亀井城の謎(その2)
3. 義経記に出てくる主な家来−( 亀井六郎の出自を探る )−
「亀井六郎とは一体どういう人なのか」。この問題を探る作業の一つとして、義経の主な家来について調べてみました。
つまり、のちに義経と兄の頼朝とは対立するわけですが、その背景にはこの兄弟を支える勢力の違いがあったのではないか、という推測が成り立
ちます。
兄の頼朝が、関東の武士団を背景としている事はよく知られていますが、弟の義経は、それとは違う勢力を背景としているのではないか。そしてそ
の勢力の性格から見て、亀井六郎はどう位置づけられるのか。こういう事を考えて、義経の主な家来について調べてみました。
資料として使ったのは、『義経記』という書物です。
これは、義経の時代よりかなり後の室町時代初期に作られた書物で、かなり後世の脚色が加えられていると思いますが、義経について、唯一のま
とまった資料なので、ここに出てくる主な家来を調べてみました。
調べたのは、
武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい) 伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり) 佐藤三郎継信(さとうさぶろうつぐのぶ) 佐藤四郎忠信(さとうしろうただのぶ) 常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん) |
の5人です。
この5人はいずれも義経のすぐれた家来で、四天王とも言われています。
ある説には、四天王とは,弁慶・佐藤忠信、そして今一番調査に力を入れている亀井六郎重清・伊勢三郎又は常陸坊海尊と伝えられています。
常陸坊海尊と伊勢三郎、どちらにしても豪傑なので、どちらでも四天王の一人といっても良いと思います。
@武蔵坊弁慶−日本一の豪傑の意外な生い立ち−
父は熊野の別当の弁昌(又は弁生)、母は二位の大納言の娘といいます。
母の二位の大納言の姫君は、とても美しく、弁昌に強引に妻にさせられました。母が弁慶を身ごもってから、弁慶は18ヶ月間も母の腹の中にい
て、生まれた時には、2・3才の子供ぐらいの大きさであったといいます。髪は肩の辺りまで生え、奥歯も前歯も生えそろっていました。
弁昌はこの子を見て、「鬼神にちがいない。これを育てては仏教の仇になる。早く殺せ。」と言ったが、母や別当の妹の山井の三位の北の方が反
対し、別当の妹が「法師とするか我が家をつがす」と熱心にたのむため、この妹に手渡されました。
鬼若と名付けられ、51日後、京へ連れていかれ、乳母に育てられた。
5才になると12・3才ぐらいの大きさになり、6才の時に疱瘡にかかり、あばた面になりました。すごい容貌なので、ふつうの男にするより、法師にし
た方が良いと別当の妹は考え、比叡山西塔の僧正寛慶にあずけました。
そして月日がたち、背丈も伸び、学問も非常に進歩しましたが、他の稚児などの学問のじゃまをしたり、その他の乱行を重ねたために僧正が困っ
ているのを知り、比叡山を出て、武蔵坊弁慶と名乗りました。
その後播磨の国(今の兵庫県)の書写山で学んだがけんかをし、火事を起こしてしまったので、京にもどり、刀を千本あつめることにしました。その
千本目が義経で、はげしく打ち合った末、弁慶が負け、義経の家来になったということです。
以上が『義経記』に書いてある弁慶の生い立ちです。
様々に脚色してありますが、ようするに弁慶は、熊野の別当(熊野大社の神宮寺の総監督者)の息子であったというのです。
A佐藤三郎・四郎−頼朝もあっぱれ!!豪傑兄弟−
藤原鎌足の子孫。信夫の庄(今の福島県福島市の郊外)の庄司の息子です。
三郎継信は長男で、四郎忠信は次男。共に奥州平泉の藤原秀衡の家来です。
義経が始めて奥州に下った時に、秀衡は自分の家来の中ですぐれた者を義経の家来にさせましたが、この兄弟もその中にいました。二人は義経
に忠実に仕え、平家打倒の時から戦功をたてました。
しかし、三郎継信は屋島の合戦で義経をかばって矢を受け、『源平屋島の合戦に、佐藤継信という武者が、主君義経の身代わりになって討たれた
と後世に言い伝えられるのは名誉です。』と言って、喜んで死んでいきました。
四郎忠信はその後も義経に仕え、義経が兄の頼朝と対立して逃亡した時、吉野山の中院谷でとどまって追手をくい止め、ここで殺されたように見
せかけて京に逃げました。そこで愛人の家にかくまってもらうのですが、愛人が裏切って六波羅(幕府の京の出先機関)に訴えたので、追手がかか
りました。そのため忠信は義経の元の屋敷で六波羅の北条義時が来るのを待ち、強弓をひきしぼって応戦しましたが、戦い疲れて腹を切って死に
ました。この時28才。
その時の様子は、腹を切っても死に切れず、念仏を高らかに唱えていたほどで、やっと口の中に刀を入れてつきさして死んだほどの豪傑です。頼
朝はこの話しを義時から聞き、「敵ながらあっぱれ。」と、亡き父義朝をとむらうために建てた勝長寿院にねんごろにほうむり、寺の別当に供養させ
たといいます。人々は「昔も今も、これほどあっぱれな武士はいない!!」とほめたたえました。
以上が佐藤継信・忠信兄弟について『義経記』に書いてあったことです。
ようするにその出身は、奥州平泉の藤原秀衡(東北地方に独立王国を築いていた武士)の家来で、信夫地方を治める有力な武士であったという
わけです。
B伊勢三郎義盛 −義経の大事な右腕−
父は伊勢の国二見の者。名は義道(又は義連)といい、伊勢大神宮の神主でした。
左馬頭義朝に目をかけられていたが、九条の上人と衝突し、そのため上野の国に流されました。そしてその地で結婚しましたが、妻が妊娠して7ヶ
月という時に死にました。この後で生まれた子が義盛です。
その後平家の世になり、義盛は多くの家来を従えていましたが、源氏の人に会いたいと思っていました。そこへ奥州へ下る途中の義経が宿を借り
たので会って感激し、家来になりました。そしてその後の源平の戦いの中でたびたび戦功をあげましたが、衣川の戦いで戦死しました。
以上が伊勢三郎義盛についてですが、彼の出自は、伊勢神宮と関わりのある豪族だというわけです。
C常陸坊海尊−弁慶とならぶ恐ろしい法師−
その生まれなどはよくわかりませんが、近江の国の園城寺(三井寺)の僧であったようです。そして頼朝が平家打倒のために挙兵した後に義経が
奥州からかけつけた時、近江の三井寺からはるばる訪ねてきて、義経の家来になりました。
その後のことは『義経記』にはあまり書かれていませんが、衣川の合戦の時に、朝から近くの寺に御参りに行くといって、そのまま帰ってこなかった
そうです。
D調査のまとめ
以上のように,義経の主な家来を『義経記』の中で調べてみたところ,意外なことがわかりました。
今まであげてきた主な家来は,皆良い家の出身といえます。
弁慶の父の弁昌は熊野の別当といいますので、熊野大社の神宮寺の総監督者です。つまりは、この熊野大社を支える豪族集団との関わりが深
いわけです。また、伊勢三郎の父は伊勢神宮の神主ということなので、伊勢神宮を支える豪族の一員といえます。佐藤兄弟の父は信夫の庄司とい
いますので、信夫の庄を支配する豪族の長であります。(常陸坊海尊だけはよくわかりませんが)
もう一つ興味深いことがあります。以上4人の出身地(又は父の出身地)を下の地図のように図示し、それと源平の戦い当初の諸勢力の勢力範囲
の地図とを重ねあわせてみましょう。
〔図4 義経の4人の家来の出身地と源平の戦い当初の勢力範囲 〕
この4人の出身地は、全て当時の源頼朝の勢力範囲の外に位置しています。しかもそれは、後に頼朝に対抗する勢力の地域にあります。
つまり、佐藤兄弟は、頼朝の背後にそびえる大勢力、藤原秀衡の家臣であり、明確に頼朝に対抗する勢力の一員であります。そして他の、弁慶・
伊勢三郎は、頼朝を頂点とする関東武士団の最大の敵である朝廷と貴族・寺社勢力の強い地方を出身地とし、しかもその父は、別当・神官とある
ように、その貴族・寺社勢力の中心または、それと深い関わりのある豪族といえるわけです。
平氏討伐の最大の功労者として活躍した義経。その彼が兄頼朝と対立した理由は、義経が諸国の武士の、とりわけ貴族・寺社勢力に対する独立
性の強い関東武士団の要求を理解できず、後白河法皇などにあやつられたといわれています。しかし、義経を支える主な家来についての以上の考
察を基にしてみると、義経の無知というより、義経を支える勢力そのものが、朝廷・貴族・寺社の勢力と密接な繋がりがあったのではないかと思われ
ます。
『義経記』は後世の作なので、その記述の全てが事実だとは言えないのですが、『義経記』の中に出てくる義経の主な家来の「性格」は、義経と頼
朝の対立の奥深い原因を説明するものとなっています。その意味で、『義経記』の義経の家来に関する記述は、作者の創作ではなくて、事実をかな
り反映しているのではないでしょうか。
以上のように考えてくると、亀井六郎はどのように位置付けられるのでしょうか。
紀伊の国の鈴木氏の出身と考えてみると、鈴木氏は熊野大社の神官であり、他の義経の主な家来の「性格」と一致します。また、佐々木氏の出
身と考えてみても、佐々木氏は、比叡山延暦寺の寺領の庄司であり、後に関東武士団を代表する北条氏と対立し、朝廷・貴族・寺社勢力とむすん
で鎌倉幕府と戦うところなど、かなり、この旧来の勢力ともつながりが深いことがわかります。つまり、佐々木氏の出身としても、他の義経の主な家
来の「性格」と一致するわけです。
残念ながら、亀井六郎の出自を限定していくことはできませんでしたが、亀井六郎も含めて、義経の主な家来には共通した「性格」があることがわ
かりました。 (以上の考察は、部員の佐藤康人の調査を基に、顧問が加筆修正しました。)