亀井城の謎(その2)
2.鈴木氏と佐々木氏
亀井六郎の出自については、紀伊の国の鈴木氏という説と近江の国の佐々木氏という説があることがわかりました。そこで、この両氏について、
少し調べてみました。
@紀伊熊野の豪族,鈴木氏
鈴木氏は熊野大社を護る豪族の流れをくみ、紀伊の国(今の和歌山県)の新宮の地から発して、紀伊の国全域に広がったもののようです。そして
その中でも最も有力な一族が、紀伊の国の名草郡藤白浦(現在の和歌山市付近と思われます)を代々の所領とする鈴木氏であり、亀井六郎の兄、
鈴木三郎重家はこの一族の出です。
鈴木氏の家譜によると、重家に至る氏の流れは次のようになっています。
鈴木基行 ↓ (20数代略) ↓ 判官真勝(8世紀末の人) ↓ 基隆 ↓ 俊基 ↓ 俊家 ↓ 日向守基経 ↓ 越中守範基 ↓ 資基 ↓ 基平 ↓ 庄司重包(熊野八庄司の頭。長徳の頃(995 〜998)に出羽掾となった) ↓ 掃部助重氏 ↓ 越中守重康 ↓ 重光(天永3年-1112-2月に死) ↓ 左近将監重元 ↓ 左近将監重邦(源為義の家臣) ↓ 庄司重倫 ↓ 鈴木重家 |
〔鈴木氏の系図〕
また、先に紹介した鈴木氏の家の伝えによると、鈴木三郎重家の父は鈴木三郎重國といい、源義朝の家臣であったとしています。系図の重倫と
異なるわけですが、その父重邦が源為義の家臣であったとの伝えとともに、鈴木氏が源氏と関わりがあったらしいことがわかります。〔前掲 「姓氏
家系大辞典」による〕
しかし、源平の戦いにおいては、紀伊の鈴木氏は最初から源氏方に属して戦ったわけではないようです。
藤白の鈴木氏は後世海上交通を握り、海外との貿易で名をなした(室町時代において、鈴木氏は海外貿易に携わり、それが拠る紀の川の河口一
帯の土地は堺ともならぶ自由都市の様相を呈していました。)ことからもわかるように、古くから海上交通に携わっていました。すなわち、熊野水軍と
いうのがそれです。
この熊野水軍が源氏方に加わるのは、源義経が讃岐の国(今の香川県)の屋島において平氏を破った、元暦2(1185)年の2月以後のことです。
ここで始めて、熊野の別当の湛増率いる水軍が源氏方に加わり、また,この一族と親戚関係にある瀬戸内海の水軍も源氏方に加わる事によっ
て、以後、壇の浦の戦いにいたる戦いにおいて、源氏が水軍を使用して戦うことができたわけです。
この熊野水軍を義経が味方につけた事が、源氏の勝利を決定づけたと言っても過言ではありません。想像をたくましくすれば、鈴木氏と義経が以
前からつながりがあったからこそ、熊野水軍を義経が味方にできたのかもしれません。
鈴木氏の家の伝えによると、鈴木三郎重家は義経に従って戦には出ず、弟の亀井六郎が義経にしたがった。そして義経が兄頼朝との争いに敗
れて奥州平泉に逃れた後、高館にて安住の地を得たとの手紙が届いたので、鈴木三郎重家は山伏の姿をして奥州に下り、衣川の戦いにおいて弟
亀井六郎と共に戦死をとげたという。その後鈴木氏は、重家の弟の治郎重治が跡をついだという。〔前掲 「姓氏家系大辞典」による〕
以上が現在の所で鈴木氏についてわかっている所です。
A源氏と関わりの深い佐々木氏
佐々木氏は、近江の国の蒲生郡佐々木郷(今の安土市のあたり)を所領としていた豪族であり、宇多天皇の子孫、宇多源氏と称していました。
〔図1 佐々木氏と源氏との略系図 〕
宇多天皇から8代目の子孫が佐々木三郎秀義です。
秀義は保安3(1122)年に元服し、13才の時に、時の源氏の棟梁である源為義の娘婿となりました。そして源為義に常に従って戦っていました。
そのため、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱においても源氏の棟梁源義朝に従って合戦に加わり、大活躍しました。しかし、源氏が戦いに
敗れたので義朝と共に都から逃れ、領地佐々木の庄に戻りました。
そして主人義朝が家来の裏切りによって討たれ平氏の天下になってからも平氏の家臣とはなろうとしなかったので佐々木庄をとりあげられ、奥州
平泉の藤原秀衡を頼んで奥州に下ろうとしたが、途中の相模の国の渋谷の庄で渋谷庄司重国にみこまれ、相模の国に住み着きました。
この間、5人の息子のうち、太郎定綱は宇都宮に、次郎経高は相模の国の波多野に、三郎盛綱は相模の国の渋谷に、四郎高綱は都に、五郎義
清は大場三郎の妹婿なので相模の国に潜んでいましたが、その後父の下に集まりました。
そして秀義は上の4人の息子を伊豆にいた源頼朝の下に送ってその家来とし、源氏再興の時期を待ち、この4人の息子達は頼朝の平氏追討の
戦いに当初から加わり、大きな働きをしました。
その結果、佐々木氏は鎌倉幕府の中でも有力な武士となり、後に諸国の守護ともなりました。(太郎定綱は近江・長門・石見・隠岐の守護、次郎経
高は淡路・阿波・土佐などの守護、三郎盛綱は上野・讃岐・伊予の守護、四郎高綱は備前・安芸・周防・因幡・伯耆・日向・出雲などの守護、五郎義
清は隠岐・伯耆・出雲などの守護)
〔図2 佐々木氏の鎌倉時代の守護配置図 〕
そればかりではなく、この5人の兄弟は、将軍頼朝の側近として常に幕府の政治に参画し、太郎定綱・次郎経高は幕府が京都の朝廷と折衝する
時の責任者でもありました。
従って、佐々木一族は源氏将軍家の側近として最も有力な御家人の一つであり、頼朝の死後に勢力を強めた北条一族と対立するようになり、承
久3(1221)年に起きた承久の乱においては、一族の多くが後鳥羽上皇方について北条一族と戦うことになりました。
佐々木本流を継いだ広綱(定綱の長男で当時山城守)は上皇方の中心人物の一人として戦いの多くを指揮し、戦いの中で討ち死にをしました。ま
た次郎経高も当時京都におり、上皇方の中心人物の一人と目されており、上皇方が戦いに敗れる中で自害してはてました。
一族の多くが上皇方についた中で、定綱の4男の四郎信綱は北条一族と姻戚関係もあったので幕府方として戦い、宇治川の戦いなどで手柄をあ
げ、近江の国の佐々木庄の本領安堵と近江守護職を得ましたが、諸国の領地の多くは失ったようです。
以上のように佐々木氏は源氏とはかなり繋がりの深い武士であり、しかも有力な家臣であったことがわかります。そして秀義の5人の子息のうち
で、太郎定綱・三郎盛綱・四郎高綱は源為義の娘を母としており、源氏とも姻戚関係があったわけです。さらに平氏追討の戦いに源氏が勝利し、鎌
倉に武士の政権をつくって行く過程においては佐々木氏は大きな働きをしており、諸国に領地を得、将軍頼朝の側近として活動していたこともわか
ります。
Bまとめ(亀井六郎は佐々木の出か?)
さて以上の調査によって鈴木氏・佐々木氏共に源氏とは関わりのある武士だということが分かりました。
しかし、より詳しくその関わりの内容を見てみると、佐々木氏の方がより関わりが深いことが分かります。しかも、源平の合戦において鈴木氏は戦
いの最後の方になって源氏方についたのに対して、佐々木氏の方は一貫して源氏方に立ち、源氏再興の旗を掲げて戦っていたことも大きな違いで
す。
さらに鈴木氏は一地方豪族として鎌倉幕府の時代を過ごしたのに対し(鎌倉時代の末期に北条一族の手によって編纂された歴史書である吾妻鏡
には紀伊の鈴木一族についての記述はないので)、佐々木氏は源氏将軍家が続いている間は幕府の中枢にいて政治に参画する有力御家人であ
ったことも大きな違いです。
そしてこの事の意味することは、佐々木氏の方が本領の地以外に領地を得る可能性が高かったということです。
この「亀井城の謎」を解くにあたって鈴木氏と佐々木氏とが問題になっていたのは、亀井城の主と言われる亀井六郎の出自に関わってのことでし
た。そしてそのどちらの出であったにしても、本領がこの麻生の亀井地区とはかなり遠い(鈴木氏は紀伊の国・佐々木氏は近江の国が本領)西国に
あり、西国には鎌倉幕府の勢力が余り及んでおらず、幕府を支えていたのは東国の武士であることから、東国、しかもその中心地鎌倉に近い亀井
の地を西国の武士が領地とすることに疑問が持たれていました。
〔図3 鈴木氏・佐々木氏と麻生の関係地図 〕
この疑問について以上の調査をもとにして考えてみましょう。
亀井六郎が佐々木氏の出であると考えた方がより可能性が高いように思われます。
なぜならば、佐々木氏は幕府の有力御家人であり、源平の戦いにおいては事実上東国武士の一員として戦ってきました。従って近江の国を本領
とする佐々木氏が東国相模の国に領地を得る可能性は高いわけです。
この点を補足する資料があります。
江戸時代の地歴書である「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡鳥山村の記述に佐々木高綱の館跡があることが書かれています。
八幡宮の西なり、今は陸田となる。観音縁起によるに『高綱・当所及び近郷を領せし頃、この地 へ十余町四方の館をかまえ、四面へ堀をめぐらして要害とし、一族六角太郎・鳥山左衛門を両 目代とし、猿川庄司を舎人としてここにとどめおき、其の身は鎌倉にありて勤仕せり』といえり |
この鳥山の地は亀井の地から鶴見川に沿って東南に約12qの所です。
また昔川崎にあった勝福寺の鐘の銘文によるとこの寺の大旦那が佐々木泰綱(佐々木信綱の3男で家督を継いだ)であり、この川崎が佐々木氏
の領地であったと推定されています。〔川崎市史を参照のこと〕
さらに「吾妻鏡」には、この佐々木泰綱が争論の場で、佐々木の一族数代、関東にあって数十箇所の領地ある由を述べたという記述があるそうで
す。(まだ確認できていませんが)
以上のように考えて来ると、亀井六郎は佐々木の出である可能性が高まってきます。
ではこのことを証明する資料はあるのでしょうか。残念なことに今のところそれは発見されてはいません。ただ一つだけ興味深い資料があります。
それは佐々木源三秀義には今までに述べてきた5人の息子以外にもう一人の息子がいたというものです。
図1の佐々木系図にある厳秀(かねひで)がそれです。
秀義の6男、六郎厳秀の母の名や生まれた年などはよくわかりませんが、資料によると「出家して山門の僧となり、佐々貴社の別当となって吉田
氏と称した」というのです。
山門とは延暦寺のことであり、佐々木氏の領地佐々木庄の領家(名目上の領主)は延暦寺であって、しばしば佐々木氏と領地争いもしていまし
た。また佐々貴社とは佐々木氏の氏神であり、佐々木氏はこの神社の神主でもありました。
〔以上は『国史大辞典』吉川弘文館 昭和60年刊より〕
厳秀については以上のことしかわかっていません。
吾妻鏡にもこの息子のことについては全く記述がありません。
兄頼朝と対立した義経を助けかくまった延暦寺。この延暦寺と佐々木氏とは関係が深いわけですが、この延暦寺の僧であったという厳秀。かの義
経の家臣であった武蔵坊弁慶も、かっては延暦寺の僧でありました。このあたりに義経とのつながりを感じ、亀井六郎とのつながりをも推定したくな
るのですが、これは全く証拠がありませんので、今後検討すべき課題とするに止めておきましょう。 〔以上の考察のうち、佐々木氏の項目については部員の倉持 亘の調査を基にし、鈴木氏の項目については伊藤 悟以下の卒業生の調査を基に
してまとめ、顧問が考察を付け加えたものです。〕