『いろは文庫』の英訳A−齋藤修一郎と「忠臣蔵」の密接な関係


     川瀬健一


 齋藤修一郎が日本を代表する小説として「忠臣蔵」を選んだ理由について、木村毅は、英訳版に付された著者はしがきに「幼い日々母に47人の浪人の話をしてもらった」との記述があることを根拠に、齋藤が幼い時からこの話に慣れ親しんでいたことを指摘した。しかし齋藤と「忠臣蔵」との関係はこれに止まらない。彼が属する越前府中本多家は福井松平家の付家老であり大名並の扱いをうけていたので江戸に屋敷を賜っていた。ちょうど赤穂事件が起きた当時の本多家江戸屋敷は本所松阪町にあり、事件後にその隣家に吉良上野介が移転してきた。それゆえ本多家には、浪士の討ち入りに際して塀際に高張提灯を掲げて浪士を支援したとの話が伝わっている。また、討ち入った浪士の重鎮・堀部弥兵衛の妻は、本多家江戸屋敷留守居の忠見扶右衛門の妹であり、忠見家には弥兵衛の養子の安兵衛は忠見家から堀部家に養子に入ったとの伝承とともに、堀部父子が討ち入りに際して使用した鑓や絵図面と遺書が残されている。これは忠見家の三男四男が堀部家の養子ともなっていたことによる。齋藤修一郎が所属した越前府中本多家と赤穂浅野家とは浅からぬ因縁があったゆえに、他藩以上に「忠臣蔵」に対する思い入れは深かった。だがこれ以上に重要なのは、修一郎自身が「忠臣蔵」と同様に主君のために命を投げ出さざるを得ない事態に遭遇したという事実が存在することだ。1870(明治3)年に起きた本多家家格回復問題と武生騒動である。大名並に扱われた本多家は版籍奉還に伴って士族とされ250年続いた府中領支配権を福井藩に奪われた。この際修一郎は家臣団と共に誓詞血判して主君に忠節を誓ったが、本多家を華族・藩知事として旧に復せとの本多家家臣領民の願いは福井藩と新政府によって無視され、怒った府中領民が福井藩役所に乱入して破壊する事件が起きてしまった。福井藩は本多家家格回復を図る旧家臣団が領民を教唆して打ち壊しを行ったと判断し、本多家の主だった家臣多数と領民多数を福井に連行し連日拷問にかけ、家臣2名と領民17名が獄死し、領民2名が処刑された。獄死した2名は、齋藤の叔父とその従弟であった。本多家は1879(明治12)年1月に華族と認められたが、事件で死亡した人々の名誉は回復されないままであった。本多家が華族となった直後の夏に、修一郎は『いろは文庫』の英訳を決意している。英訳を決意した背景には、赤穂「義士」は1869(明治2)年に天皇によって賞賛されたが、府中の家臣と領民の名誉は未だに回復されていないとの修一郎の思いがあったに違いない。(2012年11月10日日本英学史学会本部例会報告概要)


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