亀井城の謎(その2)

6.「亀井城」はだれの城か

                                                                          佐藤 康人


1)亀井城伝説の矛盾点

 亀井城の謎については、今までいろんな議論が交わされてきました。でのその内容の大体は、亀井城は平安時代末の武士、亀井六郎重清のも

のであった、というようなものでした。でも私は、この今まで述べられてきたこの説にいくつかの疑問を感じました。

  一つは、亀井六郎が死んだのは、1190(建久元)年衣川の合戦で、わずか23才で戦死したと義経記には書かれています。また、亀井六郎がこ

の地に領地をもらったという記録もないし、源平合戦が終わってから(1185年)衣川の合戦で死ぬ(1190年)までわずか5年しかないのです。亀井

六郎がなぜこの地に来たかということもわかっていないどころか、来ていないかもしれません。来たとしても、ある戦功を挙げここに領地をもらったと

しても、戦死した時23才であるから、そう長くはいられなかったでしょう。そう長くもいられなかったのに、どうして城を構えることができたでしょう。

 もう一つは、城の遺構のことについてです。城の遺構(らしきもの)は、亀井住宅の南側のがけにあります。先輩たちが初めてこの遺構を発見し

て、細長く不思議な平地を「謎の平地」と名付けました。今年度になって、地形班のみなさんが、今まで一段しかないと思われていた平地が三段だっ

た!!という大発見をしました。

 上の図は、地形班が今回発見した城の遺構の図です。はたしてこの遺構らしきものは何時代のものでしょうか?。

 そこで私たちは昨年8月と9月に、この近くにある戦国時代前期〜中期に築かれた城をいくつか見学してきました。

 城といえば天守閣があって、石垣があって・・・・という発想をしがちですが、そういう城は戦国時代後期から江戸時代初期の城であって、前期から

中期の城は、土塁と堀(空堀)、曲輪などから成る城です。

 実際に見学してみると、実に亀井住宅の南のがけの遺構らしきものと似ているのです。図をみても(5.多摩丘陵の城の特徴の変遷の図8・9を見

よ)わかるように、複雑に段々になっています。しかも下の畑から細長い平地まで登るのも大変です。5mくらいはあるでしょう。

 このように、この謎の平地は戦国時代前期〜中期の城跡の一部といってよいでしょう。このような城の遺構を平安時代の末の武士が築くことがで

きるでしょう?。それに、平安時代末のころに、このような城を築く技術があったでしょうか。

 このように、言い伝えによる「今の亀井住宅の所に昔お城があって、亀井六郎という人が住んだから亀井と呼ばれるようになった」ということには、

かなりの矛盾が生じてくるのがおわかりになるでしょう。

2)亀井六郎は実在したのではないか

 このようなことから、私は、二つの仮説を出しました。

 その一つは、「亀井六郎という人は、実在したのではないか」ということです。

 この説の根拠は、亀井六郎の名がいろんな文献に出てくるということです。特にこれを決定づけるのは、鎌倉幕府自身が編纂した史書「吾妻鏡」

に、亀井六郎が出てくることです。その他に、源平盛衰記という、源氏と平氏の最盛と滅亡を記している本には、「鎌倉時代の武人。源義経の臣。六

郎と称す。義経に仕え、一谷・屋島・壇ノ浦に平氏を征して功あり。その終わるところを知らず」。平凡社大辞典には「源義経の四天王の一人。通称

は六郎。一谷・屋島・壇ノ浦で数々の戦功をたてる。のち義経と奥州に従う」。その他にも義経記等にも出てきます。

 これだけいろんな資料に出てくれば実在したとしかいえないでしょう。ただし、義経記は室町時代に作られたものであって、多少誤差が出てきま

す。しかし、この分補強するのが吾妻鏡であって、このような説を出したのです。

3)亀井城は小嶋佐渡守の城ではないか

 もう一つの仮説は、亀井城は亀井六郎の城ではなく、小嶋佐渡守の城ではないかというものです。

 この説の根拠は、前にも述べたように、亀井住宅の南側のがけの城の遺構が、戦国時代前期から中期の城の遺構にあてはまるということです。

ということは、あの城の遺構らしきものは何でしょうか。ただの土地とは考えられません。

 すると、ふと浮かんできたのは、小嶋佐渡守です。小嶋佐渡守は、永正11年(1514年)9月21日没となっています。まったく城の遺構と小嶋佐渡

守のいきた年代を組み合わせると、ほぼ同じ年代にあてはまるのです。また、亀井六郎がこの地に来たという記録は全くないのです。

 そこで私はこう考えました。「新編武蔵風土記稿」に『小名亀井・・村の東をいう。亀井という人が居住してから後、このように呼んだともいう」と記さ

れています。しかし、その亀井というのは亀井六郎ではなく、他の亀井という人ではないでしょうか。先輩たちは亀井城は亀井六郎の城だったといい

ますが、私は亀井六郎は城を築いてないと思います。このことについては、前にも述べましたが、あのような亀井住宅の南側の遺構などつくれませ

ん。そこで小嶋佐渡守じゃないか?と出て来たのです。そして今年の2月ごろから私は小嶋佐渡守説(自称)をまとめていきました。

−−−−−(中   略)−−−−−              

4)さいごに

 今回私は、改めて亀井城の謎の深さを知りました。そしてこの推論を出したのですが。いまだ不充分なところがいくつかあります。一つは、亀井住

宅南の遺構の他に、小嶋家や常安寺、月読神社の近くの斜面に遺構があるかです。このことは後にくわしく調べたいと思います。今年になってこの

謎だけでもかなり解けてきたと私は思います。来年号までには、この謎を明白にしたいと思います。

 

 以上の考察は、部員の佐藤康人が1987年秋の文化祭での発表を元に加筆修正したものです。

 ここに独立の論文として収録したのは、今までの考察とは違った方向に進み初めているからです。今までの亀井城についての研究は、亀井城は

亀井六郎の城として研究が進められ、それを文献に主として依拠して研究してきました。       

 しかし、佐藤君は、亀井住宅南側の遺構が戦国時代の中頃の城跡らしいということに依拠して、今までと違う方向に目を向けました。

 ここで佐藤君が、亀井城を築いた主と考えている小嶋佐渡守は、亀井住宅南側にある常安寺をつくった人で、柿の実幼稚園の園長である小嶋さ

んの先祖にあたります。1514年没というのは、新編武蔵風土記稿によりました。         

 今後は、遺構と他の城との比較研究を深めると同時に、この小嶋佐渡守との関連についても調べていく必要があるように思います。

                                                                   −−−顧問による注記−−− 


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