破産してもなお外交にこだわった男・齋藤修一郎
−「失意の外務官僚」像の再検討−
会員 川瀬 健一
はじめに:問題の所在
私の母方の祖母・松本利の父親は齋藤修一郎(1855‐1910)。
彼は、安政2年7月12日(1855年8月24日)に、越前国府中(現福井県越前市)の福井藩付家老本多家家中の蘭方眼科医齋藤策順の長男として生まれた。母は隣国越前鯖江藩士藤田謙十郎の妹フミ1。長じて沼津兵学校付属小学校・大学南校・南校・第一番中学・開成学校において、英学を通じて西洋の学を学び2、1875(明治8)年8月開成学校法科1年修了後に、文部省第一回貸費留学生としてアメリカボストン大学法学校 Boston University Law Schoolに学んだ。1880(明治13)年の帰国後は外務省に入って、井上外務大臣の秘書官兼政策課長兼条約改正会議の書記官長として不平等条約改正作業に従事したり、朝鮮における日本軍のクーデタ未遂事件などの処理をした。その後1888(明治21)年に外務省から農商務省に移り、農商務大臣となった井上馨の秘書官兼商工局長をつとめ、1893(明治26)年には農商務次官となって翌年1894(明治27)年1月に退官した。以後は実業界で活動した。3
齋藤修一郎は明治中・後期の時代においてかなり有名な人で、1910(明治43)年5月の彼の死後、徳富蘇峰は5月13日の「国民新聞」紙上に「齋藤修一郎君−東京だより」として同情的で丁寧な弔文を寄せている(後に徳富猪一郎著『第一人物随録』大正15年5月1日民友社刊に掲載4)。しかし今では彼の名前はほとんど忘れ去られ、子孫ですら、その業績を詳しくは知らない状態になっている。
戦後に齋藤修一郎について論及した学者は、私が知る限りでは五人と少ない。
一人は『日米文学交流史の研究』(1960年講談社刊)を著した木村毅。
二人目は『貢進生−幕末維新期のエリート』(1974年ぎょうせい刊)を著した唐沢富太郎。
三人目は、「ベルリンからの手紙・1888年−失意の外務官僚、齋藤修一郎小伝」(1994年群馬県立女子大学紀要第15号掲載)を著した稲野強。この論文は、著者が日露戦争当時対露工作をハンガリーの旅行家・学者のヴァームベーリに依頼した牧野伸顕(駐オーストリア公使)を調べていて、その16年前にヴァームベーリVambery Armin(1832‐1913)に接触した齋藤を発見して、彼の小伝を著したもので、学問的な修一郎小伝としては唯一のものである。
四人目は、『グリフィスと日本−明治の精神を問いつづけた米国人ジャパノロジスト』(1995年近代文芸社刊)を著した山下英一。この書では沼津兵学校付属小学校時代の修一郎について論じられている5。
五人目が、『日露戦争100年−新しい発見を求めて』(2003年成文社刊)を著した松村正義。この本では日露講和の背景にはセオドア・ルーズベルト Theodore Rooseveltを突き動かした書物として、齋藤修一郎とエドワード・グリーEdward Greeyが共同で為永春水の『いろは文庫』(赤穂義士伝)を英訳した『忠義浪人』・『The Loyal Ronins』(G. P. Putnam’s Sons. New York, 1880)があったと、この逸話を始めて発表した外交史家・信夫淳平の『明治秘話二大外交の真相』(1928・昭和3年萬里閣書房刊)と戦後にこれを紹介した木村毅の著作および稲野強の論文を引用して、齋藤修一郎について詳しく紹介した6。
だが、齋藤修一郎について最も詳しく書かれた稲野強の論文では、彼の人生は、1888(明治21)年の外務省退官で終わっており、それ以後の20年間は失意の人生であったと記述したので、これを踏襲した松村正義の著書でも同様の趣旨で記されている。
しかし齋藤修一郎についての諸資料にあたってみると、1888(明治21)年以後のほうが齋藤修一郎の人生にとって「華」であり、農商務省時代の彼は、木村毅が「農商務次官として大臣以上の真価があると評された」と紹介したことが正しい。また後に詳しく紹介するが、齋藤修一郎は1888(明治21)年の外務省退官後も外交に関り続けており、外交について論及した多くの雑誌論文も存在した。
ではなぜ、稲野強の「齋藤修一郎小伝」は、1888(明治21)年の外務省退官を持って彼の人生は幕引きされ、以後は「失意の人生であった」としたのか。
これは、齋藤修一郎自身がその著書『懐旧談』においてそう語っているからであり、この伝記的研究は、修一郎の『懐旧談』に全面的に依拠して書かれたからであった7。
本報告は、まず、稲野強の論文とは異なり、齋藤修一郎が外務省退官後も継続的に外交に関ってきたことを史料に基づいて明らかにする。その後に、新発見の史料である「松本源太郎日記」などに依拠しながら、『懐旧談』が書かれた当時の齋藤修一郎の置かれた状況と心境とを復元することで『懐旧談』の資料的性格とその限界を明らかにする。なぜならば、このようにしてはじめて、修一郎が『懐旧談』で、外務省退官後は失意の人生であったと語った理由が明らかになるからである。
なお、「松本源太郎日記」を書いた松本源太郎は、齋藤修一郎の父方の又従弟で、修一郎と同じ越前府中本多家の家老・松本晩翠の長男である8。
1:外務省退官後の修一郎と外交との関り
(1) 外務省退官の事情
齋藤修一郎は、1886(明治19)年3月に、第一次伊藤内閣の外務大臣・井上馨のもとで、彼の秘書官兼総務局政策課長となり、井上の主導下で進められた条約改正会議の書記官長として条約改正作業に没頭していた。しかし秘密裏に進められた条約改正案が外部に漏れ、それが大審院に外国人判事を採用することを交換条件として領事裁判権を撤廃する内容であったことから、国内から厳しい批判を受けた。このためこの件で混乱が生じ内閣が立ち行かなくなることを憂いた修一郎は、機密漏洩は自分のミスであるとして書記官長を辞任9。その直後の10月末に、ベルリン公使館参事官としてアメリカ経由でヨーロッパへ赴任した。ベルリンでの修一郎は、シベリア鉄道建設を計画して着々とアジアへの侵出を目論んでいたロシアを巡る情勢を調べるため、モスクワ・パリ・ロンドンなどに足を運ぶとともに、ロシア通のハンガリーの学者・ヴァームベーリと文通するなど活動していた10。さらに公使西園寺公望とともにしばしばパリに遊び、そこで旧知の友でパリ駐在臨時代理公使をしていた原敬と会ったり、大学南校−開成学校時代の学友で当時美術品の輸出会社・起立工商会社社員でパリ万博の通訳として来ていた林忠正らと交友を深めていた11。
しかし、1888(明治21)年8月に井上馨が農商務大臣として黒田内閣に復帰するとともに、齋藤に秘書官として農商務省へ移れとの電報がベルリンにもたらされた。修一郎は外務省を辞めたくなかったので帰国した後、時の外務大臣大隈重信に残留を交渉したが、「井上さんの申し出を断るわけにはいかない」との大隈の言で断念し外務省を退官。農商務省に移って大臣秘書官となり、やがて商工局長を兼任して農商務省官僚として活動することとなった12。
(2) 農商務省時代の外交との関り
農商務省で官僚として活動しながらも、修一郎が外交に関っていたことは、国会図書館憲政資料室蔵井上馨関係文書に収められた井上馨宛の齋藤書簡から確認することができる。その概要を示すと、「プリンタリー・アルウィン両名ヨリ得タル米・英・仏・伊・漢・独・露各国ノ情報」を具申したり(明治22年10月9日書簡)、「大隈遭難」後の善後策についてプリンタリーに面談して英国の意向を聞いて「英ハ自ラ改正事業ヲ破ルコトナシ 英ハ大隈支持他ニ求ムレバ伊藤伯ナラン 大隈退任ハ外国ヘ衝撃多シ 反対ハ経済論カ憲法論カ 外国人裁判官任用ニ修正案数種アルト聞ク 英ハ全廃ノ意ナリト」と報告したり(明治22年10月22日書簡)、「外国公使・外国人ノ条約改正問題観測」をアルウィンに尋ねて「改正談判急グ必要ナシ 方針決定前デニソント自分トノ意見ヲ徴セヨトイウ」と報告(明治22年11月19日書簡)したりしていた。
つまりこの時期、外務大臣となった大隈重信の下で、井上外務大臣時代に進められていた条約改正交渉が継続されていた。その過程で修一郎は、おそらく外交を自分の専売特許と考えていた井上馨の意を受けたものであろうが、前回の交渉に密接に関った者として、各国公使館員(プリンタリーとアルウィン)や外務省のお雇い外国人・デニソンと打ち合わせたりして、情報収集や意見交換をしていたことがわかる13。しかもこの手紙にも出てきているが、前回と同じく今回も秘密裏に進められていた条約改正案が新聞紙に掲載されたことをきっかけに国内から強い反対を受け、その結果、外務大臣大隈重信が襲われて重傷を負ったのだが、この事件の善後策まで論議し井上に報告している14。
なお外交課題ではないが、この時代修一郎は、井上馨が進めていた自治党結党の事務局的存在も務めていた15。
(3) 農商務省退官後、韓国内部顧問時代
齋藤修一郎は、1893(明治26)年3月に第二次伊藤内閣の下で農商務次官となった(大臣は後藤象二郎)。しかしこの時、星亨率いる自由党と伊藤内閣が連携したことに対して、右からは政党との連携を嫌う山県有朋に連なる国民協会から、そして左からは民権派の大隈率いる改進党から伊藤内閣の要人らが、次々と激しい攻撃を受けた。一つは自由党の重鎮で衆議院議長であった星亨の収賄事件であり、もう一つは、おりしも議会の審議を経て成立した「取引所法」に基づいて取引所設置が農商務省によって認可されつつあったが、認可に際して農商務大臣と次官が賄賂をもらって認可に手心を加えたと改進党と国民協会から激しく攻撃された事件である。修一郎は東京米穀取引所の開所記念としてもらった金時計が賄賂にあたると議会審議や新聞紙上で非難された。そしてこの事件は政府反対派によって明治天皇に対して上表文が出され、天皇より農商務省の官吏の腐敗を戒めて慎めとの勅令が出されたことにより、大臣後藤象二郎と次官齋藤修一郎は辞任に追い込まれた。1894(明治27)年1月のことである(農商務省官紀振粛問題・金時計事件)。
その後日清戦争が起こり日本の勝利下で終結するわけであるが、この過程で韓国政府が清国やロシア寄りの動きをすることに対して手を入れる必要があるとの判断が政府内でなされ、井上馨は内務大臣を辞任して駐韓公使となって京城に赴任することとなった。この際に齋藤修一郎は井上に頼まれ、井上の秘書官として外務省お雇いの資格で韓国に渡り、韓国政府の内部(内務省)顧問として、韓国政府を親日政権とすべく内政改革に従事することとなった16。
しかし、井上が策した、ロシアに接近する王妃と日本に接近する国王の実父大院君との親和策は破れて彼は公使を辞任。その間修一郎は、親日派の大臣朴泳孝をして王妃派(王妃閔妃一族の高官)を排除して親日派が政府を独占することを画策推進するも見破られ、逆に閔妃によって朴泳孝訴追(王妃暗殺の嫌疑)の動きが出て朴は日本に亡命。韓国政府を親日政権にする策は頓挫した。
井上に代わって公使となった三浦吾郎は、1895(明治28)年10月8日、日本軍と民権派壮士合同で王宮に侵入し閔妃を虐殺。遺体を焼いて池に捨て、国王を動かして閔妃の王妃の位を剥奪して閔妃一派を政府から追放。親日政権を樹立(京城事変)。これが外国公使団に発覚し、後難を恐れた日本政府は、10月10日に政務局長の小村寿太郎以下の調査団を派遣し、10月17日に三浦公使や杉村書記官などを召喚逮捕。小村寿太郎政務局長を弁理公使に事後処理を図る。同時に韓国国王に対する慰問の大使として井上馨を当てる。この過程で修一郎も召喚されたか。1895(明治28)年10月17日に帰国している17。
(4) 帝国党創設時代(中外商業新報社長・東京米穀取引所理事長時代)
韓国から帰国した修一郎は、1897(明治30)年9月から1898(明治31)年12月10日まで、中外商業新報(後の日経新聞)の社長を務めている。中外商業新報は元々、1876(明治9)年に中外物価新報として三井物産の益田孝の肝いりで創刊したもので、1897(明治30)年9月に発行元・匿名組合商況社が合資会社商況社に改組するに際して、三井の顧問格である井上馨の推薦で社長として修一郎が就任したものかと、『日経新聞80年史』(1956年刊)は記している。しかし修一郎は社務よりも帝国党創設に忙殺され、このため社長室は新党結成準備室の様相を呈して彼は社務に専念できず、しかも合わせて1898(明治31)年9月に東京米穀取引所二代理事長に就任したために多忙を極め、1898(明治31)年12月10日に退社するに至る。
帝国党についてはほとんど研究書・研究論文がなく、唯一、村瀬信一著「帝国党ノート」(日本歴史1991年7月号掲載)がその結成の経緯を考察し、この党は、「山縣の三党鼎立論の体現者としてその原点に位置する存在」と言えるのではないかとその性格を規定している。つまり山縣有朋は、旧自由党系(憲政党)・旧改進党系(憲政本党)の二つの民権派に対抗する第三極としての新政党が必要だと考えていた(三党鼎立論)。その第三極を期待されて結党されたのが帝国党であったと村瀬は推測している。
修一郎が帝国党結党に関った理由は不明だが、帝国党の政綱は、国体擁護・国防充実・国権拡張・実業振作・交通機関整備・国民精神発揚・社会政策拡充・地方自治完備など八か条であり、かなり国粋主義の色彩の濃い政党である。しかし官僚出身者で成り立つ国民協会を基盤に、国民協会の中でも出身地山口県に大きな基盤を持つ大岡育造の勢力を中心に、齋藤の出身地の福井など多くの民権派が基盤とする地方の地主を組織しようとしたものであろうか18。齋藤自身は国粋主義には反対の立場なので、この思想から結党に加わったとは思えない19。この党の政綱に「国防充実」「国権拡張」とあることから、朝鮮を巡るロシアとの角逐が激化する中で、議会対策として地主に基盤を置く政党を政府与党として結成しようとの動きであったのかもしれない。
帝国党は1899(明治32)年7月5日に結党され、1905(明治38)年12月23日に解党された。修一郎はこの間、帝国党総務委員として1899(明治32)年12月には、憲法で保障された信教の自由に関って宗教団体のあり方を定める宗教法案提出に関るなど活動しているが、1901(明治34)年12月10日には茶業組合理事として渡米(武生郷友会誌第23号:明治35年12月刊の記事による)しているので、この頃までには帝国党を離党したか?(明治37年国鏡社刊「立身致富信用公録第17編」による)20。
(5) 皇国殖民株式会社専務時代
齋藤修一郎は、1903(明治36)年11月に、有馬組の森清右衛門、名古屋の森本善七、其の他平山靖彦、吉田弘蔵等と皇国殖民会社を設立し、専務社員となっている(有磯逸郎:横山源之助著「我が移民会社」・「商工世界太平洋」第5巻23号明治39年11月15日掲載による)。
この会社はハワイ移民を制限されて以後フィリピン移民で名を馳せたが、その過程で南米ブラジル移民を計画。1905(明治38)年に社員水野龍と専務齋藤修一郎がブラジル公使館を訪れて計画を持ちかけ賛同を得る(水野龍「海外移民事業と私」)。なおこの第一回ブラジル移民は、修一郎が1906(明治39)年10月に退社した後の1908(明治41)年4月28日、業務担当社員水野龍の手によって実行されるも、外務省の妨害によって渡航者の保証金1万円を立替たため、同社は1万円もの負債を出し会社毎身売りした。
修一郎がこの会社を設立した理由は明らかではないが、ブラジル移民交渉に彼を先頭にしてブラジル公使館や外務省に折衝していることから、元外務官僚である修一郎の人脈を利用して移民事業に新風を吹き込もうとしたものか。当時、外務省は満州移民を進めているためブラジル移民には冷淡であったが、韓国や満州に移民を進めようとする北進論に対して、修一郎は南進論を取っていたものであろうか。後の満州を巡るアメリカとの対立に際して、修一郎が満州の自由市場化を主張したらしいこととの関連が注目される21。
(6)言論活動を通じた外交への積極的な関与−明治31年から明治43年の間の雑誌投稿論文と翻訳書−
帝国党創立の時期以後、齋藤修一郎の外交に関る論文が散見され、翻訳書も出版するなど積極的に外交課題に発言している。掲載された雑誌は、日本主義を掲げてはいたが比較的中立的立場で国民各層に問題提起することを目的に1895(明治28)年1月1日に創刊された総合雑誌「太陽」と、国粋主義を掲げた三宅雪嶺が1888(明治21)年に創刊した「日本人」を後に1907(明治40)年に改題した「日本及日本人」。そこに掲載された論文は、1:「外交論」(雑誌太陽:1898・明治31年12月5日 第4巻24号掲載)、2:「北米太平洋岸と日本人」(雑誌太陽:1902・明治35年5月5日 第8巻5号掲載)、3:「世界的強国としての独逸」(雑誌太陽:1903・明治36年2月1日 第9巻2号掲載)、4:「独逸皇帝の人物」(雑誌太陽:1903・明治36年7月1日 第9巻8号掲載)、5:「露国の半面観」(雑誌太陽:1903・明治36年11月1日 第9巻13号掲載)、6:「戦争の価値」(雑誌太陽:1904・明治37年4月1日 第10巻5号掲載)、7:「米国の侵略的径路」(雑誌日本及日本人第530号1910・明治43年4月1日掲載)の7本である。
1は、外交の歴史を辿りながら今後の日本外交は、アメリカ外交のように相手国をも心服させるようなものでなくてはならないと主張し、3・4・5は、当面韓国と満州とを巡って対立するロシアとそれを援助する強国ドイツの内情について論じたもので、4・5はアメリカの週刊雑誌の論考を翻訳したもの。さらに7も同じくアメリカの週刊雑誌「アウト・ルック」の記事に触発されて書かれたもので、満州を巡る日本とアメリカの対立は日米戦争に帰結すると警告したものである22。
この時期の翻訳書は、『米国商工大勢論』(博文館 1902・明治35年8月1日発行)で、これはアメリカの前財務次官であったヴァンダーリップFrank Arthur Vanderlip(1864‐1937)氏著「米国商業の欧州侵略」と題する論文を翻訳した。今や欧州の強国を皆従えるに至ったアメリカの実力の淵源がたゆまぬ殖産興業にあったことを経済統計を駆使して述べたこの書を翻訳して、今後の日本外交にとってアメリカの存在は侮りがたいことを示すと同時に、日本もまたアメリカのように殖産興業に邁進して、自由貿易主義で行くべきであると主張する意図を持ったものであった。
齋藤はこうして、積極的に雑誌などの媒体を通じて国民に外交のあり方を論じていたのであり、ここに彼が国民こそ国家の主体・主権のありかだと考えていたらしいことが伺える23。さらに最後の7の論文は後に論じるように、修一郎が破産した3年後のもので、しかも彼の死の1ヵ月前のものであるので、彼が終生外交に携わろうとしてきたことを示す史料である24。
2:『懐旧談』の資料批判−なぜ修一郎は外務省を去った後の自分は生きる屍と語ったのか?
『懐旧談』は41の「帰朝命令を受く」で事実上終っている。この章で修一郎は、「農商務省に入っても死んだも同然であった」というニュアンスで語り、その理由を42の「余が落魄失意の生涯に入りたるは何時ぞや」で、明治19年に機密漏洩の責任をとって外務省をやむなく去り欧州に行った時であったと、このことを知る人物・福島安正少将(当時)の証言を示している。
しかし本論考で以上のように論じてきたように、彼は外務省を去った後も様々な形で積極的に外交に関っていた。しかも木村毅がその著書で述べたように、そして徳富蘇峰が彼への弔文で述べたように、彼の人生で最も花咲いた時期は、彼が外務省を去って農商務省官僚として活動した時期であった。
なぜこの最も華やかな時期のことを、そしてその後も積極的に外交に関ったことを、修一郎は『懐旧談』の中で語らなかったのであろうか。
(1) 懐旧談」を語った日時・場所と出版関係
『懐旧談』が語られたのは、1907(明治40)年10月以前のことである。
このことは、松本源太郎「懐旧談を読む」に、かつて修一郎より懐旧談中の漢詩と漢文の序文の添削を頼まれたさいに添付された紙に「明治40年10月−海外渡航の期迫るに当り、児輩に留別する懐旧談(即是談笑陳人一代記也)。大阪新報速記者 松田勝太郎君、愛宕秀敏君速記。荒木鉄三君校正加筆」とあった旨が記される(大正6年7月刊「武生郷友会誌」第39号)ことからも明らかである。すなわち、修一郎が四度目にアメリカに渡る前に東京の自宅で、家に残った七人の未成年の子供達と妻と母とを前にして、自身の半生を語ったのである、
そして彼は、1908(明治41)年3月4日アメリカに渡り(「松本源太郎日記」による)、サンフランシスコで日本人学生会の監督の仕事をしたと伝えられているが、この過程で彼の家を訪れた現地の日本人、鷲津文三と田村松魚に彼の半生についてのインタビューを受け、話をする代わりに示した『懐旧談』の速記録に興味を持った二人が尽力して、1908(明治41)年12月サンフランシスコの青木大成堂から出版されたのであった25。
(2)1907(明治40)年10月とはどのような時期であったのか?
では修一郎が『懐旧談』を語り終えた1907(明治40)年10月とは、彼にとってどのような時期であったのだろうか。実はこの時に彼は、他人の多額の借金が押し被さり、これを返済できなかったために破産するに至っていたのである。この点については、彼の身近な親族が二人証言している。
一人は彼の母方の又従弟である土肥慶蔵26であり、彼は、「政党関係から財産差押への悲境に陥いられたのも、多くは子分たちの尻ぬぐいからである」と証言している(「私と齋藤先生」:1925・大正14年武生郷友会誌第47号)。
もう一人は、「蚤坊」とのペンネームで語っている、修一郎の父方の従妹の息子である瀬尾昭27である。瀬尾の証言はさらに詳しい。
これによると、「折から佐々友房氏と共に帝国党を組織し、宗教法案で成功されたが、大借金を背負込み、当時の金で22万円、今の相場なら2・300万円、一方退官当時より井上伯からは色々の事情で白眼められ。恰も活動の差押。家政は借金の為め毎日家財の差押。而も当人は正直者で、意気者で、封建気質の悲さに老伯の旧恩を思い、徒に老伯百年の後を待ちつつ落魄中に病を得て遷化された」とある(「齋藤修一郎先生を憶ふ」:大正14年武生郷友会誌第47号)。
当時のお金で22万円。今ならさしづめ20億円ぐらいのものであろうか。なんと帝国党結成に際しての他人の借金が降りかかって来たというのだ。そして「活動の差押」「家財の差押」にあったという28。
ではその時期はいつであったのか。
「武生郷友会誌」住所録などの史料によると、瀬尾が齋藤修一郎邸に同居したのは二回ある。一回目は、1900(明治33)年。明治学院に入り齋藤の家から通ったと後に証言している(1957・昭和32年7月2 武生郷友会の昔を語る座談会にての発言。1988年刊『武生郷友会百年史』に掲載)。二回目は、1907(明治40)年。この年の6月刊の郷友会誌住所録に記された彼の住所は、「豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿104番地齋藤方」である(「武生郷友会誌」第28号:明治40年6月による)。そして明治40年12月の第29号の住所録では、すでに彼は満鉄勤務。清国大連在住である29。
では、齋藤修一郎が他人の多額の借金を負って破産したのは、1900(明治33)年と1907(明治40)年のいずれであろうか。1900(明治33)年は帝国党総務委員を務め東京米穀取引所理事長を務めていた時期。1907(明治40)年は皇国殖民会社専務を務め、まさにブラジル移民を始めようとしていた時期である。
ここに貴重な証言がある。「松本源太郎日記」である。
源太郎日記の1900(明治33)年の項には破産したことを伺わせる記事は何もない。目に付いたのは、「明治33年5月11日:午後1時(文部省を)去って齋藤高樹町宅に至る。休みて雑話。宅内を見る。4時去りて帰る」との記事である。
齋藤はこの青山高樹町の家には1889(明治22)年から住んでいる。途中次官となった折には永田町の官舎に住み、退官後は一時赤坂氷川町の家に住んだが西欧から帰国後の明治22年以来長くこの家が本宅であった。そしてこの家は武生郷友会の会所としてしばしば使われ、松本源太郎も常に訪れていた。だが源太郎は明治33年5月のこの日は、「宅内を見る」とわざわざ日記に記した。宅内を見学したということか。しかもこの記事の直後に、修一郎は青山原宿に転居している(「武生郷友会誌」第21号明治33年12月刊の住所録による)。
これは1899(明治32)年の帝国党結成に関る30万の自己の借金を、所有する家屋(高樹町の本宅・赤坂仲ノ町18番と赤坂氷川町の別宅)を売って返却したということか。『大学学生遡源』(橋本南漁著:明治43年5月日報社刊)は、この借金は主に三井銀行からの20万円あまりと他の高利貸しからのものであると証言している30。
一方、源太郎日記の1905(明治38)年の項に気になる記述が幾つもある。
「明治38年2月14日:午後荒木至る。齋藤の事なり」「明治38年2月16日:栗塚・三岡山・島田斉藤の事を議する」「明治38年2月17日:山口憲に電話。齋藤の事に関してなり。午後山口至る。齋藤の事を説く」「明治38年2月23日:齋藤を訪れる。始めて処身の事を〇」との一連の記事である。
これこそ齋藤修一郎に22万円もの多額の借金が降りかかった瞬間を記録したものではなかろうか。以後彼はこの突然の借金を返すべく奔走したのであろう。しかし「蚤坊」こと瀬尾昭が「一方退官当時より井上伯からは色々の事情で白眼められ」と証言するように、今回は三井の顧問格である井上馨の口添えも得られず、三井銀行に借金の一時立替をしてもらうことさえできなかったのではなかろうか。またこのためであろうか、修一郎は1906(明治39)年9月に皇国殖民会社専務を辞めている(有磯逸郎:横山源之助著「我が移民会社」・「商工世界太平洋」第5巻23号明治39年11月15日掲載による)。これが「蚤坊」が証言する「活動の差押」ではなかったか。専務としての給与も差し押さえられての退社であったのだろう。
さらに修一郎は、明治39年12月から40年6月の間に、これまで三年間住んだ青山北町4丁目105番から転居した。家を借金のかたに差し押さえられたのであろう。以後借家を転々とする。まるで借金取りに追われるかのように。
(3)外務省退官で人生が終ったかのように話したの理由は?
1907(明治40)年10月に齋藤修一郎は『懐旧談』を語り終えた。
まさにこの時期こそは、明治38年12月の帝国党解党に至る過程で降りかかって来た他人の22万円もの借金を返せず、家屋敷も職も失い、転居した手狭な借家にあるわずかな家財すら借金取りに差し押さえられている時期であったのだ。
1908(明治41)年3月4日に彼が四度目の渡米の折にはすでに破産していたことは確実である。修一郎渡米直後の1909(明治42)年3月26日には「留守宅財政委員会」が開催されている(「松本源太郎日記」による)。多くの友人や親戚が、残された家族のために基金を拠出してくれたのだ。そしてこの財政委員会の委員は、外務省以来の友人である浅田徳則31と藤田四朗32、さらに親族代表として又従弟の松本源太郎と異母妹の夫である妹婿坂本ト五郎がいた33。後の資料では委員会が留守家族に月100円の拠出金を出すことを決定。また渡米中の1909(明治42)年7月19日に次女亨(24歳)が千葉館山の豪商・瀧口政太郎と再婚するが、結婚費用800円は親族・知人・友人の拠出金で賄う(以上は、藤田四朗らの原敬宛明治43年5月31日書簡:『原敬関係文書第3巻』1985年日本放送出版協会刊所収と「松本源太郎日記」による)34。
零落した修一郎とその一家は、友人と親戚に支えられて生きていた。
修一郎が『懐旧談』を語り終えた1907(明治40)年10月当時、修一郎の友人でかつて彼が推薦して外務省に入った者たちは非常に出世して、今や大日本帝国の舵取り役であった。小村寿太郎は外務大臣⇒駐英大使⇒41年7月外務大臣に復帰。原敬は外務次官⇒政友会総務委員⇒明治39年西園寺内閣で内務大臣。そして彼らは、修一郎が1886(明治19)年に機密漏洩の責任を負って条約改正会議書記官長を辞任し、さらに外相秘書官兼政策課長も辞任してベルリンに赴任した「失意」の時期にも、彼を暖かく支えてくれた友人たちの一人であった35。その当時原はパリ駐在の臨時代理公使であり、小村は閑職の外務省翻訳局長。井上外相の外交を直接補佐していた修一郎の方が出世頭だったのだ。
外務省を去らなければ、彼等の現在の地位は自分が就いていた地位との忸怩たる思いが、外務省退官の所まで語った時の修一郎の脳裏を去来したのではないか。しかもこの時期彼は、小村が桂首相とともに進める満州植民地化政策に極めて批判的であったが、借金で零落し外交に関るどころではなかった。
まとめ:「失意」の境涯は一時的なものであった
これが『懐旧談』を語った当時の修一郎の思いであろう。外務省退官まで語った所でこの思いが強く去来し、修一郎はこれ以上語ることが出来なくなったのだろう。従って『懐旧談』は一代記なのに外務省退官で終わった。
しかしこのような「失意」の境涯はこの時期の一時的なもので、二年近くに渡るアメリカ滞在を経て修一郎は再び外交に積極的に関ろうとし、日本政府の進める満州植民地化政策などは、アメリカとの衝突・戦争に至ると警告しようとしたことは、彼の最後の論文「米国の侵略的径路」とそこで出版を予告していた『最近米国観』の存在がこのことを物語っている36。
齋藤修一郎が二年あまりの米国滞在で何をしていたのかは、大塚善太郎が語る「サンフランシスコの日本人学生会の監督」程度のことしかわかってはいない。しかし当時カリフォルニアで活動していて彼と関係をもったジャーナリストの鷲津文三(尺魔)は、在米日本人が追い込まれるのも無視して米国との対立を厭わない日本政府を厳しく批判しており、彼らと付き合う中で修一郎が、日本の対外政策の危険性に再び目覚めたであろうことは確実である。さらに『原敬日記』によると、サンフランシスコで原にあった修一郎は、米国東部に赴く旅費を工面してもらっている。1902(明治35)年の三度目の渡米時にアメリカの急速な発展を目にしてアメリカ侮りがたしの観を抱いて『米国商工大勢論』を翻訳して日本外交に警鐘を乱打した修一郎は、今回の四度目の渡米によって、日本の外交政策によって在米日本人がますます権利を奪われ生活を圧迫されている実態と、さらにアメリカが発展して自信を深め、世界の主導国としてのその政策に正面からぶつかって来る日本への悪感情がアメリカに巻き起こってきていることを直接見聞きして、日本外交のあり方への激しい危機感を抱いたのであろうか。
こうして1909(明治42)年10月26日に帰国した(「松本源太郎日記」による)修一郎は再び、日本外交批判のために積極的に動き出したのであった。
そのアメリカでの見聞の成果を本にして世に問おうとした矢先の1910(明治43)年5月6日未明午前1時25分に彼は急死し、その外交に生きた生涯は突然休止されたのである。享年56歳。死因は腎臓病とも急性肺炎とも伝えられている。(この論考は、2010年7月の日本英学史学会本部例会で報告した同名のレジュメを、論旨を絞って訂正し、以後の新知見を加えて改稿したものである。2012年1月2日記す)
2 東京での英語の師は、『皇国』などの著書のあるアメリカ人・グリフィス William Elliot Griffis。なおグリフィスの母校・ラトガース大学 Rutgers Universityのアレキサンダー図書館Alexander Libraryが所蔵する、グリフィス・コレクション The William Elliot Griffis collectionの中の、生徒作文 Student Essays 319編中には、修一郎の英作文が二編存在する。一編はEdwardの署名となっている第20編目の自伝で、これは修一郎がEdwardの伝記を聞き書きした形式で記したもの。これについては、2011年4月の日本英学史学会本部例会で詳しく紹介し、2012年3月発行の「東日本英学史研究」に詳細な注をつけて全文の翻刻と訳を掲載した。もう一編は、修一郎の署名のある「西洋と東洋・日本の歴史叙述の比較を通じて行った比較文明論」で、第208編目の作文。これについては、2012年7月の日本英学史学会本部例会で報告する予定。このグリフィス・コレクションは、他にも修一郎に関するものとして2通のグリフィス宛書簡が納められ、さらに複数の修一郎の写真もあり、東京時代のグリフィス日記にも修一郎がしばしば登場するなど、齋藤修一郎研究には欠かせない史料群である。
3 齋藤修一郎の詳細な年譜は、2011年11月19日の朝河貫一研究会第91回研究会での私の発表に際して資料として公表した。私のサイト:http://www4.plala.or.jp/kawa-k/の「齋藤修一郎研究コーナー」に全文公表してある。
4 全文は以下のとおり。「幾回か遅疑したり、されど一言するを禁ずる能はざるは、齋藤修一郎氏の死也。明治20年代に於ける彼を知るものは、其の40年代に於ける、彼の落寞(らくばく:もの寂しいさま)たる境遇と反照して、寔(まこと)に情に勝(た)へざる者あり。
若し彼を目して、明治時代の才人の全き標本と云う能はずんば、一種の標本たるに庶幾(しょき:こいねがう)し。彼や武生藩の医者の児にして、夙(つと)に頭角を藩学に現はし。天下俊秀の府たる開成学校に於いて、錚々たる秀才として指目せられ。学生の登竜門たる、官費洋行生となり。学成りて帰朝し、幾(いくばく)もなく井上侯の眷愛(けんあい:心にかけて愛する)する所となり。殆んど侯の手足たり、股肱たり、腹心たりき。井上侯の条約改正の失敗は、彼に取りても一大打撃たりしや論なし。されど彼は、22年井上侯の再び起て、農商務に入るや、直ちに欧州より召還せられて、其の秘書官たり。爾来侯の罷め去るに拘らず。彼は農商務省にあり、或時は商務局長たり、或時は次官たり。其の威権の赫灼(かくしゃく:かがやく)たる、坐(そぞ)ろに(:たやすく)意外の蹉跌(さてつ:つまずき失敗する)を予想せしめぬ。果然金時計事件は出で来れり。此事たるや無邪気なる彼よりすれば、何でもなし。請うたるにあらず、與へられたる也。然も取引所設置の労を謝する意味に於て、與へられたる也。然も大臣の免許を得て、受取りたる也。彼に於て寸毫も疚(やま)しき所なし。されど彼は之が為めに、一蹶(いっけつ:一度つまずくこと)復た起つ能はざりき。豈(あに)悲しからずや。彼は爾来実業家ともなれり、新聞記者ともなれり、政党員ともなれり。然も不運は恒に彼に付き纏(まと)へり。身世の蹉【足偏に它】(さた:つまずく)と與(とも)に、其の交友は秋葉の如く散じたり。只だ増加したるものは、借金のみなりき。此の如くして彼は太平洋向岸に浪遊し、遂に志を果さず。東京に於て逝けり。彼にして若し才人の欠点あらざりしならば、金時計問題にも、蹶(つまず)かざる可く。蹶(つまず)くも快復の見込みなきにあらざりしならむ。胆(た)だ彼や人生の意の如くなるを知りて、意の如くならざるを知らず。空しく彼の交友をして、特に得意なる交友をして、彼の最後に其の哀涙を掬(きく:受け入れる)せしめたり。彼や百の欠点あるも、真に快活男児たり。彼の失意の原因の一は、其の恩人井上侯の門下より遠ざかりたるにある可し。されど是れ決して井上侯の薄恩にあらず。惟(おも)ふに遠ざからざる可からざる曲折の存するあらむ。唯だ彼や余りに才を恃(たの)みて、周到なる注意と、検束(けんそく:引き締める)なる行為とを欠き、空しく半生の才人として、窮途に斃(たお)れしむ。彼の友人ならざる記者さへも、尚ほ言明し易からざる同情の懐に湧くを覚ゆ。」
5 沼津時代の修一郎像について山下氏は、「青楼通い」の乱れた生活をしていたと論じた。しかしこれは根拠となった史料の性格を見誤ったものである。この点については、2012年3月に行われる日本英学史学会東日本支部沼津大会において論じる予定である。
6 セオドア・ルーズベルトが英訳版の「忠臣蔵」を読んで日本人の忠義の心に感動したという話は、津田梅子と竹下勇(駐在武官)の二人の日本人が証言しているので事実であろう。そしてルーズベルトが読んだ英訳版「忠臣蔵」が、グリーと修一郎の共同訳である『The Loyal Ronins』であったであろうことは、当時存在した他の二冊の英訳版「忠臣蔵」(A.B.Mitford著『Tales of Old Japan』・1871年刊、F.V.Dickins著『CHIUSINGURA』・1875年刊)との内容比較から確実だと思える。しかしルーズベルトがこの話を小村寿太郎にしたという信夫淳平の記述は信用できない。理由の一つは、修一郎と寿太郎は生涯の親友であったにもかかわらず、しかも講和会議の直後に二人は会っているにもかかわらず、修一郎がこの話を知らなかったということ。二つ目は、信夫がこの逸話を記した著作は出典を常に明らかにして論じた実証的な書物だが、この逸話は出典が明らかではないこと。そして三つ目は、ルーズベルトが日露講和に動いたのは彼が日本びいきだったからではなく、ロシアの勢力拡大を挫き満州を自由市場とすることはアメリカの国益だったからであり、このことは小村寿太郎も熟知していた。その小村がルーズベルトに「閣下が日本びいきな理由は何か」と問うはずはない。以上の問題については、機会を見て論証したい。
7 『懐旧談』は、1908(明治41)年12月にサンフランシスコの青木大成堂から出版された。その後1917(大正6)年に、武生(旧越前府中)出身者でつくる武生郷友会が再版。この『懐旧談』初版は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られる。なお本論考で使用した『懐旧談』は武生郷友会版の再版本である。またこれを所蔵する越前市立中央図書館の河崎靖子氏には、同図書館が所蔵する『懐旧談』や武生郷友会誌などの修一郎に関する資料の一切を探し出してコピーして頂いた。ここに感謝申し上げたい。
8 松本源太郎の父方の祖父と齋藤修一郎の父方の祖母とが兄妹の関係である。松本源太郎(1859‐1925)は東大別科哲学科を1886(明治19)年に卒業後、第一高等中学校教諭となったが、1889(明治22)年から3年間、当時イギリスに留学していた旧福井藩主継嗣松平康荘の学事監督として渡英し、オックスフォード大学に留学。帰国後、第一高等中学校(後に第一高等学校に改称)教授となる。さらに熊本の第五高等学校教授を経て、1900(明治33)年に山口高等学校校長、1904(明治37)年に学習院教授兼女学部長となり、1918(大正7)年に学習院を退官後に宮中顧問官となった。なお筆者の祖母松本利の夫の松本均(京都大学工学部教授)は、松本源太郎の弟である。「松本源太郎日記」は、ポケットサイズの手帳の予定表の欄にその日の主な出来事を漢文で記した形式のものであり、1885(明治18)年から1924(大正13)年のものが現存しており(途中欠巻もある)、源太郎の次男松本良彦の長男松本道介氏の所蔵になり、現在は越前市史編纂室に貸し出されている。
9 イギリスの新聞タイムズが条約改正案をすっぱ抜き、国内から厳しい批判にさらされた事件。機密を漏洩した張本人は井上馨外務大臣その人であると、修一郎本人が後に語っている(大塚則鳴著「井上侯と齋藤修一郎翁」明治43年6月1日「日本及日本人」第534号所収)。修一郎の辞任にもかかわらず条約改正問題は紛糾し、結局井上馨は後に外務大臣を辞任している。この井上外相期の条約改正交渉の意味については、五百旗頭薫著『条約改正史−法権回復への展望とナショナリズム』(2010年有斐閣刊)が詳しい。
10 詳しくは、前掲の稲野強著「ベルリンからの手紙・1888年−失意の外務官僚、齋藤修一郎小伝」(1994年群馬県立女子大学紀要第15号掲載)を参照。なおベルリン公使館時代の同僚の中に、公使館付武官であった陸軍の情報将校・福島安正(1852−1919)がいる。彼も開成学校出身で達者な英語力を見込まれて陸軍省に入った人物で、彼もまたロシアをめぐる情勢を探っていた。これゆえ福島安正は、条約改正機密漏洩問題で外務省を去らねばならなかった修一郎の心境について詳しいのであろう。福島は、修一郎の帰国後の1892(明治25)年に公使館付武官を退任して帰国するに際して、個人の資格でベルリンからロシアを横断してウラジオストックまで1年4ヶ月をかけて騎馬旅行。ロシアのシベリア鉄道建設状況などを詳しく調査した。この騎馬旅行の様子は、1894(明治27)年に金川書店から出版された『単騎遠征録』(西村天囚編)に詳しい。彼は後に、参謀本部次長などを歴任して陸軍大将となった。
11 林忠正(1856‐1906)はその後パリで日本美術商となり、日本美術に強い関心を持つ印象派の画家達に積極的に日本美術を紹介し、1900年のパリ万博の日本側の事務官長についた人物である。このパリでの林忠正らとの交友については、木々康子著『林忠正とその時代−世紀末のパリと日本美術』(1987年筑摩書房刊)に詳しい。この本に修一郎の詳しい経歴が記されていることについては、筆者が2009年12月に日本英学史学会に入会した折に、会員(当時)の伊村元道氏からご教示を得た。
12 『懐旧談』41「帰朝命令を受く」で修一郎自身が語ったことによる。
13 アメリカ人のデニソン H.W.Denison は明治の日本外交確立に貢献したお雇い外国人である。プリンタリーとアルウィンについては不明だが、『原敬日記』には、明治26年4月27日の項にハワイ公使としてアルウィンは登場し、プリンタリーは他の書簡にはプリンクリーと表記されているが、これと同じ名前の人物のプリンクリー F.Prinkly が、明治30年5月6日の項の、故陸奥宗光の墓前に外務省歴代幹部職員や各国公使らが石灯籠を献じたという記事の中に登場している。これらからアルウィンとプリンクリーは外国公使館員であったと見られる。
14 なお今回の条約改正も改正案がタイムズにすっぱ抜かれたことがきっかけに、国内の反発が激しくなって大隈遭難と条約改正の中途挫折の原因となったが、改正案を外部に漏らしたのは外務省の翻訳局長であった小村寿太郎であった(外務省編『小村外交史』1966年原書房刊のp33参照)。
15 明治22年5月5日の武生郷友会での修一郎の報告「越前七郡農商工業並に政治情況一斑」(武生郷友会誌第1号明治23年5月刊掲載)の中で修一郎自身がこの事を述べている。
16 この顧問制度は、明治27年7月に大鳥公使が韓国政府に内政改革案として提示したもので、政府を国王から切り離し、大臣を顧問が統制して日本の意のままに動かす制度。顧問といっても決定権を持った事実上の副大臣。だが韓国国王・王妃一族の激しい抵抗を受ける。修一郎が内部顧問についた経緯と意味については、『高橋是清自伝(下)』(1976年中央公論文庫刊)の「12日銀馬関支店長時代」p48に詳しい。
17帰国の日時は「神戸又新日報」の記事による。内部顧問としての修一郎の活動の様は、杉村濬著『明治27・8年在韓苦心録』(韓国併合史研究資料29龍渓書舎2003年刊)に詳しい。また王妃虐殺にいたる経過や事件の実際は、『在韓苦心録』とともに、王妃虐殺に加わった日本人壮士の一人である小早川秀雄の著書『閔后暗殺』(世界ノンフィクション全集17筑摩書房1962年刊)に詳しい。なお、齋藤修一郎はこの計画を事前に知っていた。事前に同じく閔妃殺害を計画した顧問の星亨らが修一郎に相談に訪れたところ、「実行は簡単だが、あとの列国との交渉が難しい」と関与しないことを勧め、発覚したあと三浦公使が相談に修一郎を訪れ列国との交渉方法を尋ねたと後に修一郎自身が語っている(大塚則鳴著「井上侯と齋藤修一郎翁」1910(明治43)年6月1日「日本及日本人」第534号所収)。この京城事件はあとしまつとしては韓国人を二人閔妃殺害下手人として自訴させ、裁判で死刑。逮捕された日本人は全員無罪釈放で表面的には決着させた。しかし修一郎が予想したとおりに結局尾を引き、1896(明治29)年2月に親露派クーデタが起き韓国国王はロシア公使館に移って政務を取り、反日義兵運動が各地で勃発。このため韓国政府はロシアの影響下に置かれ、小村を中心に勢力回復が図られ、5月に小村・ウェーバー覚書が調印され、6月にはペテルスブルグで山県・ロバノフ協定が調印されて両国の勢力関係を決め、一応事態の収拾をはかるが、後の日露戦争に繋がる日露対立の発端となる。この京城事件のあとしまつをしたのは、弁理公使小村寿太郎と外務次官原敬。
18 だが帝国党は結党前に伊藤博文が主導する立憲政友会が旧自由党系を中心にして成立するとの噂が流れたため、党の中心であった大岡育造派が抜け、その後計20名の衆議院議員で結党されたが、直後に立憲政友会が結成されると内部にさらに動揺が走り、有力者の元田肇らが抜けて、極少数の政党に転落した。
19 修一郎が国粋主義に反対していることは、農商務省商工局長時代に「国民新聞」を主宰する徳富猪一郎に宛てた彼の私信からわかる。この手紙は1890(明治23)年4月4日の英和女学院校長夫妻殺傷事件に際して、徳富に宛てて書いたもので、国粋主義に対抗する大デモンストレーション挙行を提言したもの(明治23年4月5日徳富蘇峰宛修一郎書翰、神奈川二の宮徳富蘇峰記念館蔵:山川出版刊『徳富蘇峰関係文書』所収による)。なおこの書簡の所在と注3で見た蘇峰の弔文の所在については、神奈川県二宮の徳富蘇峰記念館のご教示を得た。また注8で見た木々康子の著書によると、ベルリンからの帰国後の修一郎は、1899(明治22)年6月に結成された洋画家の団体・明治美術会の賛助会員になっており、このことも彼の国粋主義に反対する開明的な思想を物語っている。この会は、岡倉天心らの国粋主義的美術運動の拡大によって圧迫を受けた西洋美術を振興するために洋画家を中心に結成されたもので、パリ帰りの官僚・原敬や後に大坂の北浜銀行頭取となった同じくパリ帰りの実業家・岩下清周(1857‐1928)を幹事として結成され、後に林忠正も幹事に連なっている。なお原敬が所蔵していた明治美術会の会則と会員名簿は、『原敬関係文書第5巻』(1896年日本放送出版協会刊)に収められている。
20 修一郎は帝国党結成のために多額の借金をする。三井銀行から20万円。その他高利貸しからも含めて総計30万円ほど(橋本南漁著:明治43年5月日報社刊『大学学生遡源』27「齋藤と高利貸」)。そのため、赤坂区青山高樹町の本宅と赤坂仲ノ町18番と赤坂氷川町の別宅を売り払い、残った金で青山北町4丁目105番の家を購入して転居したものか(「松本源太郎日記」および武生郷友会誌会員名簿による)。
21 「松本源太郎日記」の1904(明治37)年4月16日の条に「齋藤来る。近日南洋に赴くという」との記述がある。
22 修一郎の外交論文の多くが、アメリカの週刊雑誌記事に拠っていた。このことは彼が『懐旧談』で、アメリカ留学中に週刊雑誌「ネイション」を読んでいたと語っていたことと繋がっているだろう。つまり彼は帰国後もアメリカの週刊雑誌を講読し続けるほどこれに入れ込んでいたということだ。アメリカ留学中、そして帰国後の修一郎が、これらの雑誌のどの記事に影響を受けたか追求することは、興味深いテーマである。
23 この点については、2011年10月9日の日本英学史学会大会において「齋藤修一郎にとって西洋とは何であったのか」と題して報告した。
24 齋藤修一郎の外交論文の持つ意味については、2011年11月19日の朝河貫一研究会第91回研究会において、「朝河貫一の日本外交批判論の限界−齋藤修一郎の日本外交批判論の検討を通じて」との題で、修一郎の1・7の論文と翻訳書を使って論じた。
25 四度目の渡米の目的は不明。『大学学生遡源』の23「復活せんとする齋藤」に「自分も先生(杉浦重剛)のようなことをやってみたいと思い、まづ物質的資料を得るの目的をもって先年米国に渡れり。而も事業未だその緒に就くにも及ばずして帰朝せるが、遠からず再び渡米して素志の貫徹に勉る考えなり」との1909(明治42)年12月4日の小石川久方町の杉浦宅での第27回称好塾記念会での修一郎の発言を伝える。杉浦のように学校をつくろうとしたものか。「日本人学生会の監督」と当時の修一郎の様子を伝えたのは、大塚善太郎編「齋藤先生言行録」(「愛国主義」第23号付録 1913年1月)である。なお渡米中の1908(明治41)年9月9〜11日、欧米視察旅行中の原敬がサンフランシスコに到来したのでその宿所を度々訪問。修一郎がアメリカ東部に移るための旅費として100弗もらう(『原敬日記』による)。なお鷲津文三(1865−1936)(本名は鷲頭文三、ペンネームは鷲津尺魔)は、元自由党の新潟県議会議員で、当時はサンフランシスコの日本語新聞「日米」の主筆をしていたジャーナリストで、日本人排斥運動が起こる中で、在米邦人を無視する日本政府やアメリカ政府、そして日本政府に追随する在米日本人会を辛辣に批判していた人物である。鷲津については、彼の孫の佐渡拓平が著した『カリフォルニア移民物語』(1998年亜紀書房刊)が詳しい。また田村松魚(1877−1948)は本名を田村昌新といい、幸田露伴の弟子で、当時はアメリカ留学中の学生。サンフランシスコの日本語新聞「新世界」に度々小説を寄稿していた。作品としては露伴と共著の『三保物語』などがあり、高村光雲の自伝『幕末維新懐古談』を聞き書きしてまとめている。田村の渡米までの経緯については、林寿美子著「田村松魚の渡米まで」(法政大学国際日本学研究紀要「国際日本学研究」第2号・ 法政大学国際日本学研究センター2006年発行掲載)に詳しい。修一郎のサンフランシスコ在住の日本人との交流は、この二人以外にも後の注36で見る大塚善太郎(則鳴)などユニークな人物との多くの出会いがあり興味深い。
26 土肥慶蔵(1866−1931)は、越前府中本多家の医師石渡宗伯の次男として生まれ、1891(明治24)年に帝国大学医学部を卒業。その後ドイツに留学し、帰国後は東大医科大学で皮膚病梅毒学講座を担当した。土肥の父・石渡宗伯と修一郎の母・フミがいとこである。
27 「蚤坊」が瀬尾昭であると推定したのは、蚤坊の証言には「大正14年1月21日 於ニューカレドニア」との付記があり、他の個所で彼は、修一郎叔父の大雲蘭渓を「祖父」と呼ぶ。そして「修一郎邸に書生として住む時に満鉄の試験を受け、その後満鉄社員として鉱山関係に従事。その後増田屋で鉱山関係に勤務」したと述べている。この全ての条件を満たしている武生郷友会員をその会員名簿で探ってみると、瀬尾昭一人しかいない。彼は、1870(明治3)年の武生騒動で獄死した大雲蘭渓の一人娘の息子であろう。
28 他人の借金が被さって来たのは、借金証書に保証人の判を押したからであると、娘の松本利は後に子どもたちに、「借金の保証人にはなるな」との言葉と共に語っている。
29 「武生郷友会誌」には毎号、会員の住所録が付けられており、そこには会員の当時の職業が記されるなど、大変貴重な史料である。会員住所録の存在については、越前市在住の齋藤修一郎研究家の齋藤隆氏の御教示を得て知り、越前市立中央図書館の河崎靖子氏に、明治22年の創刊号から昭和25年の分まで全てコピーして頂いた。
30 齋藤修一郎の貴重な逸話を数多く掲載している『大学学生遡源』は、東京日々新聞の記者であった橋本南漁が著したもので、東大の前身の大学南校−開成学校時代の学生の生態を関係者の証言と資料に基づいて記したもの。明治43年1月から5月にかけて東京日々新聞に連載された後、この間の記事をまとめた上巻が明治43年5月に単行本として出版された。現在この本は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られる。この本の所在については、従妹松本かつらの友人で、明治の教育制度確立に大いに貢献したお雇い外国人のデイビッド・マーレー David Murray の研究者である吉家定夫氏の御教示による。
31浅田徳則(1848−1933)は、官僚で政治家。1868(明治2)年に官界に入り、大蔵省・外務省をへて、1886(明治19)年には井上外務大臣の下で外務省通商局長。後、神奈川県知事・長野県知事・新潟県知事・広島県知事を務め、再び中央官界に戻って、外務総務長官(外務次官)・逓信総務長官(逓信次官)などを務めた。1903(明治36)年に貴族院議員となり終生在任。また東京電力社長や帝国蚕糸社長も務めた人物。
32藤田四朗(1861−1934)は、東京帝大卒の官僚。外務省時代は井上馨の四天王の一人と称せられた人物。外務省参事官、逓信相・農商務相の秘書官などをへて、1898(明治31)年農商務次官。1901(明治34)年貴族院議員。また日本火災保険社長、台湾製糖社長などを務めた人物。
33 この他に「源太郎日記」には多くの友人・親戚の支援者名が記されている。列記すれば「土肥、山口、本多、石渡、村田、坂本、栗塚、三岡、山崎孝明、宮崎、杉崎、今立悟、土生、瀬尾、佐久間、岡倉真範、長井真琴、大島英助、荒木鉄三、奥信一郎、望月」の各氏である。このうち「土肥、本多。石渡、坂本、土生、瀬尾、荒木」は親族である、その他の人々を武生郷友会名簿などで確認すると、修一郎を取巻く人々の輪が判明する。
34 この藤田四朗らの原敬宛の書簡は、財政委員会が管理する友人知人親族による基金の使い道について原敬に報告したもの。よって、財政委員会に基金を寄せた人々の中には、修一郎の友人の原敬も含まれていたことは確実。またもう一通の藤田らの原宛明治44年1月24日の書簡には、修一郎の墓前に石灯籠などを寄付した人々の名前が列記されており、その中にも原敬と並んで、修一郎の友人小村寿太郎の名前が記されている(記された名前は、伯爵小村寿太郎、原敬、鮫島武之助、室田義文、志村源太郎、木村清四郎、島田剛太郎、早川鉄冶、野崎廣太、藁品槍太郎、浅田徳則、藤田四朗である。多くは外務省・農商務省の元官僚で、当時は財界の幹部や貴族院議員。)(『原敬関係文書第1巻』1894年日本放送出版協会刊)。さらに修一郎不在時の次女の結婚式の参列者の中にも小村の名前が記されている(「松本源太郎日記」による)ことから、小村も基金を出した人々の中に含まれることは確実であろう。これらの書簡の所在については、(財)盛岡市文化振興事業団の吉田氏と(財)盛岡市文化振興事業団・原敬記念館の久保田氏の御教示を得た。
35 この二年間の渡欧中に修一郎は、感ずるところあって半狂学人と号を改めたという。その際であろうか従弟に示した墓誌名には、「半狂学人墓 唯狂故世俗疎之。唯狂故朋友愛之。朋友愛之與世俗疎之。子孫擇焉可也。半狂学人自誌」とある。機密漏洩の責めを自ら負って辞任したことを世間は冷たく見たが、友人達はその間の事情や彼の心情を察して、暖かく支えてくれたり、少し格好良過ぎる彼の行動を諌めたりもしてくれたのであろう(号と墓誌については、石渡秀実「齋藤先生の雅号について」:「武生郷友会誌」第47号1925・大正14年刊掲載)による。
36 なお修一郎が「米国の侵略的径路」の論文で近日刊行予定と予告して果たせなかった『最近米国観』と思しき本を、最近国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見つけた。大塚善太郎著『日米外交論』(相模屋書店明治43年5月刊)である。この本を修一郎の未完の著書ではないかと判断した理由は幾つかある。この本の構成は「米国の侵略的径路」の内容とほぼ同じであり、この論文は『最近米国観』の梗概であるとされていたことが一つの理由。さらにこの本は未完で終っており5章構成の4章の一部と5章はほとんどまだ書きかけの状態であること。大塚善太郎はこの本刊行後も様々な文筆活動を続けており、彼が未完の書を刊行する理由はない。さらに大塚善太郎は修一郎の7の論文を手伝った人物であり、修一郎の本の執筆を手助けしていると注17で見た論文で語っているから、彼の手元に修一郎の未完の原稿があった可能性も高い。これらの理由からこの本を修一郎の未完の書『最近米国観』ではないかと判断した。なおこの本には、衆議院議員大石正巳・前内務大臣原敬・衆議院議員粕谷義三・衆議院議員卜部喜太郎の序とさらに齋藤修一郎の序も付けられており、齋藤の序は「米国の侵略的径路」そのものである。大塚善太郎の経歴の詳細は不明であるが、この本の卜部の序と、大塚の著書『非社会主義』(東京堂書店明治44年4月刊の第三版)と、さらに注17の論文によれば、彼は若いときに弁護士の卜部の家に寄宿して法律を勉強していたが挫折し、アメリカに渡ってカリフォルニアの日本語新聞記者となり、「加州移民論」を「日本及日本人」第463号(明治40年7月15日)に寄せている。また当地の日本人社会主義者と激しい論争となって住居に踏み込まれて格闘となり九死に一生を得た。この際に彼を助けたのが齋藤修一郎であり、これを契機に齋藤の知己となり、彼の『懐旧談』を筆写したり、『懐旧談』では語らなかったことについて詳しい話を聞いた模様。その成果の一つが注17の論文であり、さらに「懐旧談拾遺」を「愛国主義」14・15・18・19・21・22号(1912・大正2年刊)に「齋藤先生言行録」を「愛国主義」23号付録(1913・大正3年刊)に掲載している。