★齋藤 修一郎(1855‐1910)年譜 (2011年 川瀬健一作成 2014年修正)
2011年11月19日の朝河貫一研究会にて発表
1855(安政2)年7月12日(8月24日)、越前国府中(福井県武生市・現在越前市)本多家蘭方眼科医齋藤策順の長男として府中に生まれる。母は隣国越前鯖江藩士藤田謙十郎の妹フミ(修一郎の生年については戸籍謄本による。母の名前は、松本源太郎日記および長谷寺過去帳などによる)。齋藤家は越前府中本多氏に江戸時代初期から代々仕える医者の家系。代々策順を名乗る。修一郎の父策順(良兼)は、1874(文政7)年生まれ。母は本多家家老松本家の娘。15歳にして父(策順利兼・修五)の急死(36歳)により家業を継ぎ、京都に出て蘭学の大家日野 鼎哉に医学を学ぶ。医者としても優れ、越前の国に種痘を広めた一人であり、福井松平公のお目見え医師でもあった。また勤皇の志深く、福井公松平春嶽の懐刀として公武合体や幕府を諸侯の連合政権化する構想の実現に尽力した福井藩士橋本佐内とも親しく交わる。越前府中(明治になって武生と改名)の領主であった本多家は2万石を領し、越前福井藩の付家老として江戸初期に徳川家康によって息子結城秀康が福井の領主になったときに、その補佐兼目付として付けられた家老。福井藩の家老でありながらこの地域を独自に治め、幕府からも大名として認められ、江戸屋敷(本所松阪町)も幕末までもっていた。また江戸城に登城した際には譜代大名としての格式で遇せられていた。
1858(安政5)年9月27日。父策順が36歳で死去。この時修一郎は3歳。親族一同で協議した結果、まだ19歳であった妻フミは実家に戻し、修一郎の養育は策順の母が行うことに(フミは実家に戻った後に福井の青山家に嫁ぎ、息子・信太郎を産む。さらに後に武生の中村家に嫁ぎ、娘・ユメを産む)。また6歳以上でなければ家督相続はできないので、隣に住む親族の医師石渡宗伯(修一郎の母とは従兄)の末弟の石渡寛輔(当時大坂の緒方洪庵の適塾で塾頭をしていた)を急遽呼び戻して策順の死後の養子として家督を相続させた(9世策順道兼)。(修一郎に異父弟・異父妹がいたことについては、藤田四郎の明治43年5月31日の原敬宛手紙[原敬関係文書第3巻所収]による)
1864(元治元)年に斎藤寛輔が35・6歳で死去したため、修一郎は数え12歳で家督を相続。
1865(慶応元)年5月14日。修一郎の祖母が死去。修一郎数えで13歳。この時から父策順の弟で同じく本多家医師である大雲金作(嵐渓)に養育され、学問を授けられる。この後一念発起して勉学に励んだと懐旧談は語る。この頃「藩校」立教館に入学か。
1867(慶応3)年、主君本多氏の面前で経書を講義し、学力品行優秀により賞与を受ける。
1869(明治2)年、版籍奉還に伴って旧藩主は藩知事となり引き続き治世を行うこととなったが、本多氏は藩主と認められず越前府中は福井藩の支配を受けることとなる。これに反対する運動が起き東京の弾正台へ訴えることとなり、修一郎も運動に加わり血判誓詞をなす。
1870(明治3)年3月、修一郎は福井藩の私費留学生として静岡藩(旧幕府)の沼津兵学校付属小学校に入学。英学・数学・漢籍などを学ぶ。学費月10円は叔父大雲金作(嵐渓)が出す。8月、江戸で逮捕された府中町民の奪還を巡って町民と福井藩兵が衝突(武生騒動)。叔父大雲金作(嵐渓)や父策順の従弟竹内円、さらには策順の妹が嫁いでいた家老高木氏など本多家の主だった面々は捕縛され福井へ連行獄に入れられる。その後叔父大雲金作(嵐渓)が獄死したため学費は完全に途絶。後武生騒動の顛末を新政府が知り、捕縛者は全員釈放され、武生騒動は一件落着。武生に戻った伯父高木氏の援助で学費を出してもらう。10月、福井藩選出の貢進生として東京の大学南校(後開成学校、後の東京大学)に学ぶこととなる。
1871(明治4)年、有志とともに学校の学制改革を提案。提案を文部省が入れ、7月、大学南校は生徒を半減させ、南校となる。
1872(明治5)年、学制発布に伴い8月、南校は第1大学区第1番中学となり、英仏独三ヶ国語による普通教育の学校に変わる。
1873(明治6)年10月9日、第1大学区第1番中学は開成学校に改称され、法学、理学、工業学、諸芸学、鉱山学の課程が置かれ、修一郎は法学部予科3年に編入。その開成学校の開所式にて明治天皇の前で、法学部代表として講演を行い、法律の起源について英語で論じる。翌月11月29日開成学校を訪れた皇后の前でも法学部代表として歓迎の言葉を述べ、記念品として、ギゾーのヨーロッパ文明史英訳本を賜る(御前講演などの件については「大学学生遡源」橋本南漁著:明治43年5月日報社刊による。記念品については、松本源太郎著「懐旧談を読む」武生郷友会誌第39号大正7年7月刊掲載による)。12月、官費留学生一斉引き上げ命令。文部省の官費留学制度廃止。
1874(明治7)年4月、開成学校教師グリフィス William Elliot Griffis(化学と英語を教わる)の求めに応じて英文で「自伝」と「歴史叙述論」を書く(ラトガース大学 Rutgers University のアレキサンダー図書館 Alexander Libraryが所蔵する、グリフィス・コレクション The William Elliot Griffis collectionの中の、生徒作文 Student Essays 319編にある)。7月に有志とともに海外留学運動を起こし、建白書を文部省に提出。
1875(明治8)年5月、文部省が留学生制度を復活。ただし貸費で。7月留学生が選出される。この時選出された留学生は、法学部からは齋藤、鳩山和夫、小村寿太郎、菊池武夫の4人、理学部からは長谷川芳之助、松井直吉、南部球吾の3人、工学部からは原口要、平井晴次郎の2人、諸芸学部(仏蘭西部)からは古市公威、鉱山学部(独逸部)からは安東清人の11人。7月法学部本科 1年を修了し、5年ぶりに故郷武生に戻り、義兄寛輔の遺児郁次郎13歳を弟として引き取り、東京の知人に預ける。8月、第1回文部省貸費留学生として米国留学に出立。10月、ボストン大学法学校(3年制)の2学年に編入。(修一郎のボストンでの動向や成績については、留学生監督・目賀田種太郎の文部省への報告文書・中央大学史資料集第3集1988年刊による。以下同じ)。
1876(明治9)年6月、ボストン大学法学校2学年を優秀な成績で修了。7月、フィラデルフィア万博を見学。帰路ワシントンに立ち寄り、議会を見学。
1877(明治10)年6月、病気のため卒業試験を受けられず留年。この頃日本の小説の英訳を志す(「忠義浪人」・The Loyal Roninsの序文による。以下この書については同じ)。
1878(明治11)年6月、ボストン大学法学校を優秀な成績で卒業(52人中13番)。次の一年間は、先に卒業した菊池武夫とともにボストン大学に通い、憲法学と議院法を学ぶ。
1879(明治12)年夏、為永春水の「いろは文庫」英訳を決めて取り組むも進まず。以後の一年間は、ボストンの弁護士ポール・ウエストの下で弁護士の実務を学ぶ。10月、イギリス人の作家・貿易商エドワード・グリー Edward Greeyの存在を知り文通を始める。
1880(明治13)年、1月エドワード・グリー Edward Greeyに「いろは文庫」英訳のことをはかり、彼の援助を得て英訳を完成し、「忠義浪人」・The Loyal Ronins(G. P. Putnam’s Sons. New York, 1880)と題して8月にニューヨークで出版。後の大統領セオドア・ルーズベルトに日本人のイメージを強力に植えつけるきっかけとなったと、最近注目されている(松村正義著「日露戦争100年」2003年成文社刊など)。9月帰国。当初は新聞もしくは雑誌の創刊を目論むも果たせず、郷里武生の先輩で外務省大書記官であった渡邉洪基の仲介で11月、外務権少書記官公信局通商課長勤務を振り出しに外交官となる(修一郎の官歴については「履歴書」・武生郷友会誌第32号・1910年12月刊による。以下同じ)。しかし仕事は少なく、神田の明治義塾で法学論を講義する。
1881(明治14)年2月、木場の材木商・山田庄兵衛の長女キク14歳と結婚。12月、公信局通商課長のまま外務卿附書記を兼ねた。「明法志林」に「保伊頓氏国際法沿革史」を翻訳連載。
1882(明治15)年5月、長女元誕生。8月、外務少書記官・朝鮮事務係となり井上外務卿に従って下関まで出張し、朝鮮で起きた排日運動壬午軍乱の事後処置を行う(この時新聞記者であった原敬と、渡邉洪基門下であった時代以来の再会を果たし以後生涯の友となる。後に原を外務省に推挙する)。
1883(明治16)年4月、外務省を辞め、米朝修好条約締結のための朝鮮国の英語通訳官養成の任をおびて朝鮮にわたる(李漢燮「朝鮮の遣米使節団における通訳の問題」アメリカプリンストン大学博士論文集による)。8月、帰国し、外務少書記官・外務卿付書記官に復職。
1884(明治17)年8月、外務権大書記官となり、12月、特派全権大使となった外務卿井上馨に随行し朝鮮に行く(この時韓国で日本軍の援助でクーデターが起こり親日政権が出来たが、清国軍の介入でクーデターは失敗し、そのあおりで再び公使館が焼かれるなど在韓日本人にも様々な被害が及んだ−甲申事変−ので、その事後処置とるため朝鮮に出張した。この頃、中上川彦次郎、藤田四郎、都筑馨六とともに、井上馨の四天王といわれた)。
1885(明治18)年2月、次女亨誕生。3月、当時進められていた条約改正事務を執り行う。4月、翻訳局長を兼ねる。9月、裁判権に関する取調主務となる。12月、外務大臣官房長を兼ねる。
1886(明治19)年1月、異父妹中村ユメを養女とし、母フミとともに東京の家に引き取る(戸籍謄本および松本源太郎日記による)。1月、三女利誕生。3月、第一次伊藤内閣の外務大臣秘書官・総務局政策課長兼務。外国公使と外務省・法務省幹部が条約改正案を審議する条約改正会議の書記官長を務める。11月、ベルリン公使館参事官としてアメリカ経由で渡欧(秘密裏に行われた条約改正案が外部に漏れ、欧米に屈した国辱ものとの非難にさらされ、事態を収拾するため修一郎が責任をとって辞任。渡欧の目的としては当時シベリア鉄道建設を計画していたロシアの動向を探るためか。同じ時期にベルリン公使館にいた人物としては、同じ目的できた公使館付武官の福島安正少佐−情報将校・のち陸軍大将−がいた)。ベルリン在職中、モスクワ・パリ・ロンドンなどを訪れ、駐仏臨時公使の職にあった原敬と旧交を温める。この間に条約改正問題は紛糾し井上も外務大臣を辞任。
1888(明治21)年6月、ハンガリーの旅行家・学者のヴァームベーリにロシア情勢およびそのための参考書籍を問い合わせる(稲野強著「ベルリンからの手紙・1888年−失意の外務官僚、齋藤修一郎小伝−:1994群馬県立女子大学研究紀要第15号による」。10月、井上の農商務相就任(黒田内閣)により請われて帰国。農商務相秘書官、商工局長を兼任(外務省を辞めたくなくて復職工作をしたが、時の外務大臣大隈重信に説得されて辞職。農商務省に転勤)。10月以後、井上馨らとともに自治党結成を図る(翌年の黒田首相の超然主義表明や山県有朋の反対のために結党準備は進まず、1889年夏には事実上頓挫する)。この頃以後、井上の右腕と称せられる。 また大隈外務大臣の下での条約改正交渉のために9月から翌年1月にかけて各国公使らと連絡をとる(井上馨宛修一郎書翰:国会図書館憲政資料室蔵井上馨関係文書による)(条約改正案が外部に漏れ−リークしたのは外務省局長・小村寿太郎−、国辱ものとの大反対が起き、今回も改正は頓挫)。
1889(明治22)年2月24日、武生郷友会会合にて洋行中の話を報告し、ロシアの脅威について述べる(松本源太郎日記および土肥慶三談:武生郷友会50周年記念誌掲載による)。3月〜4月、福井県の視察と武生での父策順・義兄寛輔・恩師松井耕雪の法要のために帰郷(松本源太郎日記および、「文苑」:武生郷友会誌第16号:明治31年1月刊による)。5月5日、武生郷友会会合にて越前7郡視察について報告(武生郷友会誌第1号明治23年5月刊による)。5月、商工局長専任となる。7月、長男惟馨誕生。8月、養女ユメ、沼津出身の坂本ト五郎と結婚。8月第三回内国産業博覧会事務委員を兼任。9月、東京職工学校委員を兼任。10月工務局長を兼任。
1890(明治23)年4月4日の英和女学院校長夫妻殺傷事件に際しては、徳富蘇峰に宛てて手紙を書き、国粋主義に対抗する大デモンストレーション挙行を提言(明治23年4月5日徳富蘇峰宛修一郎書翰、神奈川二の宮徳富蘇峰記念館蔵:山川出版刊「徳富蘇峰関係文書」所収による)。5月、東京市区改正委員を兼任。7月、郡区長試験委員、農務局長、中央衛生会議臨時委員を兼任。12月、度量衡法案政府委員を兼任。
1891(明治24)年3月、次男周二誕生。8月、兼務を解かれ商工局長専任となる。12月臨時博覧会評議員を兼任。
1892(明治25)年4月、高等商業学校商議委員を兼任。11月、鉄道会議委員を兼任、三男洪三誕生(12月死亡)。
1893(明治26)年3月、第二次伊藤内閣の下で、農商務次官となる。4月、第四回内国博覧会事務官長、臨時製鉄事業調査委員会委員長を兼任。12月、四女貞誕生。
1894(明治27)年1月退官(前年の12月に、衆議院議長星亨の汚職事件に伴い株式取引所設立にからむ農商務省の汚職事件が当時の政界の派閥対立を背景にして起こり、伊藤内閣に反対する勢力・国民協会が、官吏が汚職を行っていると明治天皇に上奏し、慎めとの勅命が出されて、責任をとる形で、後藤象二郎農商務大臣とともに辞職・金時計事件。この時井上馨が再度外務大臣に復職するとの可能性が取りざたされ、そうならば再び外務省に復職して無任所公使として欧米を見てこようと考えて農商務省を辞職。しかしその後朝鮮情勢が緊迫して井上は駐韓国公使として赴任したため、外務省復職はならなかった)。辞職後の10月、駐韓国公使となって朝鮮政府を親日化させるために動き出した井上馨の秘書官として韓国に渡り、韓国政府の内部顧問を務める(明治27年 11月から28年10月。時は日清戦争の直後。ロシアの南下を防ぎ、韓国市場を中国・清から奪い取るために、朝鮮政府を親日派に変える動きが活発化。その参謀格の人々の一員として韓国へ。在任中の明治28年10月8日、井上公使に代わって赴任した駐韓公使三浦吾郎の指揮の下で日本軍によるクーデターが勃発し、韓国国王の王妃である閔妃暗殺事件が起こったため、召喚される)(「高橋是清自伝」:1976年中央公論文庫刊に韓国に渡った事情が記される。杉村濬著「在韓苦心録」、小早川秀雄著「閔后暗殺」などに修一郎の様子が記述されている)。
1895(明治28)年10月17日帰国。20日には再度朝鮮へ(神戸又新日報記事、松本源太郎日記による)。弁理公使となって渡韓した政務局長小村寿太郎の事後処置に協力したものか。11月ごろ帰国か(松本源太郎日記による)? その後実業界に転じ、中国鉄道株式会社社長を務める。
1896(明治29)年8月、四男吉備彦誕生。
1897(明治30)年9月から中外商業新報(後の日経新聞)社長を務める(発行元の合資会社商況社・資本金5万円に3000円出資して社員となり、業務担当社員=社長となる)。明治31年12月10日まで(「日経新聞80年史」1956年刊による)。
1898(明治31)年3月、長女元が外交官河西信と結婚。4月五女良子誕生。9月から米穀取引所二代理事長となる。明治33年まで(石田朗著「東京の米穀取引所戦前の理事長」:1992年10月東京穀物商品取引所刊による)。この間、帝国党創立に関わり、中外商業新報社長室は、政党事務所の如くになる(「日経新聞80年史」1956年刊による)。帝国党とは、議会が自由民権政党の系統で牛耳られていることや、その一つ自由党と伊藤博文が提携して立憲政友会を結成し、旧改進党系は自由党の一部と提携して大隈重信を党首に憲政党を結成。こうした維新元勲の一部が自由民権系政党と組むことに対して、官僚出身者を中心に国体護持や陸海軍の充実、満州韓国経営の推進を掲げて1899年7月に出来た政党で山縣内閣や第一次桂内閣などの与党の一部を形成した。結党に当って修一郎はその費用の一部の30万円を借金して工面(「大学学生遡源」橋本南漁著:明治43年5月日報社刊による)。そのため、赤坂区青山高樹町の本宅と赤坂仲ノ之町18番と赤坂氷川町の別宅を売り払い、残った金で青山北町4丁目105番の家を購入して転居したものか(松本源太郎日記および武生郷友会誌会員名簿による)。
雑誌太陽:1898・明治31年12月5日 第4巻24号に「外交論」を寄稿。
1899(明治32)年、7月帝国党結党、総務委員となる。12月帝国党委員として宗教法案提出に関る。
1900(明治33)年、現在の北海道磯谷郡蘭越町内の目国内の原野を借り受けたか?(蘭越町のサイトの町史によるhttp://www.town.rankoshi.hokkaido.jp/modules/tinyd0/print.php?id=52。ただし元資料が行方不明なので、原野を借り受けた「福井県人斉藤修一郎」が当人なのかは確認できない)
1901(明治34)年7月、次女亨、森傳吉と結婚(36年7月離婚)。10月三女利、修一郎の父方のまたいとこで京都大学工学部助教授の松本均と結婚。11月、五男順五誕生。12月10日には茶業組合の理事としてアメリカの輸入茶への関税撤廃を働きかけるため渡米(武生郷友会誌第23号:明治35年12月刊の記事による)。この頃までに意見の違いから帝国党を離党したか?(明治37年国鏡社刊「立身致富信用公録 第17編」による)
1902(明治35)年。雑誌太陽:1902・明治35年5月5日 第8巻5号にアメリカより「北米太平洋岸と日本人」を寄稿。5月27日アメリカより帰国(武生郷友会誌第23号:明治35年12月刊の記事による)。8月1日には、博文館より「米国商工大勢論」を出版。米国前大蔵次官ブァンダーリップ氏著「米国商業の欧州侵略」と題する論文を翻訳したもの。11月26日、義甥の齋藤郁次郎(神戸米穀株式取引所社員)死去(39歳)
1903(明治36)年、雑誌太陽:1903・明治36年2月1日 第9巻2号に「世界的強国としての独逸」を寄稿。雑誌太陽:1903・明治36年7月1日 第9巻8号に「独逸皇帝の人物」を寄稿。これはアメリカの週刊雑誌の記事を翻訳したもの。雑誌太陽:1903・明治36年11月1日 第9巻13号に「露国の半面観」を寄稿。これもアメリカの週刊雑誌の記事を翻訳したもの。11月、皇国殖民株式会社を有馬組の森清右衛門、名古屋の森本善七、其の他平山靖彦、吉田弘蔵等と設立して、業務担当社員(専務)となり、アメリカ移民事業(主にハワイ)に携わる(有磯逸郎〔横山源之助〕著「我が移民会社」(『商工世界太平洋』第5巻23号 明治39年11月15日刊による)。
1904(明治37)年、雑誌太陽:1904・明治37年4月1日 第10巻5号に「戦争の価値」を寄稿。日露戦争に批判的姿勢を示す。5月、六女桂子誕生。この年、日露開戦直後に、駐オーストリア公使の牧野伸顕がハンガリーの学者・ヴァームベーリに依頼してロシアや独逸が展開する「黄禍論」を批判する「黄禍」を出版させるが、これを仲介したのは修一郎か(ヴァームベーリ「黄禍」の内容と出版経緯については、稲野強著「日露戦争期における一西洋人の日本観」:群馬県立女子大学期用29号2008年刊に詳しい。稲野氏は仲介者は徳富蘇峰と推測したが、ヴァームベーリが本書に「東京の古い友人からの手紙」が彼をして本書を書かせたと示唆しているが、5・6年前にあった蘇峰より、16年前にあった修一郎のほうが「古い友人」に相応しいし、牧野が同じハンガリーのシュトラウスにパンフ執筆依頼をして断られ外務大臣小村に相談してのちにヴァームベーリに白羽の矢が立ったという経緯から、仲介者は修一郎と川瀬が推測)。
1905(明治38)年2月、帝国党結党の際の他人の借金およそ22万円が連帯保証人であったためふりかかり、返済のために八方手を尽くす(借金が降りかかった日時は松本源太郎日記に、その事情と金額については土肥慶蔵の証言「私と齋藤先生」:大正14年武生郷友会誌第47号と、蚤坊こと親族の瀬尾昭の証言「齋藤修一郎先生を憶ふ」:大正14年武生郷友会誌第47号による)。4月、皇国殖民株式会社専務として第一回のブラジル移民に取り掛かる(前掲有磯逸郎〔横山源之助〕著「我が移民会社」による)。
1906(明治39)年9月、皇国殖民株式会社専務を退任(前掲有磯逸郎〔横山源之助〕著「我が移民会社」による)。
1907(明治40)年、借金を返せず破産、全財産を失う(破産は6月から10月ごろか)(破産の時期については、借金取りが家に押しかけ赤紙を貼っていく様子を語った蚤坊こと瀬尾昭が修一郎邸に書生として同居していた時期を武生郷友会誌の会員住所録で確認して推定)。以後借家を転々とする。10月渡米を前にして、子供達に自分の半生を語る(懐旧談)。
1908(明治41)年3月4日アメリカに渡り(日時は松本源太郎日記による)、サンフランシスコで日本人学生の世話人のような仕事をする。9月9〜11日、欧米視察旅行中の原敬がサンフランシスコに到来したのでその宿所を度々訪問。修一郎がアメリカ東部に移るための旅費として100弗もらう(原敬日記による)。12月、「懐旧談」を出版(死後の1917・大正6年武生郷友会誌で再版。この懐旧談初版は国立国会図書館の近代アーカイブスで見られる)。渡米の目的は不明。「大学学生遡源」の23「復活せんとする齋藤」に「自分も先生(杉浦重剛)のようなことをやってみたいと思い、まづ物質的資料を得るの目的をもって先年米国に渡れり。而も事業未だその緒に就くにも及ばずして帰朝せるが、遠からず再び渡米して素志の貫徹に勉る考えなり」との明治42年12月4日の小石川久方町の杉浦宅での第27回称好塾記念会での修一郎の発言を伝える。彼の渡米中の留守家族の生活は、友人知人親族らが齋藤家留守宅財政委員会を作って有志から基金を集める。その額はおよそ9000円。月100円留守家族に支給。有志の中には小村寿太郎や原敬など親友達が名を連ね、財政委員会代表は友人の藤田四朗。親族代表は父方のまたいとこ・松本源太郎(当時・学習院女学部長)(藤田四郎らの原敬宛明治43年5月31日手紙・原敬関係文書第3巻による)。留守中に修一郎次女亨が千葉館山の豪商・瀧口政太郎と再婚するが、結婚費用800円は親族・知人・友人の拠出金で賄う(松本源太郎日記による)。
1909(明治42)年10月26日帰国(日時は松本源太郎日記による)。
1910(明治43)年、雑誌日本及日本人第524号1910・明治43年1月1日に「いろは文庫の英訳」を寄稿。雑誌日本及日本人第530号1910・明治43年4月1日に「米国の侵略的径路」を寄稿し、満州を植民地化しようとする日本の外交を批判し日米戦争を警告。5月6日東京の麻布区笄町38の借家にて死去(56歳)。「国民新聞」に徳富蘇峰が弔辞を掲載(「齋藤修一郎君−東京だより」徳富猪一郎著「第一人物随禄」大正15年5月1日民友社に掲載)。墓所は麻布長谷寺。
修一郎死後の財政委員会報告では、拠出金残高+香典で総額7065円。明治43年6月以後は毎月70円を遺族に拠出し、未成年の子供たちの多くは親族が養育することになる(4女貞⇒3女利の夫均が養育。5女良子⇒長女元の夫河西信と3女利の夫松本均が養育。3男吉備彦⇒親族土肥慶蔵が養育。5男順吾⇒親族瀬尾嵐が養子の目的で養育。修一郎母フミ⇒異父弟青山信太郎・異父妹婿坂本ト五郎が引きうけ。妻キクの元に残ったのは長男惟馨・次男周二と6女桂子のみ)。財政委員会委員長は藤田四朗。親族代表は松本源太郎。修一郎の墓所も、財政委員会に基金を寄せた友人・知人・親族等の拠出金で建設された(浅田徳則・藤田四朗の原敬宛明治44年1月24日手紙・原敬関係文書第1巻による。葬儀の様子は原敬日記の明治43年5月9日の項に詳しい)。
● 第1回総選挙(1890・明治23年)には郷党の強い出馬要請を辞退。中央での活躍のほか、郷里武生のために、武生出身者で東京で勉学に励む学生を援助する会である武生郷友会を結成したり(1887年明治20年結成)、明治23年(1890)には郷友会の副会頭に就任したりと、いろいろと尽力した。男爵にとの話があったが(日清戦争終結後か?)断る。生前従4位勲3等を得、死後正4位を得たが、その墓碑にはこれらの位階勲等は記されず、ただ「齋藤修一郎の墓」と松本源太郎の筆で記されるのみ。この点は、親友の原敬の墓碑と同じで、二人の思想の共通性が伺われる。半狂酔人、半狂学人、談笑門人とも号す。
● 齋藤修一郎について論じた主な書籍・論文
1:木村毅著「日米文学交流史の研究」(1960年講談社刊)
2:唐沢富太郎著「貢進生−幕末維新期のエリート」(1974年ぎょうせい刊)
3:稲野強著「ベルリンからの手紙・1888年−失意の外務官僚、齋藤修一郎小伝」(1994年群馬県立女子大学紀要第15号掲載)
4:山下英一著「グリフィスと日本−明治の精神を問いつづけた米国人ジャパノロジスト」(1995年近代文芸社刊)
5:松村正義著「日露戦争100年−新しい発見を求めて」(2003年成文社刊)