沼津兵学校付属小学校の齋藤修一郎−青楼下宿説の虚妄−
川瀬 健一
齋藤修一郎(1855‐1910)は、郷里・越前国府中(現福井県越前市)を立って、1870(明治3)年春に沼津に向かった。静岡藩(旧幕府)の沼津兵学校に入学するためであった。齋藤はそこで兵学校のための予備門である付属小学校に入り、同年10月に、福井藩の貢進生として東京の大学南校に入るまで、およそ八ヶ月在籍した。
この時代の齋藤について考察したものとしては、越前市在住のグリフィス研究家・山下英一氏の論考がある。それは、「沼津兵学校の福井藩員外生」(1993・平成5年「若越郷土研究」第38巻1号掲載。後に『グリフィスと日本−明治の精神を問いつづけた米国人ジャパノロジスト』・1995年近代文藝社刊に掲載)で、この論文の「6.齋藤修一郎」の項には、沼津時代の修一郎について、次のように記されている。『さらに、「彼が兵学校時代に沼津本町の花柳界に沈湎して芸者買ひの味を覚え身を持崩したから也」と書かれていたりする。とくに後者は彼の政治家としての失脚と不遇な晩年は、この沼津生活にその兆しを見ている。また員外生について「されど独り福井藩人と云はず之等の所謂留学生は、給与の豊富なりし為に自ら放縦に流れ贅沢に赴くの嫌ひあり、一般資業生の規律厳正なりしに比し屢々風紀を紊したりとの評判もあった」とも書かれている。これでは「福井藩修業規則」の質素節倹、奢侈の戒めに大いに反する生活といわざるを得ない。修一郎についていえば、彼の性情に規則に縛られたくない面もあったと思われるが、毎月10円の遊学費を貰っていたというから、案ずるところ修一郎少年に他の生徒にない風雲児のおもかげがあったと思ってもいいようだ。むしろ彼が自叙伝で触れていない所もわかって面白い。』と。
山下氏がこの論で述べているように、山下氏が依拠した史料に見られる沼津での修一郎の生活は、後年の彼の自叙伝『懐旧談』で述べられていたことと全く趣を異にする。『懐旧談』の「17.沼津在学時代の余」で語られたことは、新居屋に下宿して杉田玄端先生の塾に通って「スペリング・ブック」を使って英語を習う毎日だったと。そして明治3年8月の武生騒動で叔父・大雲蘭渓が福井の獄に繋がれたときもなすすべはなく、日々「スペリング・ブック」に首っ引きであったと。
どちらが真実なのか?
当時山下氏が史料探査にお世話になった沼津の明治史料館学芸員の樋口雄彦氏が佐倉の国立歴史民俗博物館に居られることがわかったので根拠となった史料を問い合わせたところ、それは伊東圭一郎『東海三州の人物』((静岡民友新聞社刊・大正3・1914年)と金城隠士「沼津時代の回顧」(『静岡民友新聞』大正2年7月掲載)だとわかり、これらの史料を明治史料館に問い合わせたところ、学芸員の木口亮氏がPDFファイルにして送ってくれた。
送られた史料を検討したところ、山下氏の史料批判に問題があることがわかった。
(2012年3月東日本英学史学会沼津大会報告概要)