現状にどう対処すべきか・・・・・・・・?


さっそくお返事をいただきありがとうございます。Hamaさんの意見について幾つか意見を述べさせていただきます。

>> @「本や会話中にわからないことが出てきたとき、ほとんどの生徒がわからないまま
>> 放置しておくのではないか」とありますが、その通りです。でもそんな生徒を作り上
>> げたのはなんでしょうか。興味も関心も関係なしに膨大な事項の知識を覚える事だけ
>> を義務付けてきた教育ではありませんか。私の意見は理想論からではなく「とりあえ
>> ず考えない生徒を作らないため」の緊急避難の案です。
>
>承知しました。
>ところで、もちろん私の意見も理想論ではありませんが、それはご理解いただけ
>ているでしょうか?

 わかりました。でもお互いに現実をよく知らないために理想論になっている部分はあると思います。それは以下にその部分で述べます。

>それにしても、言葉の意味の違いとは、このあたりでしょうか。私がいう「肉」とコアラさんの理解された「肉」のレベルは違うようです。私がいう「肉」は、教科書の内容にほんの少し説明を付け足す程度のものです。

 >何年か前、学習塾で社会科を教えました。週1時間で、教科書を終わらせるのですから、教科書の内容すべてを網羅することはかなり難しいです。>(これは、理科を教えたときでも同じでした。英語や数学は週2〜4時間はとる>ので、それこそいくらでも深い肉付けができますが・・・)

 >しかし、私は理科でも社会でもきちんとすべてを教えました。>その上で、メールマガジンの第1号で書いたように、テストの点を30点上げた>ようなこともあります(実は、私自身の体験談でもあったのです)。
>もちろん、点を上げたことを自慢するつもりは毛頭ありません。典型的な良くない詰め込み式教育だといわれてしまえば、その点に関して反論す>ることはできません。
 >何が言いたいかといえば、少なくとも、生徒を無視して、ひとりで教科書やテキストを読み続けるような授業ではなかったということです。つまり、暗記させることを主体にした授業でしたが、暗記のために割く時間をと>っても、教科書を終わらせることができたのです。
>(もちろん、塾の先生は、学校の先生以上に、ほとんどがいい加減な先生ですか
>ら、他の先生、特に経験の浅い大学生のアルバイトにはできないことだと思いま
>す。私の知っている範囲〔といっても、狭いですが〕では、私以外に塾でまとも
>に教えていた先生は、私が一時期勤務した某大手塾の塾長だけでした。)
>
>理屈では、週3〜4時間、すなわち学習塾の3〜4倍の時間があれば、多少の肉>付けをした通史ができないなどということは、決してないはずです。

 そのとおり。多少の肉付けなら充分教科書を終わらせる事は可能です。もちろん教え方としては一方的に説明しているのではなく問いと答えのキャ

ッチボールをしながらですが。

>しかし、私が中学生の頃、社会の先生は、教科書を終わらせなかったのを覚えています。
>今から思えば、その先生の授業には無駄が多すぎました。授業と関係のない話の時間、生徒を叱っている時間、板書の時間・・・。
>
>そういえば、私が教えていた塾では、生徒から学校の先生の悪口を良く聞きました。話半分としても、ひどすぎるものでした。生徒を無視してひとりで話をして帰っていくとか、黒板の字が汚すぎて読めないとか、さらには教科書を終えられず、残りは全部プリントを配っておしまいとか・・・。

  残念ながら現状はそのとおりです。「楽しい授業」という掛け声が昔からありましたが多くの教師はそれを「授業に関係ない話しをして面白おかしく

やり、あとはここはテストに出るから覚えておけ」の授業だと勘違いしています。(正確には教科書に肉付けして生徒にわかりやすく教える力がない

ので、漫才をやったり他の教師のこき下ろしをしたり、関係ない与太話だけをしたり、要するに自分が学ぶ意欲も力もない教師なのです)。本当の

「楽しい授業」とは生徒がわかる授業。先生の説明ややり取りを聞いていてよくわかり、学ぶ事が楽しくなる授業なのです。私は授業に直接関係ない

話しは時々しますがそれも歴史なら歴史に関する話しで、今学習している事に関係していてそれをより興味深くつかまえられる話題だけにしていま

す。プロ野球のどのチームが好きかなんてことは話しません。

>また、以前メールに書いたように、母が高校の社会科の教員をしていたのですが、その母から同僚の先生の話も良く聞きました。
>某有名私立高校なのですが、時間がないからイスラムはやらないとか、中国は最初の方だけやって終わりとか、そんな先生がいるとのことでした。
>塾の生徒に聞いた話や、母から聞いた話は、実際に授業を見ていないので、はっ>きりとは言えませんが、私が塾で教科書を終えていること、母が同じ学校できちんと教科書を終えていることを考えれば、教科書を終えられない先生は、やはり>授業に無駄が多かったのだと思います。
>効率よく、無駄のない授業を行うためには、生徒を指導する能力など、他のいろ>いろな要素も考えなければなりませんが、とりあえずは方法を明確にすれば、多>くの先生が、今の時間数のままでも、多少肉付けをした通史を教えることができ>るのではないかと思います。

 人は自分の狭い経験に基づいて話しを一般化して議論しがちです。高等学校と中学校と塾とでは条件があまりにも違います。高等学校では公立

私立を問わず生徒の学力レベルはある範囲に固まります。入学試験で振り分けているのですから。公立私立の有名校は学力レベルの高い生徒だ

けが入学します。そこではどんな授業でも可能です。なぜなら生徒の多くは自分で学ぶ力を持っているからです。教科書なんか無視しても、終わらな

くても生徒は自分で勉強できます。教師など邪魔なくらいです。学習のコーディネーターに徹する事が可能です。でも「底辺校」は大変です。もともと

自分で学ぶ力を持っていない上に義務教育9年間で興味も関心も殺ぎ落とされ自分なんて馬鹿だと思わされた学ぶ気のない生徒がたくさんいるの

ですから。

 このような学校では学ぶ内容も変えて学ぶ方法も変更しないと学校として成り立ちません。

 公立中学校は生徒の学力はピンからきりまでです。すごい差があります。意欲もまちまち。教室を走り回っている幼稚園児のような生徒がいるかと

思えば、有名私立高校を狙って日々受験のための勉強に邁進している生徒もいます。まあ共通している点は「学ぶ意欲がなくなっている」点でしょう

ね。ですから授業にひきつけようとするなら「学ぶ意欲を引き出すような内容で学習の仕方」を工夫しなければなりません。これに受験のための知識

が加わるのですから高学校のエリート高校から最底辺高校までがやっている事を同時展開しなければなりません。それに幼稚園の先生のような対

応も。ですから「理論的には今の時間数のままでも多少肉付けした通史を教えることはできる」のですが、現実の生徒の状況を考慮に入れるとそれ

は不可能です。

 しかもさらにこれを不可能にする要因があります。一つは様々な行事。もうひとつは部活動。 行事そのものはとても意味があります。教育的な。で

も多すぎるのです。行事が学校教育に導入された歴史的経緯を見れば、学習が知識詰め込みで面白くもなく弊害ばかり目立つ事をたくさんの行事

を導入し学校を面白くするとともに、知識の学習だけでは得られない、人が集団として生活している事から学べる部分を拡大しようという観点があり

ます。ですが一杯入れすぎて現実は破綻状態。社会科は週4時間で年間130時間の授業があることになっていますが様々な行事や儀式とその準

備、それに健康診断なども入ってきて実質は100時間ありません。私は年間90時間でカリキュラムを組んでいます。

 これに部活。公式試合はなんと授業を削って平日に3日間もかけてやります。これが年に2回。徐々に休日実施に移行していますが勝つためには

朝も7時から学校にきて練習し、放課後は午後6時、ひどいところでは管理職に内緒で午後8時くらいまで練習しています。そして土日祝日は毎日練

習か練習試合か試合。たとえ授業が削られなくとも生徒はヘトヘト。これでは学習に集中どころではありません。

>もし、ほんとうに受験に役に立たない授業をしているのならば、「校長や先輩教
>員や父母から責められます」というのは当たり前ですね。
>
>要求に応える能力がないのだとすれば、それは先生として失格です。
>能力はあるが、そのような授業をあえて行わないのならば、それも失格です。
>受験制度が変わる前に授業を代えてしまっては、生徒を不幸にするだけですから。
>
>おそらく、コアラさんは、不本意ながらもそれらの要求に応えつつ、わずかの時間
>を工夫して独自の授業(シュミレーションなど)をも行われているのだと思いま
>す。
>
>私は、むしろその方法をより洗練していくのが良いと思います。
>そして、やり方のわからない教師に方法を教えればいいのではないでしょうか。

 ここが一番問題になるところです。「受験に役立つ授業をしろ」との親や生徒や校長などの要求に応える義務があるのかと。

 戦後何十年と良心的な教師たちは不本意ながらも「要求に応える」観点授業をしてきました。その合間に本来の学習を少しだけ入れてきました。で

もその結果は何だったのでしょうか。学習意欲も能力もない人間を大量生産してしまっただけです。この要求に学校が応えてきた事が現在の学校が

崩壊していった原因だといって間違いありません。「受験に役立つ授業」と「本来の意味を学ぶ授業」を両立させる事は神業です。ほんの一部の教師

しかできません。何しろそれには教科に関する深い知識とともに教授法に関する深い知識と経験が必要ですし、生徒をまとめる人間性。全部が要求

されます。今の中学校や高校は戦前の一部のエリートのためだけの物ではありません。大衆化された大衆教育の場です。膨大な数の教師が必要

です。完全に優秀な教師が不足しているのが現状でしょう。いくら両立する方法を精緻化してマニュアル化してもそれを出来る力を持っている人はわ

ずかです。

  私は教員になるときから「学校は受験のためにあるのではない。そのような要求・それが文部省からのものでも父母や生徒からのものでも応え

るべきではない」との信念で26年間やってきました。ですからHamaさんのお言葉に従えば「教師失格」「問題教師」です。私の考えは生徒が学習内容

をより多く理解でき勉強して楽しかったとかやって良かったとかわかってうれしいと思えばそれでよいと考えてきました。人間を破壊するよりかはまし

だと考えたのです。といっても全面展開したのでは首(にはならないけど軋轢のみ多く自分が破綻します)なので多少の妥協はしてきました。でも教

科書は終わった事はないのです。26年間。だいたい戦後史の60年代以後を残すか、古代・中世の一部をカットするかその両方かのどちらかで

す。60年代以後は現代ですから「公民」のところで間接的に学べる。近世は近代・現代を学ぶに不可欠なので削れませんが原始・古代・中世は削れ

ると考えてあえてやってきませんでした。もっともその部分も生徒が学習する気になっておれば「プリント」でやっておけですみますし、『テスト問題を

事前に公開』して置きます(50題出すなら70題か100題出しておきます)。テストの二週間前ぐらいに。ですから生徒たちは自分たちだ学習し答え

を出し、事前に私にこの答えで正しいかと確認にきます。ですからテストはいつも100点満点の平均点が85点ぐらい。入試にも平気です。 

 でもそれはもう昔の事です。これが出来た子達は一番上は36歳。一番下は27歳です。もう10年以上も昔の話し。今はどんな方法をとっても学習

意欲を燃やさない子が40%はいますね。そのくせ受験だけは気にしていますので大変です。 もう「受験のために学習する」のは限界です。子供たち

がその心が死んでしまいます。

>基礎知識を明らかにするということは、それこそ理想論に近いと思います。
>明らかにすること自体が難しいのではなく、それを文部省の方針変更に結びつけ
>るということが、理想論だと思います。
>
>そのため、教師が今できることは、2段階目の「学び方」の工夫だと思います。
>

 いや、文部省はすこしづつ方針変更しています。学習指導要領の変化を追っていくと、歴史学習は人類史を全部通史としてやるのではなく「通史的

視点を持った上での時代史、それも近世・近代・現代に重点を置いたものになる」と予感しています。

 まだまだ様々な団体が反対しており実現には何年もかかりますが、どうも文部省の指導要領を作っている役人は私と同じことを考えているのでは

ないでしょうか。それに文部省は「指導要領の法的拘束性」すら放棄するのではないかと考えます。正しくは文部省と言うより政府・官僚の中の現状

に危機感を持っている一派がというべきかもしれもしれません。

 今緊急に『何が基礎知識なのかを』明らかにする事が求められており、現状に危機感を持っている支配エリートの中のかなり重要な部分がこれを

認識している可能性があります。もはや「学び方の工夫」だけでは限界です。そして現場の教師からそれを超えた「基礎知識」をあきらかにする取り

組みが今求められているのです。これは現実の問題です。まったなしでしょう。遅れれば遅れるほどこの社会は崩壊します。

>しかし、知的レベルは、上げるべきでしょう。
>生物学的な知的レベルを上げることは不可能ですが、教育によってつくられる知
>的レベルを現状のままにしておくのは良くありません。

 そのとおりです。そのためにこそ学校の役割を限定する必要があると思います。「広い教養が必要」との論拠で現状の崩壊した状況を見ていない

人が多いのは(それがとりわけ知的レベルの高い、進歩的な考えの人に多い事が)問題です。

>> 歴史的知識が必要な本がどれだけあるの
>> でしょうか。そしてその本を必要としている人はどれだけ居るのでしょうか。
>
>それは、コアラさんもご存じの通り、たくさんあるでしょう。
>私がいう本が、雑誌やHOW-TO本でないのは、おわかりのことと思います。
>
>思うに、必要としないのは、読めないからではないでしょうか。
>逆にいえば、読めれば必要とするはずです。
>本を読み視野を広げることは、誰にとっても有意義なのですから。
>

 そのとおりです。でも現実の学校は多くの人が読める事を必要とはしていません。皆が読めるようになっては人が人を支配するシステムは壊れて

しまうのですから。しかし今の社会の状況は「そのシステムを維持するためにも多くの人が本を読め、自分で学び考える力を持つ事が不可欠」になっ

てきています。つまり「支配システム」にとっては自己矛盾ですね。いわゆるこれが「体制の末期現象」。今こそ、理想を現実にできる可能性が生まれ

始めている時期なのではないでしょうか。

>おっしゃるとおり、通史学習の効果の一部は、「ある時代に限って学習するとき
>でもその時代を成り立たせた歴史的経緯をその時代を学ぶために限って学ぶ事」
>でも、得られると思います。
>
>しかし、通史学習の効果はそれだけではないと思います。
>本や会話のこともそうですが、歴史の基礎知識を要求する本や会話と多くの人が
>無縁であっても、たとえば、経済や社会体制の移り変わりなど、一時代ではわか
>らないことも歴史教育のもつ大切な内容ではないでしょうか。
>また、ある一時代を理解するためにも、それまでの歴史の理解はある程度必要に
>なってくるのではないかと思います。
>
>そのため、いまだ通史学習は必要だと考えています。

 そのとおりです。でも当面は「経済や社会体制の移り変わりなど」理解する必要は多くの人にはありません。必要だと思う人が自分で学んだり学校

で選択教科で学んだりすればよいし、学校のそとにその学びの場を作れば良いのではないでしょうか。あるいは小学校・中学校・高等学校と事実上

義務教育化した12年間の中で系統的に学べるようにする事は可能かもしれませんが。(2000年2月6日)


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