め込み式教育だといわれ てしまえば、その点に関して反論することはできません。 何が言いたいかといえば、少なくとも、生徒を無視して、ひとりで教科書やテキストを読み続けるような授 業ではなかったということです。つまり、暗記させることを主体にした授業でしたが、暗記のために割く時間 をとっても、教科書を終わらせることができたのです。(もちろん、塾の先生は、学校の先生以上に、ほと んどがいい加減な先生ですから、他の先生、特に経験の浅い大学生のアルバイトにはできないことだと思 います。私の知っている範囲〔といっても、狭いですが〕では、私以外に塾でまともに教えていた先生は、 私が一時期勤務した某大手塾の塾長だけでした。) 理屈では、週3〜4時間、すなわち学習塾の3〜4倍の時間があれば、多少の肉付けをした通史ができ ないなどということは、決してないはずです。しかし、私が中学生の頃、社会の先生は、教科書を終わらせ なかったのを覚えています。今から思えば、その先生の授業には無駄が多すぎました。授業と関係のない 話の時間、生徒を叱っている時間、板書の時間・・・。そういえば、私が教えていた塾では、生徒から学校 の先生の悪口を良く聞きました。話半分としても、ひどすぎるものでした。生徒を無視してひとりで話をして 帰っていくとか、黒板の字が汚すぎて読めないとか、さらには教科書を終えられず、残りは全部プリントを 配っておしまいとか・・・。また、以前メールに書いたように、母が高校の社会科の教員をしていたのです が、その母から同僚の先生の話も良く聞きました。某有名私立高校なのですが、時間がないからイ スラムはやらないとか、中国は最初の方だけやって終わりとか、そんな先生がいるとのことでした。 塾の生徒に聞いた話や、母から聞いた話は、実際に授業を見ていないので、はっきりとは言えません が、私が塾で教科書を終えていること、母が同じ学校できちんと教科書を終えていることを考えれば、教 科書を終えられない先生は、やはり授業に無駄が多かったのだと思います。 効率よく、無駄のない授業を行うためには、生徒を指導する能力など、他のいろいろな要素も考えなけ ればなりませんが、とりあえずは方法を明確にすれば、多くの先生が、今の時間数のままでも、多少肉付 けをした通史を教えることができるのではないかと思います。 す」というのは当たり前ですね。要求に応える能力がないのだとすれば、それは先生として失格です。能 力はあるが、そのような授業をあえて行わないのならば、それも失格です。受験制度が変わる前に授業を 代えてしまっては、生徒を不幸にするだけですから。おそらく、コアラさんは、不本意ながらもそれらの要求 に応えつつ、わずかの時間を工夫して独自の授業(シュミレーションなど)をも行われているのだと思いま す。私は、むしろその方法をより洗練していくのが良いと思います。そして、やり方のわからない教師に方 法を教えればいいのではないでしょうか。 英語と社会は、中学生にとってはなかなかの量ですね。 でない生徒のほうが多いわけですから、やはり当面は、授業方法の工夫が大切ではないでしょうか。(も ちろん、コアラさんのおっしゃるように、指導内容についても問題があるとおもいますが、今すぐどうこうでき る問題ではないのではないでしょうか。)
るのですが・・・)やはり、段落ごとに返信すべきでした。 基礎知識を明らかにするということは、それこそ理想論に近いと思います。明らかにすること自体が難し いのではなく、それを文部省の方針変更に結びつけるということが、理想論だと思います。そのため、教 師が今できることは、2段階目の「学び方」の工夫だと思います。 によってつくられる知的レベルを現状のままにしておくのは良くありません。 おわかりのことと思います。思うに、必要としないのは、読めないからではないでしょうか。逆にいえば、読 めれば必要とするはずです。本を読み視野を広げることは、誰にとっても有意義なのですから。 ちが動いて変えられる範囲で考えることが必要ですね。 るとおり、通史学習の効果の一部は、「ある時代に限って学習するときでもその時代を成り立たせた歴史 的経緯をその時代を学ぶために限って学ぶ事」でも、得られると思います。しかし、通史学習の効果はそ れだけではないと思います。本や会話のこともそうですが、歴史の基礎知識を要求する本や会話と多くの 人が無縁であっても、たとえば、経済や社会体制の移り変わりなど、一時代ではわからないことも歴史教 育のもつ大切な内容ではないでしょうか。また、ある一時代を理解するためにも、それまでの歴史の理解 はある程度必要になってくるのではないかと思います。そのため、いまだ通史学習は必要だと考えていま す。 ここまで、コアラさんからのメールに、一度簡単に目を通し、その後上から順に返事を書いてきました。会 話的な意見交換を重視するという趣旨のもと、おもいつくまま書いたため、失礼も多いことと思いますが、 お許しください。 |