黄金の島・ジパング 7時間目 眼は世界に!
さて今日は「鎖国」についての学習の補足です。
ちょっと復習をしよう。この時代は日本がヨーロッパの植民地になってしまう危険があったわけだけど、秀吉と家康・江戸幕府とでは対策が違った
ね。どう違ったかな?。
「質問! 植民地って何?」 うん。植民地ってのは、外国に征服された国で、その国の人も資源も何もかも、ぜんぶその征服した国の好き勝手にさ
れている国のことだよ。「じゃあ、アメリカとかアフリカみたいな国だね。」 そう。その通り。
じゃあ、秀吉は植民地化の危険にどんな対策をとったけ?。「世界征服!」 そうだね。それでどこを攻めたの? 「朝鮮!」 で、どうなったの?
「失敗した!!」 そう。その通り。では家康や江戸幕府は? 「鎖国した!」 そうだ。鎖国ってどうすること?。「貿易を禁止すること」 そうだっけ?
「ポルトガルとスペインの貿易は禁止した」 そうだね。でもどうして?。「攻めてくる危険があったから!!」 では他の国との貿易は?「禁止していな
い」 そう。やってた国は? 「中国!」「オランダ!」「朝鮮!」 つまり貿易を禁止したのではなく? 「制限した!!」 そうだね。
板書事項 ○植民地化の危険に対して @秀吉:世界征服をたくらみ朝鮮を攻めた A家康・幕府:鎖国(貿易を制限)した |
ところで、本当に秀吉と家康の政策は違うのか? 「えっ、どういうこと?」 つまり、江戸幕府は外国を征服して植民地にしなかったのかということ
だ。 「うーん。わかんないな」 じゃあヒント!。現在日本の範囲ってこんなとこだね(黒板に日本地図を書く)。この日本になっている中にもともと外
国の地域がなかったっけ?。
「あっ、琉球!」 そうだね。今のどこ?。「沖縄!!」 そう。沖縄だね。他には? 「北海道!!」 そう。昔はなんて読んでいたっけ? 「えぞ地」
そう。そのとおりだ。この二つの地域が日本になったのは江戸時代であり、どちらも征服されたんだ。どうしてそうなったか、教科書で確認してみよ
う。
教科書の記述 【琉球と蝦夷地】琉球は1609年、薩摩藩によて侵攻された。 それ以後、薩摩藩は琉球を支配し、これまでと同じように中国 につかえるかたちで貿易をおこなわせ、その利益をえた。また、 琉球からも使節が江戸に派遣された。 |
琉球はいつ誰が征服したの?.。 「1609年!」「薩摩藩!」 そうだね。それで何が欲しくて征服したの?。 「貿易の利益!」 どことの貿易?。
「中国との貿易」 そうだ。琉球を征服したけどこれまでどうりの独立国という形にして中国と貿易させ、その利益は薩摩藩が一人占めしたんだね。
「なんでそんなややこしいことしたの?」 うん? どう言う意味の質問かな?。 「中国と貿易して利益を得たいのなら自分で直接貿易したらいいじゃ
ん。他の国を征服して貿易させなくてもいいと思う。」 いい質問だね。みんなはこの○○くんの質問にどう答える?。
「そのほうがもうかるから?」 なんで? 「うーん。よくわかんない」「めんどくさいから?」「そんなの理由になんないよ!」「じゃあなんだよ!」
「日本が相手だと中国が貿易してくれないんじゃないかな?」 「えっつ、どうして?」「ほら、秀吉が朝鮮をせめたじゃないか。それで中国が怒って貿
易させないんじゃないか?」「なんで朝鮮せめて中国が怒るんだよ?」「うーん、・・・・」
秀吉が朝鮮を攻めたのはなんのためだっけ?。・・・・「中国を攻めるため!」「案内させようとしたら朝鮮が断ったから」 そうだね。だから朝鮮で秀
吉の軍が戦ったのは朝鮮の軍と中国の軍なんだ。「それで中国が怒って日本と貿易をさせなかったんだ」 そういうこと。くわしくは資料Fを見てみよ
う。
<黄金の島・ジパング>資料F「薩摩藩の琉球支配」 薩摩藩の琉球侵略 ○秀吉の朝鮮侵略いらい、明(中国)は日本との貿易を禁止した。日明貿易で 栄えた薩摩の港はさびれ、薩摩藩も収入の道をたたれ、財政難となっていった。 1609年、幕府の許可を得た薩摩藩は3000の兵と船100を出して琉球を侵略した。武器をすてていた琉球はあっけなく占領され、国王や貴族100人が捕虜となり、薩摩に連れ去られた。 薩摩藩は琉球王国に対し
ことを条件に形だけは独立を認めることとし、琉球が行う中国貿易の利益を独り占めした。 ○サトウキビ栽培と年貢としての砂糖納入 重い年貢と借金に苦しんだ琉球王国は日本では貴重品であった砂糖をつくり、それを年貢に代えることとした。
○琉球国王⇒薩摩藩 :銀35匁 ○薩摩藩 ⇒大阪商人 :銀70〜100匁 |
今沖縄の産物である砂糖きびもこうやって栽培されるようになったんだ。「なんで日本で砂糖が貴重だったの?」 日本でサトウキビができなかった
からだよ。だから値段が高いんだ。ちょっと資料をみてごらん。砂糖の金額をみて琉球農民と琉球国王と薩摩藩とで砂糖を売って得た利益が一番多
いのは誰かな? 「琉球農民は銀20匁」「琉球国王は銀15匁」「薩摩藩は銀35〜65匁」 「あっつ薩摩藩だ!!」 そうだね。薩摩藩だ。琉球から
直接大阪にもちこめればすごいもうけになるんだけどね。
板書事項 ○琉球の征服 1609年。薩摩藩が征服 中国貿易の利益が欲しくて征服(当時中国は日本との貿易を許さなかった) |
では蝦夷地のほうはどうだったのだろう。もう1度教科書を読んでみよう。
教科書の記述 【琉球と蝦夷地】 蝦夷地(北海道)については、1604年に家康が松前氏にアイヌ 民族との交易の独占権をあたえ、渡島半島南部をその領土と する松前藩ができた。松前氏は家臣にアイヌとの交易権の一部 をあたえ、家臣はそれを商人に請け負わせた。アイヌはこの 商人の下でさけ漁などきびしい労働や不利な交易を強いられた。 そこで1609年に首長のシャクシャインが、ひろくアイヌによびか けて武器をもって抵抗したが、4ヶ月後に暗殺された。 |
「アイヌってなんなの?」 蝦夷地にすむ人々のことだ。狩と採集・漁で主に生活し、そこでとれたものを日本の米やいろいろな道具と交換してくらし
ていたんだ。その首長のシャクシャインを頭に1609年にアイヌの人々が武器をもって抵抗したことが、蝦夷地が征服されるきっかけになったんだ。こ
の時アイヌの人々が武器をもって抵抗した原因は何んだ?。
「きびしい労働や不利な交易を強いられたから」 そうだね。誰に? 「商人に」 そうだ。誰が商人にそこをまかせたの? 「松前藩」「その家臣」
そのとおり。「質問! 交易って書いてあるけどアイヌの人は何を米なんかと交換したの?」 いい質問だね。蝦夷地って何がとれるんだっけ。
「ジャガイモ!」「とうもろこし!」「牛乳」「バター」 うん。それは今のはなしだ。アイヌの人は農業をほとんどやらない。狩と漁が中心だから・・・。
「海のもの?」 そう海のもの。「さけ!」「帆立貝」「たら」「カニ!!」・・・・。いろいろな海産物があるんだがそのへんは資料集を見てみようね。
「昆布も!」「干しあわび」「干したなまこ」「他にニシン」「干したなまこなんて誰が食べるんだ?」 いい質問だ。それをどうすると書いてある?
「中国へ輸出する!」「長崎から輸出する!」 そうだね。蝦夷地産の海産物の多くは長崎から中国へ輸出されていたんだ。その海産物をあつかう権
利を家康は松前氏に一人占めさせ、松前氏はそれを商人にやらせて自分は利益の一部をとる形にしたんだね。じゃ、そのへんの資料を読んでみよ
う。
○生活をおびやかされるアイヌの人々の抵抗 松前藩は、商人がアイヌの人々に対して米と干し鮭との交換で、約3〜20倍のもうけが 出るように基準を決めた。このことがアイヌの人々の生活を苦しめ、生活の場をうばったり したので、首長シャクシャインは他のアイヌ部族にも呼びかけて松前藩をたおそうとした。 2000人(アイヌ人口の1割に当たる)が蜂起し、2ヶ月の戦闘のすえ、松前藩は和議を 申し入れ,シャクシャインらを呼び寄せた。宴会の席でシャクシャインらを殺し,アイヌ最大の 戦いはおわった。(1669年) ○幕府と松前藩の政策 松前藩は、特定の商人に漁場での漁獲と加工生産と販売を請け負うことを許すかわりに その利益から藩主に運上金を払わせるようにした。アイヌの人々は、漁場に強制的に連行 され、本州の20〜30%程度の賃金で働かされる状態だった。 |
結局この戦いの後に幕府は蝦夷地を幕府の領地にしたんだ。ということは、松前藩や幕府や商人は何が欲しくてここを征服したのかな?。
「海産物!」「長崎から輸出するためのもの」 そうだね。ではなぜこの海産物をアイヌの人から手に入れるときの値段を低くしたり、低い給料にした
りしたのかな?。 「その方が長崎から輸出するときもうけが多いから」「安くしいれて高く売れるから」 そのとおりだね。
板書事項 ○蝦夷地の征服 1604年に松前藩が交易の権利を得たことで、不利益な状態になったアイヌの 人々が武器をもって抵抗した(シャクシャインの蜂起:1669)。これを武力で抑え た。⇒長崎から中国に輸出する海産物を安く手に入れたいから |
では最後に「鎖国」の状態の江戸時代に外国に開かれた窓がどうなっていたかをノートの問いを教科書を読んで確認してみよう。
○江戸時代外国に開かれた窓は? @長崎⇒〔 〕と貿易⇒商館長の出す【 】風説書 〔 〕と貿易 A対馬⇒〔 〕と貿易⇒【 】通信使が江戸へ来る B蝦夷⇒〔 〕と貿易 C琉球⇒〔 〕と貿易 |
1番の長崎で貿易したのは? 「オランダ!」 そうだね。もう一つは?。「中国」。2番の対馬は? 「朝鮮」 そのとおり。3番の蝦夷では?「アイヌ
人」 はい。正解。4番の琉球では? 「中国」 そうです。そしてこれらの窓を通じて外国の情報を得ていたんだ。たとえばオランダからはオランダ風
説書。これには半年遅れでいろんな情報が書かれていたんだ。たとえば日本の鎖国をやめさせるためにアメリカから派遣された人・・・・。「ペリーの
こと?」 そう。ぺりー。これはオランダ風説書で幕府は事前に知っていたし、江戸にくる半年前にペリーが琉球へ立ち寄ったので、琉球からは詳しい
情報が幕府に入っていたんだよ。朝鮮からは将軍の代がかわるごとに朝鮮通信使がやってくるんで、いろんな人が世界の情報が欲しくて使節の宿
に押しかけたそうだ。 「蝦夷のアイヌ人からは?」 ここの人は中国やロシアとも交易していたので、この方面の情報は得られたそうだよ。
鎖国といっても、眼は世界に向いていたわけだ。