★Kさんへの手紙2:愛国心教育について★

20061115日

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 急に季節は冬となり、毎日、冬らしい綺麗な青空が広がっています。しかし、この澄んだ青空とは正反対に、世間は騒々しく動いていますね。
 昨晩のNHKのクローズ・アップ現代は、教育基本法の改正にからんんで、愛国心をどう学校で教えるのかという問題を取り上げていました。
 この番組の中で道徳の授業で愛国心を取り上げている2つの小学校での授業が紹介されましたが、正直言って、授業として愛国心を取り上げることは、どうやっても愛国心の押し付けになってしまうとの感を強くしました。またなぜそうなるかと言うと、そこで提起されている愛国心が、「自国だけを愛する」という、他者の存在を無視した偏狭な愛国心だからです。
 番組の冒頭で、同じく愛国心を正面から取り上げている2つの高校の例が取り上げられていました。
 一つは皇學館高校。ここはまさに教育勅語を取り上げ、愛国心とは「家族などの大事なものを守るということの延長だ」と高校生をして言わせていました。
 二つ目は、女子聖学院。校長は講話の中で、愛国心とは自分の国に誇りを持って愛するとともに、他国をも自国と同じように愛すると言う事、他国の人もその国に誇りを持って愛していることを尊重することでなければならないと言っていました。この説明は、大東亜戦争の中で信教の自由を奪われた経験に基づきかつキリスト教精神に裏付けられたものなのでしょう。
 このキリスト系学校の取り組みを背景にして、先の小学校の実践を見てみると、どうして押し付けにならざるを得ないかがよくわかりました。
 一つの小学校では、常夏の国から来た女の子が「日本って四季の変化があって美しい国だね」と日本人の男の子に語ったという教材を手がかりにして、富士山の四季の変化の写真を媒介にして「日本とはとても美しい国であり、愛するに足る国である」と子どもに言わせようとする授業でした。多くの児童は、教師の誘導に素直に従って、教師が期待したような応えを回答していました。しかし一人の女子児童がその流れに疑問を差し挟んでいました。彼女はこう言いました。「常夏の国だって一年中綺麗な花が咲き誇ってとても美しいのに、どうして彼女は日本を美しい国だと言うのだろう」と。教師はこの疑問を徹底的に排除して、日本は美しい国だと強引に富士山の写真を使って導こうとしました。常夏の国は綺麗だけど一年中変化がない。これにたいして日本は四季によって同じ風景も大きく変化し、富士山だってさまざまな顔を見せてくれる。花も季節によってドンドン変る。だから美しいと感じたのではないかと。こういう方向に児童の思考を強引に持って行きました。多くの子はこれ以上疑問を感じることなく、だから日本は美しいと応えました。でも先ほどの女子生徒は最後まで食い下がっていました。
 この教師が取り上げた教材は、日本も美しいが他の国も違った美しさがある、ということを認識させるし、それぞれの国の人が、それぞれの国を愛しているという認識に到達させるものであり、他国の美しさも認める感性の大事さにも気付く契機を内包していました。しかし教師はただ日本は美しいとその一点だけ。しかも常夏の国より美しい。変化のない国より変化のある国の方が美しい。この論理で日本は美しい。だから大切に思わなくてはいけない。こういう形で愛国心に強引に持っていきました。
 他国より美しいから日本は素晴らしい。これでは偏狭な他国を排除した愛国心であり、広まりも深まりもない授業だと思いました。教師の誘導に逆らってもっと深く思考しようという児童の疑問を大事にしそれによりそってこそ、深い認識に到達できるのではないでしょうか。
 もう一つの小学校の実践は、日本の伝統というものの大切さ、これを守る事の大切さを、箸という生活文化を具体的に取り上げて教えようというもの。特に、箸の使い方には伝統的なさまざまなルールがあるということを示し、どうしてこういうルールが今まで続いていたのかを児童に考えさえ、それで伝統を守ることは大切だからと言わせようとした。
 しかし児童はこう問いかけられて完全に詰まってしまった。なぜ○○のようなルールがあるのかは、他人に対する礼儀としてや、食べ物に対する感謝の気持ちや、箸を振り回すことの危険性など、さまざまな理由が考えられ、これは児童も考えることが出来た。しかしこれと、伝統を大事にすることとはどうしても繋がらない。教師も困っていた。しかし、普通に考えてもつながらない。伝統を大切にしようとしたから続いたのではない。ルールそのものに意味を見出したから続いてきたのだし、その意味、箸を使う様々な仕草の中に込められた心性を忘れてしまい、それに意味を感じなければ伝統は消えるわけだ。箸の使い方そのものだって、多くの子どもが知らなかったはずだ。教師だって勉強して初めて知ったことのはず。今や箸の使い方をめぐる伝統は失われつつある。どうして失われつつあるのか。そこを問うて行けば、伝統と社会の関係という、もっと深い問題につながっていき、逆に伝統の中に息づいた昔の人の心のあり方や暮らしの在り方を再認識することにつながる。こういう深い問題意識を媒介にしないと、伝統の大切さを認識する心は育たない。箸の使い方という伝統の存在そのものから、伝統の大切さに至ろうという問いの設定そのものに無理があるわけだ。一回の授業で育てられるものじゃないいんだ。
 この2つの授業を見て思いました。そもそも教えている教師自身が、日本という国に誇りを持ち、それを大事にするという心性を持っているのか。また日本の伝統と言うものを日常的に意識し、それを大事にしようとする心性を持っているのか。だいたい大人は、このような心性を持っているのか。愛国心教育を進めようとする政治家達は持っているのか。こういう疑問です。
 戦後の日本は、いや明治維新以来の日本は、日本の伝統文化などというものは打ち捨てて、ヨーロッパ文化・アメリカ文化を取り入れることだけに邁進してきた。伝統文化は文化遺産に落としこめられ、日常生活に生きつづけその中で変化し続けるものではなく、昔のままに博物館に保存されるべきものに変えられていった。日本人はずっとヨーロッパ・アメリカに憧れ続け、その生活様式に慣れ親しむことが文明化だと思ってきた。このあたりがそれの植民地とされ、長い闘争を経て独立し、自力で国を作ってきたアジアの国々とは異なる所だ。アメリカを源流とする大量生産大量消費の社会を美しいとし、商品だけではなく人間までも規格品にしてしまい、日本は世界で最も、自国の自然も人も大事にしない、何でも飽くなき利潤追求の手段と化してしまった国です。
 このような近代日本の100年の歩みを再検討することをせずに、ただ日本を愛せ、日本の伝統を愛せでは、戦前の日本が「天照大神の神の子孫を戴く日本は、世界に冠たるものである」とした、そうやって出来た愛国心と同質のものが作られるだけでしょう。あれは欧米が世界を席巻することに対するアンチ・テーゼとしての意味はあったとは思いますが、自国中心の周辺のアジア諸国蔑視の感性に依拠していただけでした。また日本自身のありかたを再検討するものでもなかった。
 いま、日本国政府がつくりあげようとする愛国心も、どうやっても同じものでしかないのではないか。だから押しつけるしか方法がない。自他ともに愛するという意味での愛国心は、それこそ日常的に異文化に接し、異なる感性や異なる習慣を大事にし、一人一人違った個性を持った人間を大事にする中で生まれてくるものだ。そういう感性を持った人間には、偏狭な愛国心は受け入れがたい。そういう感性を持った人間は、教師のように権威を持った者が「左向け左」「右向け右」と言ってもただちにそうすることはなく、自分で考え行動する。
 先ほどの授業で、あくまでも「自分の国も美しいのにどうして日本を美しい」と言ったのかにこだわった女子児童は、そういう感性をもった子どもなのでしょう。では教師の誘導に素直にしたがって日本は美しいすばらしい国だと答えていた児童はどうなのでしょう。内心では教師の誘導に疑問を持っていてもそれを外に出さなかった子も多いとは思いますが、教師の誘導に疑問を持たない子どもが多かったことに恐ろしさを感じます。これは日常的に授業の中で自分で考え自分で応えを見つけるという姿勢が貫かれていない結果なのでしょう。勉強とは教師が提示したことを鵜飲みにすることであるという感覚を当たり前のこととして受容してきた子どもたち。教師はそれだけの権威も権力も持っている。
 教師が先頭にたって一人の子どもをいじめたときに、それに付和雷同していじめをエスカレートさせてしまう心性に落とし込められている子どもたちに、このような偏狭な愛国心が押し付けられることの恐ろしさも感じます。
 幸い授業のあとの研究会で、「おしつけだ」という批判が相次いでいたことは現場の健全性を示してはいます。強権的に教員の自主性を押しつぶしている東京都でも、こういう批判がまだできることは大事です。しかし愛国心を教えることが法制化されてしまえば、これに疑問を持つこと事態が禁止され、やがては教え方に疑問を持つことすら禁止される雰囲気になることでしょう。
 受験・受験と競争をあおりたてて子どもに鞭打ってきた数十年。今度は一斉に右向け右で、国を愛せ・親を愛せと道徳を振りかざしてまたも子どもに鞭を打つ教育現場になるのでしょうか。

2006年11月15日

                            コアラ

  Kさんへ

追伸:そうそう、大事なことを言い忘れていました。
 番組で紹介された授業では、愛国心と郷土愛が区別されず、ほとんど一体のものとして捉えられており、これは極めて危険なものです。
 郷土愛というのは、誰でも持っている、生まれ育った地域(くに)の自然や風土・生活習慣・人間関係に対して抱く親近感のことです。これは誰でも持っています。意識すると意識しないとに関らず。どんな時に意識するかというと、異文化に出会った時。異文化に出会って初めて、自分が持っている、自然と培われた文化が、自分にとって不可欠なものとなっていることに気がつく。
 あの授業で取り上げられていた日本の自然の美しさとか日本の伝統とかを大事にする心というのは、このような郷土愛であるわけです。
 郷土愛はごく自然なものです。何しろ人間が身につけているものの大部分は生まれてから学習したこと。例えば、生まれ育った地域の気候に体質まで合わされている。僕の父は、常夏の国ともいえる台湾で生まれ育ったので、冬になるとやけに寒がって、暖房をガンガン入れる。僕などはまったく寒いとは感じない時でもだ。またこれも父から聞いた話だが、昔、台湾時代の同級生と台湾の一周旅行をしたという。あまりきちんとした旅館のない地方に泊まったとき、朝食は朝市で食べてくれと言われてみんなで行ってみると、屋台がずらっと並んでいた。それも日本のように清潔ではない。同級生たちは、こんな所では食べる気がしないといって尻ごみしたそうな。父は平気で屋台で食事をしたので、同級生たちもしかたなく食べたという。父は、死んだ弟が横浜の寿町の寄場にいたせいで、よくそこに通って、弟の昔の仲間たちと食事を共にしていた。そういう経験があるから台湾の汚い屋台など平気だったという。子どもの時には朝市の屋台で食べたことはないのと僕が聞くと、それは台湾人の習慣で日本人の習慣ではないという。
 つまり植民地にした台湾に移り住んだ日本人は、日本での生活習慣・文化を守って暮らしていたので、台湾の人達の生活習慣はまったくの異文化として外部に置かれたわけである。
 父は生まれてから18歳まで台湾に住んでいた。だから台湾の気候風土に体質は合う形になっているが、生活習慣・文化は日本のそのものだったのだ。でもやはり生まれ育った台湾に行くと、その風景は目に焼きついた懐かしいものだという。
 人はどうやっても生まれ育った土地の気候・風土と、自分を育んだ生活習慣・文化からは離れられず、愛着を持つ。そして生まれ育った地域の人間関係・社会にも愛着を持つ。これが郷土愛だ。
 しかし愛国心はこれとは別だ。
 愛国心が語られる場面を考えてみると良い。自国が攻められたら命を賭けてそれを守れるか。命を賭けて戦う愛国心はあるか。こういう文脈で語られる。愛国心と郷土愛は別の次元の問題だ。
 しかし両者はしばしば混同される。混同というより、意図的に結び付けられるわけだ。
 日本語では(他の言語でもそうかもしれないが)、「くに」という言葉には、二つの意味がある。一つは、「おくにはどこですか」「おくになまり」という使い方に示されているように、故郷・郷土を指している。故郷・郷土を「くに」と呼ぶのは、昔はそれぞれの地域が独立した国家だったからかもしれない。日本だって江戸時代までは、それぞれの藩が独立国家であり、日本という国もないし、日本人という感覚もなかったわけだ。もちろん現代的意味での日本語もない。こういう歴史を背景として、故郷・郷土を「くに」と呼ぶのだろう。そして近代において民族を統合した統一国家、国民国家というものが出来て、それぞれの地域の人々、場合によっては言語も宗教の異なる人々が一つの国家の下に統合されて単一の国民になる。このとき成立した「くに」は統合した国家であり、抽象的な国家を現実において代表しているのは政府でありました。
 こうやって生まれ育った土地の気候・風土・生活習慣・文化・人間関係という意味での郷土・故郷とは別次元の国家が成立するとともに、両者は一体のものとする虚構が政治的に流布されて、新たに成立した国民国家を守ることと、郷土を守ることとが一体のものとして宣伝され意識されていったわけです。
 日本において、この郷土と国家を一体化させ、共に愛するべきもの守るべきものとして人々の意識形勢を図った手段が教育勅語でした。そして教育基本法改正案においても。
 愛する家族・故郷、これと国家が一体のものと認識するように仕向けられて、人々は国のために死んでいったわけです。
 でもよく考えてみれば、家族・故郷と国家は別のもの。国家が愛する家族や故郷を真に守るものであるかどうかは、それを作り上げている社会の構造・性格や政府の在り方に掛かっています。政治の在り方といっても間違いは無い。その社会の構造・性格・政府の在り方を是認するかしないか。ここは個々の人の自己選択権に属するわけ。したがって今、自分が所属する国家を守るために命をかけて戦うか否かは、個人個人の自己決定権に属す問題であり、当たり前のことではなく、具体的に考えて選択することなのです。だから権利の中には良心の自由に基づく兵役拒否権というのもありますね。
 それを国家と家族・郷土を一体のものと考えさせることによって、通常は多くの人が自然に持っている家族愛・郷土愛を、そのまま愛国心として吸い上げ、当たり前のことにしてしまうのは、すぐれて政治的なことなのです。
 他国より比べて自国の風土や気候や文化が優れているという観点から郷土愛を押し付け、それをそのまま愛国心に結びつけようという授業は、洗脳と言って間違いありません。こういう授業が戦前の修身でしたし、今また復活されつつある道徳の授業なわけです。すでに教育基本法が改正されない前から、学習指導要領という形で、何の法的根拠もないままに愛国心教育が推し進められています。その実態の一端が先の番組で紹介されたわけで、この状況の上に愛国心教育が法制化されれば、とても危険であります。
 与党単独で教育基本法改正案は衆議院を通過し、参議院での審議に入っています。野党は他の問題も含めて国会審議を拒否する事で揺さぶりをかけていますが、どうなることでしょう。焦点は日曜日(19日)に行われる沖縄県知事選に移っており、その勝敗が今後の国会審議を左右するでしょう。
 アメリカのブッシュ政権が進めてきた強権的・軍事力による世界のアメリカ化が、先日の選挙でアメリカ国民によって拒否され、ブッシュ政権も軌道修正をよぎなくされています。時代は、アメリカの一極的政治支配ではなく、多極的な地域安全保障体制を組んで、地域ごとに経済共同体を組んで、多国間の協力で世界を安定させていこうという時代に入っています。
 アメリカも全世界に展開したアメリカ軍を次第に拠点的基地に撤退させて、地域の安全保障は、それぞれの地域の国々の共同であたらせようとしています。遠からず在韓米軍も在日米軍も大幅に削減または撤退し、東アジアも地域での共同の安全保障体制づくりや経済共同体づくりに事態は進んで行くものと思われます。
 安倍政権が進める「戦争のできる日本」づくり、「核武装も可能な日本」づくりは、このような世界の時代の変化に対応したものであり、そのため、海外で戦争できる国にするためにこそ愛国心教育が不可欠だという動きであります。でも世界はますますそれぞれの国が強力な武力を背景にして、それぞのれ国益を主張してぶつかり合う時代ではなく、共同で協調して、世界の安定をめざす時代へと動いて行っています。政治の世界でも経済の世界でも、競争よりは協調が主なテーマになっています。こんな時代に、ますます軍事力を増強し経済力もつけて世界において発言力を増して国益を増大させるという安倍政権の構想は、時代に逆行した、下手すると世界の孤児になってしまう構想ではないでしょうか。
 競争や自国のみの利益ではなく、協調と平等互恵が大事です。これは社会の中でも同じでしょう。競争と自分の利益のみを追求するものに日本の社会がなってしまい、教育はその競争を勝ち抜く手段と化してしまったなかで、深刻ないじめは起きています。
 さまざまな軋轢やいじめをなくすためには、偏狭な愛国心ではなく、大事なのは、一人一人が、そして世界のどの国もが、それぞれ大事な価値を持っているものだとして、お互いを認め合い、助け合う環境を作り出す事だと思います。
 この観点から見るとき、教育基本法の改正は、時代の流れに逆行し、学校をそして社会を混乱に落とし入れるだけだと思います。
 教育基本法改正の次ぎは防衛庁の省への昇格、そして憲法改正の国民投票法の制定。さらには共同謀議までを犯罪としてしまう刑法の改正。その先に、戦争ができる国への日本を変える憲法の改正が控えています。昨年の9月の衆議院選挙で、「ハーメルンの無責任男」小泉純一郎に踊らされた人々は、政府与党に衆議院での大幅な過半数を超える議席を与えてしまい、その結果として、このような無茶ができる環境を与えてしまいました。あの議員の数を持ってすればどんな暴挙も可能なくらい。
 これを止めないといけませんね。今が正念場。
 そして学校現場はいよいよ大変です。でもしっかりと子どもの側によりそって動ければ、なんとかなるんじゃないかと僕は思っています。
 長くなりました。では、また。


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