★自己紹介のコーナー★
私の自己紹介
○ニックネーム:
「コアラ」・・・手足が短くお腹が出ていて、冬になるともかもかのセーターを着ていることからついた。
「ザビ」・・・・メガネをとると、社会科の歴史の教科書にでてくるフランシスコ・ザビエルに似ているためついた。
「ジャムおじさん」・・・冬になると毛糸の帽子を目深にかむりアンパンマンのジャムおじさんに似ているためついた。
○生年月日:この5ヶ月後に朝鮮戦争が始まった。
○経歴:詳しくは「コアラの年図」を参照してください。
都内の私立大学史学科を卒業後、神奈川県の公立中学校に勤務。一年目と二年目は国語科と社会科を担当。三年目からは社会科専任。この学校に14年間勤務。その間に生徒会本部担当を含め、ほとんどの校務分掌を歴任。組合の中央委員を務める。二校目では15年勤務。初年度と二年目は社会科・美術科・国語科書写を兼務。その後は社会科・管理部・文化祭の運営・図書館の担当・総合学習の企画担当などを務める。2003年3月末をもって退職。現在は評論活動中。
●自伝的文書:文芸同人アニマの会の機関誌「ペーガーダ」に掲載したもの。2017.4.6
○父母・祖先のこと:(NEW!09.9.03追加)
2005年に他界した父は、家業の百姓を捨てて台湾に渡り台湾総督府の下級役人をつとめた祖父の長男に生まれ、長じて東大を卒業。その後、大手電気会社に入社。昭和18年に召集され幹部候補生になることを拒否したため、南方の戦線に派遣されるも、輸送船に対するアメリカの潜水艦の魚雷攻撃にも生き残り、派遣されたハルマヘラ島では食料生産の部隊にいたため戦闘には巻き込まれずに生き残り、マラリアにも生き残って、昭和21年に無事帰国。戦後はもとの大手電気会社の幹部としてあちこち転勤の生活を送り、最後は子会社の幹部を歴任した。大正デモクラシーの雰囲気の残った植民地台湾で生まれ育ったせいか、とても進歩的考えの持ち主。ために長いものにまかれろという思想はないため、会社でも度々上司とぶつかって左遷。しかし、家庭的には良い夫良い父であった。
母は、京大で工業化学を教え、ブドウ糖抽出法や合成繊維合成樹脂などの開発にあたった祖父の五女として生まれ、23歳で父と結婚。母方の祖父母がとても開明的な考え方であったせいか、母の思想もとても進歩的。両親はともに子供には厳しくはあるが、子供のやりたいことを自由にやらせ、暖かく見守るタイプの親であった。
父方は神奈川県小田原市酒匂の、東海道沿いに家を構えて野菜などを売ったり屋根大工をしてきた水呑百姓の家系。百姓というよりも商人・職人の感覚。祖父は小学校卒業後商家に丁稚奉公し、独学で高等小学校卒業資格を得て台湾に渡り、終生役人でおわる。長男なのに家業は継がず家を飛び出した格好。ただし父方の祖母の家系は、小田原市の浜町、かつては唐人町と呼ばれ、戦国末期から江戸初期にかけて中国人が大量に住み着いた町の商家の生まれ。
母方は、福井県越前市、当時は越前国越前府中(維新後に武生と改名)の出身。
母方の祖父・松本均は、越前福井32万石松平氏の付け家老である、越前府中2万石の領主本多家の首席家老の三男。曽祖父の死後、すでに東京で第一高等中学校で教諭をしていた兄(後に学習院女学部長・宮中顧問官となった教育者)の世話で東京に出て、長じて東大工学部で工業化学を専攻。大学院卒業後は京大で醸造学や高分子学の講座を担当して多くの弟子を育てた。曽祖父・松本晩翠は越前府中藩最後の家老。藩政改革を担い、戊辰戦争には越前府中藩兵250を率いて福井藩2000の兵とともに北陸戦線を転戦。明治2〜3年におきた、本多家家格騒動に端を発する武生騒動では、総裁としてことにあたり、自ら東京に赴いて新政府と交渉したり、交渉を有利にするために北海道開拓を行わんと北海道に渡ったりするも、暴動が勃発して首謀者として逮捕され、福井の獄に繋がれる。赦免後は福井県の今立郡長などをつとめた。
※越前府中の昔(武生騒動や松本家などについて)⇒ここ(チャオ・メイさんのサイト)
※福井県史近現代編1の武生騒動の記述⇒ここ
※松本晩翠の略年表など⇒ここ(工事中 09.9.03)
母方の祖母の家も、同じく武生の出身。越前府中藩の蘭方眼科医師の家柄。曽祖父の父は坂本竜馬とも交友あり。曽祖父・齋藤修一郎は、維新後初めての官費留学生としてアメリカのボストン大学に学び、帰国後外務省に入り、朝鮮事務や条約改正業務などに従事。さらに農商務省に移って、商工局長や次官を務めた。井上馨の右腕として動き、初期条約改正や、朝鮮外交に一貫して関る。退官後は、中国鉄道株式会社や中外商業新報(現日経新聞)などの社長をつとめ、最晩年には皇国殖民会社を起こして、ハワイ移民などに従事した。しかし、その傍らで生涯の仕事と任じた外交にも関り続け、早くからアメリカ西海岸への移民の推進や南洋への移民の推進を唱え、また外務省に入省した当時から将来の仮想敵国としてはロシアを想定して2年間ベルリン公使館付無任所参事官として欧州にいた間には、欧州の政界学会の人々と交流しながらロシアを巡る情勢を研究。外務省・農商務省退官後も、井上馨公使の下で朝鮮政府顧問をしたり、満州経営の充実などを掲げた帝国党結成に関ったり、茶業組合理事としてアメリカに渡って茶税の軽減をアメリカ政府に交渉したり、日露戦争後の1910年には早くもアメリカの世界支配の意図を喝破し対アメリカ外交の転換を提起するなど、終生外交には関り続けた。しかし帝国党結成時に他人がした高額の借金の連帯保証人となったため高額の借金(22万円・現在のおよそ20億円)を背負って破産した。
※齋藤修一郎と原敬⇒ここ(「原敬日記」抄の中に原の明治20年のフランス代理公使時代に修一郎の動向あり)
※パリ時代の原敬と齋藤修一郎⇒ここ(「原敬アラカルト1」の中の「65 原敬がパリで接触した人物 その2」6に齋藤の記述あり)
※国立国会図書館の近代デジタルライブラリー中の、齋藤修一郎の著書および関係図書検索⇒ここ(「近代デジタルライブラリー」の説明ページの検索バーに「齋藤修一郎」と入れて検索すると、著書・関係書が出てくる。全て読むこともファイルをコピーすることも可能)
※修一郎が設立した皇国殖民会社⇒ここ(国会図書館の電子映像のブラジル移民の項の中)
※齋藤修一郎研究シリーズ⇒ここ(NEW!10.7.20)
○趣味:
「写真」:
写真暦は34歳の時から。20年以上経過。主に花の写真を撮る。大部分は自宅の庭の花。ほぼ13000カットある。あとは生徒たちの活動の記録。定年になったら風景を撮りたい。とくに「塔」をモチーフにしたもの。自由が丘で毎年8月に個展を開催。
「花の栽培」:
中学生の時から栽培してきた庭の花は、約350種。花や庭木の世話に一年中追われる。
「音楽」:
中学時代から集めたLPレコードは360枚。CDが約100枚。演奏できる(上手くはない)楽器はバイオリン・ギター・リコーダー。
「美術館巡り」:
昔から好きだが、この10年ほど特にこっている。年に最大30回は見に行き、その感想と批評を書きとめる。
「読書」:
現在の蔵書数は約4500冊。主に『歴史』『社会学』『宗教学』『政治』。文学はほとんど読まない(図書館に入れる児童文学を除く)。
「天体観測」:
星は大好き。12.5cmの反射望遠鏡を所有。夢は天体観測ドームつきの別荘を持つ事。でもここ20年星を見ていない。
「書道」:
小学校の一年生から習った。2校目の時に授業を担当する事になり通信教育で2年ほど勉強。定年になったらじっくり学びたい。
「小説を書く」:
1997年から書く。きっかけは担当する図書委員会が主催した小説コンクール。現在2作目を執筆中。構想としてはあと4作ほどある。歴史小説をいくつか構想中。ペンネームは「鯖江 流(さばえりゅう)」。
「平家琵琶」:
2001年から、平家琵琶を聞きに通い、講座にも出席。2003年4月より習い始める。
「きもの」:
2002年秋より普段着として着物を着用。室町・江戸時代の武士の普段着であった「かるさん袴」。
○家族:母・そして庭の池に、大きなガマガエルが1匹。糸とんぼやアゲハチョウ・クロアゲハなどの昆虫も毎年庭で孵化する。