20.僕の家の大事件
年もあけた正月。近所の家では、門松やお飾りで飾って、晴着を着て、朝からごちそうを食べてお酒を飲んで、どの家からも楽しそうな笑い声が聞
こえる。
わが家には、飾りもおせち料理もなく、正月から、カップラーメンなんか食べている。
去年の暮れ。わが家に、大事件がまきおこったんだ。父さんと母さんが離婚した。母さんは、僕たちを置いて、この家から出ていったんだ。
大変だったのは、それだけではない。そこにいくまでが、大騒動だった。毎日、夜になってお父さんが会社から帰ってくると、夜中すぎまで夫婦げん
か。母さんは、家を飛び出して何日も帰ってこないし、父さんときたら何も言わないで、毎日会社に寝泊まりしたりしていた。直接の原因は、母さんの
浮気だった。しかも、それを最初にみつけたのは、僕だった。
あれは、文化祭の翌日の、代休の日だった。僕は麻美をさそって、朝から遊園地に行っていた。ジェットコースターに乗ったり、シュートに乗ったり
して騒いだあと、昼飯を食べにレストハウスに行こうとしていた時だった。
「あっ。あれ、翔んちのおばさんじゃないのかな?。」
最初に気付いたのは、麻美だった。
「ねえねえ。翔。あそこの、メリーゴーランドのそばの木陰のベンチに男の人と座っている人、翔のお母さんじゃないの?。」
「ばかいえ。母さんが、こんな所にいるわけないじゃないか。きょうは母さんは、週に1度のダンス教室の日なんだぜ。」
口ではこう言っても、なぜか気になって、麻美の指さすほうに目をこらした。
「あれっ。ほんとだ。母さんに、よく似てるなあ。でも他人の空似だよ。」
「そうかしら。きっと。そうよ。あやしいな。もっと近づいてみましょうよ。」
麻美のやつ、僕の返事を待たずに、身をかがめて、ベンチの方に忍びよっていってしまった。道路にある背の高いレンガづくりの花壇に隠れて、
麻美は、ベンチを斜め前方から見られる所まで忍び寄っていった。
麻美が手招きしている。ここまで来い、といっている。両手を地面に平行にして、何度も降ろしている。身をかがめて隠れて来い、ということらしい。
息を殺して、そっと僕も近づいた。
「ほら、ここなら、よく見えるでしょ。それに、声も聞こえるわ。翔。もっと頭を低くして。花の陰に隠れるの。それじゃ、向こうに気付かれてしまうわ。」
麻美に袖をひっぱられて、頭をひっこめ、花の陰からそっとのぞいた。
母さんだった。母さんは、男の人の右肩に頭を乗せて、目をつむっていた。男の人の右手は母さんの腰にまわされ、自分の身体に母さんの身体を
ピッタリと寄せていた。
「何してるのかしらね。翔。」
「僕が、わかるわけないだろ!。」
なぜか不機嫌になって、思わず大きな声でどなってしまった。
母さんが目を開けて身体を起こし、こっちを見た。
「ばか。大きな声を、出すんじゃないの。聞こえるじゃないの。」
麻美にほっぺたをつねられた。
「痛いな。おれ、帰るよ。」
「あらっ。どうしたの。なに怒ってるのよ。ちゃんと、真相を確かめなくていいの?。」
「真相って、なんの真相だよ。」
「あの男の人がどういう人で、翔のお母さんが、なぜあの男の人とここにいるのかってこと。二人が、どういう関係かってことよ。」
「そんなの、どうでもいいよ。どうせ、不倫とかなんかだろ。知りたくもないや。」
「あら、確かめもしないで、どうして、あの二人が肉体関係にあるってわかるのよ。」
肉体関係なんて言葉を使われて、ビクッとした。麻美の言葉はきつい。
「そ、そんなこと聞かれても。ただ、そんな気がしただけ。それより麻美。肉体関係だなんて、そんなきたない言葉・・・・・」
「しっ、黙って。二人が何か話しているわよ。静かに、聞いて!。」
麻美に言われて気がついた。母さんは、身体を起こしてベンチに座り直し、男の人と向き合う形で、下を向いて何か話している。男の人は、両手を
母さんの肩に置き、時々なにか話かけている。
「ちぇっ。人の母さんに、気安く触るな。」
「黙って。翔。聞こえないわ。」
麻美に怒られて、じっと耳を澄ましてみた。
「わたし、もういや。もうだめだわ。がまんできないのよ。慎太郎さんわたしのこと、何もわかってくれないのよ。」
「そんなことはないだろ。よく話し合ってみたら。慎太郎だって、話せばわかるよ。」
慎太郎というのは、僕の父さんの名前だ。父さんを慎太郎と呼び捨てにするからには、あの男の人は、父さんの知り合い、しかも、かなり深いつき
あいのある人らしい。
「だめ、だめなの。あなたに言われたように、何度もやってみたわ。でもあの人、耳をかそうとしないの。仕事が忙しいとか、なんとか言って。もうだめ
よ。わたしたち・・。」
母さんは、そう言ったとたんに、ワッと泣き出してしまった。男の人の胸に顔をうずめ、全身を震わして泣いている。男の人は、母さんを抱きよせ
て、やさしく背中をなでている。
「なんなんだ、あの二人は。こんな真っ昼間から、人前で。いい年をして、何してんだ。」
「翔。何を怒っているの。母さんが、知らない男の人に抱かれているからって、妬いてるのね。」
「そうじゃないさ。昼間っから、いちゃいちゃするなってこと。やっぱりあの二人、麻美が言うように、肉体関係があるんだ。ああ、汚らわしい。大人な
んて。」
「それは違うわ。肉体関係があるかないかはわからないけど、あの二人の関係は、翔が考えるような、汚いものじゃないわ。」
「なんで、麻美にそれがわかるんだよ。」
「二人の会話を聞いたでしょ。おばさんは、あの男の人に、自分の悩みを聞いてもらっているのよ。翔のことや、翔の兄さんのことや、父さんや家族
の悩み。そのほか、いろいろなことをね。それも、今日や昨日に始まったことじゃないわよ。あの感じじゃ。何年も前からっていう感じね。」
「家族の悩みなら、どうして父さんに話さないんだよ。」
「翔って、にぶいわね。さっき、聞いてたでしょ。何度話しても、翔のお父さんは、聞く耳をもたないって。」
「そういえば、そうだな。」
「きっとおばさんは、自分の心の中にあるいろいろなことを、あの男の人に聞いてもらってきたのよ。長い間。そしてあの男の人は、翔のお父さんの
友達か何かで、これではいけないって言っていたんだけど、あの男の人以外には、おばさんが心の中のものを話せる人がいなかったのね。きっ
と。」
「なんだよ、それ。そこまで二人の心が通いあっているんならば、肉体関係にまでいってるのが、当然だろ。男と女なんだから。」
「翔。わからないの?。翔の言うとおりかもしれないけど、あの二人の関係は、わたしと翔との関係と、同じなのかもしれないわ。わたしだってずっと、
翔に心の中のいろいろなことを、聞いてもらってきたもの。」
「そうかな。僕たちは、まだ子供だから。それと同じって、言われてもさ。」
「都合のいい時だけ、子供になるのね。覚えていないの?。この前の夜のこと。」
「この前の夜って。」
「忘れっぽいのね。この前、文化祭の前に、翔と夜中に、わたしの家の前の公園のブランコに、一緒に乗って話した夜のこと。」
こう言われて、身体がブルッと震えた。あの時の感触が、蘇ったからだ。麻美がいきなり、僕に抱きついてきた時のこと。僕の胸に顔をうずめて泣
いていた時、僕のからだに押しつけられた、麻美の胸のふくらみの感触。両頬に手をあてて麻美の顔を仰向かせた時の、麻美の唇を見た時の、身
体の底からわきあがる、どうしようもない衝動。
「お、おぼえているさ。」
「翔はね。自分のことも、わかっていない。あの時、翔は、わたしを抱いて、キスしようとしたでしょ。どうしようもなく、わたしを抱きたいって、思ったで
しょ。」
「そ、そ、それは・・・・・」
そうだ。そのとおりだった。あの時だけじゃない。洞窟で、僕の顔のすぐ上に麻美の顔があった時だって・・・・。
「その気持ち。自分のあの時の気持ちを、汚いって言える?。汚らわしいって、言える?。正直にいいなさいよ。」
「そ、それは、なんていうのか、すごい喜びっていうか、ものすごく身体が、熱くなるっていうか、思い出しただけで身体が熱くなるけど、不思議と気持
ちがいい。」
「そうでしょ。わたしもよ。それが、人を恋するってこと。人を愛するってこと。わかるかな?。翔に。」
「う、うん。わかる。」
「翔は、セックスを薄汚いことのように言うけど、それは間違いよ。わたしたちだって、身体の底から心の奥底で、そうしたいって思っているんだもの。
ただまだ、ふんぎりがつかないだけよ。翔。わたしのこと、好きでしょ。」
「う、うん。好きだ。」
「愛してるわよね。」
「う、うん。愛してる。」
「わたしのそばにいるだけで、とっても幸せな気持ちに、なるでしょ。」
「そ、そうだ。」
「わたしになら、なんでも話せるでしょ。」
「う、うん。そのとおり。」
「心の底から、嬉しいことや悲しいことや苦しいことがあった時に、わたしとその思いを、一緒に感じあえたらって思うでしょ。」
「うん。そう思う。」
「わたしも、そう思うわ。それが愛。相手の人をそう思えるようになったら、男と女は、しぜんに肉体関係に入るのよ。別に、汚いことじゃないでしょ。」
「うん。そう、言われれば。」
「そう言われればって。まだ子供ね。翔はね。あなたのお母さんとあの男の人との関係も、そうだと思うの。わたし。」
ふたりで声を潜めて、そんな話をしているうちに、母さんとその男の人の姿は、消えていたんだ。
あの時は、半信半疑だった。母さんが、浮気しているなんて。
でもそれは、すぐに逃れられない現実になってしまった。
十二月も押し迫った、ある日の夜。母さんと父さんは、キッチンで大ゲンカをした。テーブルの上にあったものを投げあい、おしまいには、テーブル
までひっくりかえして、その上父さんは椅子を振り上げ、母さんは床にころがった果物ナイフをとって、父さんを刺そうとしたんだ。騒ぎに気がついて
二階から飛び降りてきた僕と兄さんが、二人がかりで引き離したから良かったようなものの、もう少し遅ければ、大変なことになっていた。
その時、父さんがどなったんだ。
「ででいけ!。薄汚い雌犬め!。あの男の所へ、さっさといけ!。あの男に裸で抱かれて、その胸で泣け!。口に出しただけでも、汚らわしい!。うち
にいない夜は、毎晩あの男に抱かれて、歓喜で身体を震わしていたんだろ!。お前は、あの男に抱かれることしか考えていない!。あの男も、お前
の身体しか、問題にしていない!。お前の、その乳房や腰や・・・・」
「なんていいかたをするの。英作さんのことを。そんないいかたをするのやめて!。あたしたちは、そんな関係じゃないわ!。」
「じゃ、どんな関係なんだ。男と女が、裸でベッドに一緒に寝て、それ以外の関係が、あるものか!。」
「そうよ。でも、それだけじゃないわ。英作さんとあたしの心は、通いあっている。」
「心だと。十五や十六の小娘じゃあるまいし。恋愛ってのは、そんなにきれいなもんじゃない。大人の男と女に、肉体関係以外の何がある。心だ
と!。へっ。笑わせるぜ!。」
「あなたって、何ていう人なの!。じゃあ、あたしとあなたの関係も、そうだったのね。心じゃないんだ。喜びも悲しみも苦しさも、全て一緒にっていう心
のつながりなんて、あなたは、最初から求めていなかったのね!。あたしの身体だけ、求めていたっていうのね!。」
母さんは、床にべたっと座って、髪を振り乱したまま、きっと、父さんをみすえて、そう言い放った。
バシッという音がして、母さんは、床にたたきつけられた。父さんは、二・三度母さんを足げにして叫んだ。
「女は、子供を生んで育てて、飯を作ったり、掃除や洗濯をしていればいいんだ。だれに、食わしてもらってるんだ。おれだって、会社で必死になって
働いてんだ。子供と遊ぶことも、女房と話たいことも、やりたい事もがまんして、残業して稼いでいるんだ。何が不満なんだ。不満なら、出ていけ!。」
「ええ、出ていくわよ!。あなたの顔なんか、二度と見たくもないわ!。」
ワッという泣き声がして、兄さんが泣き出した。
「ど、ど、どうするんだよ。父さんと母さんが離婚しちゃったら、おれ、どうなるんだよ。だ、だ、大学受験をひかえてるんだ。勉強が忙しいのに、毎晩こ
れで。お、お、おちおち勉強もしていられない。か、か、勝手だよ。大人は。」
兄さんは、キッチンの真中に座り込んで、わんわんないている。今の今までわめきちらしていた父さんも、髪を振り乱して出ていこうとしていた母さ
んも、凍りついたようにうごかない。
「う・る・さ・い!。黙れ!。ピーピー泣くんじゃない!。」
自分で自分の大声に、ビックリした。兄さんも父さんも母さんも、ビックリして口をあけたまま、凍りついている。
「十七にもなって、何をいうんだ。大学受験だと。そんなもの、自分が頑張ればいいんだ。自分の力が足りなくて勉強にみがはいらないのを、人のせ
いにするな!。」
「だ、だ、だって。父さんと母さんが離婚すれば、慰謝料だってたくさんかかるだろうし、そうなれば、僕の大学の費用なんか、出せなくなるかもしれな
いじゃないか。」
「大学がなんだ。行きたきゃ、自分で働いていけばいいじゃないか。奨学金をとる手だってあるぞ。だいたい兄さんは、自分のことしか考えてない。そ
れも、人に頼ることばっかりだ。もう大人のくせに、自分で生きることを考えろ!。」
兄さんはビックリして泣き止み、僕を、何か怖いものを見たような顔をして見ている。
「父さん。父さんも父さんだ。母さんの気持ちも考えずに。何をいうんだ。ずっと長い間、母さんを一人ぽっちにしてきたのに。」
「お、おれが、母さんを一人ぽっちにしてきたって・・・。母さんには、高志やお前がいるじゃないか。」
「わかってないな。父さんは。兄さんや僕が、母さんの役に立つか?。母さんが苦しい時に相談にのったり、一緒になって考えたりしてやることが、で
きるか?。」
「十四や十七になれば、もう大人だ。それくらいのことできるだろう。」
「今のことをいってんじゃない!。僕たちが、もっと小さかった時からのことだ!。父さんは、いつもいつも仕事だっていって、家にいなかった。僕や兄
さんや母さんの誕生日にも、家にいなかった。」
「誕生日がなんだ。おれは、大事な仕事があるんだ。」
「仕事がなんだい。大事な仕事っていってるけど、自分のしたいこともガマンして、やらなきゃいけないものかよ。」
「稼がなきゃ、家だって建てられないし、お前たちを、高校大学までやることもできないだろうが。母さんだって、その事を望んできたんだし、なんの文
句があるんだ。」
「父さん。それはそうさ。具体的な希望としては、世間並に言えば、そうなってしまう。でも、母さんがほんとうに欲しかったのは、子供の誕生日や自分
の誕生日を、一緒になって祝ってくれる夫。子供が病気になれば、一緒になって心配し看病してくれる夫。楽しいことも苦しいことも悲しいことも、全
部一緒になって感じてくれる夫。そういう、心のつながりが、欲しかったんだよ。」
母さんの目から、涙が流れていた。
「父さん。父さんの心の中にだって、そうしたいって気持ちがあるはずだよ。兄さんが小さいころの写真を、見たことがあるよ。父さんが、小さな兄さん
をおもいっきり高く持ち上げていて、その横で上を見て笑っている母さんの写真を。父さんも笑っていた。とっても、二人とも幸せそうだった。兄さんも
はしゃいでいた。とっても幸せな家族だよ。」
顔を真っ赤にしてどなりちらしていた父さんが、頭をかかえて、座りこんでしまった。
「でも、僕にはそんな写真もないし、そんな記憶はないよ。悲しいけど。父さんは、僕が生まれた頃から、仕事仕事の毎日だったんじゃないかな。一
生懸命仕事に賭けるってことは、すばらしいことさ。でもね。一人で子育てしている母さんは、いっぱいつらいこともあったと思うよ。子供なんて、親の
思うようにならないよ。そんな時、母さんは、父さんに不満をもらしたことなかったかい?。」
「あ、あ、あったな。」
「そんな時、父さんは、母さんの話を聞いてやったか?。どうなの?。」
「仕事がいそがしくて疲れてんだ、後にしてくれって、言っただろうな。」
「そうだと思うよ。いつも、そう言ってたもの。でも、母さんだって疲れていたんだ。そう思わないかい?。」
「う、うん。そうかもしれない。」
「そうなんだよ。疲れている時だけじゃないよ。嬉しい時だって、たとえば、兄さんの幼稚園の入園式の時だって、母さん一人だったね。やっとここま
で来たって。父さんに一緒に行ってといったのに、仕事があるって言って、会社に行ってしまった。前の日までは、四人で行こうって約束していたのに
ね。」
自分でもなぜだかわからないが、あの日のことが、くっきりと思い出されていた。
「そ、そ、そうだったかな。」
「そうさ。母さんはすごく怒っていた。朝からカンカンだった。その上に、まだ小さい僕はおねしょをしてふとんをぬらし、朝からぐずっている。母さん
は、父さんに対するやりばのない怒りを、僕にぶつけたんだ。一緒に家族四人で、兄さんの入園を祝おうと思っていたのに、裏切られた気持ちを。」
「し、し、翔。どうして、それを。」
「母さん。はっきり覚えているよ。僕は。それでも母さん、みんなでお祝いしようと思って、ケーキを四つ買ってきたんだ。そしたら、置いてかれた僕
は、おしっこを床に洩らしていたんだ。頭にきて母さんがどなっている所へ、父さんから電話があったんだ。父さん覚えているかい?。」
「いやっ、覚えてない。」
「そうだろうね。父さんにとっては、いつもの伝言のつもりなんだから。父さんは、仕事で遅くなるから、晩御飯いらないってかけてきたんだよ。」
「遅くなる時は、いつもそうだからな。」
「そう。でも、母さんにとっては、二度裏切られたんだ。朝出かける時、父さんは、入学式にいけないかわりに夜は御馳走つくってくれ、一緒にお祝い
しようと言ったんだ。」
「そんなことも、いったかな?。」
「ほら、忘れている。母さんは、絶対に忘れていないよ。母さん、覚えているよね?。」
「ええ、忘れてないわ。あの悔しい気持ちは。ずっと覚えているわ。」
「母さん、腹立ちまぎれに買ってきた四つのケーキを、兄さんと二人で食べてしまったんだ。僕の目の前でね。泣いている僕の目の前にわざと持って
きて、大きな口あけて食べたんだ。僕だって、悔しかった。悲しかった。でも、これって、父さんに対する怒りなんだよね。母さん、ここまで覚えてい
る?。」
「えっ、わたし、そんなことしたの?。」
「お、おまえ。そんなことしたのか?。」
びっくりした父さんと母さんは、お互いに顔を見つめあって、言葉を失っていた。
「そう。覚えているわけ、ないよね。怒りにまかせてしたことだもの・・・・・・・・。父さん。そういうことなんだよ。母さんはいつも、父さんにそばにいて欲し
かった。そばにいられないことはわかっていたけど、せめて、話だけでも聞いて欲しかった。話を聞いて、一緒に喜んだり悲しんだり怒ったりしてほし
かったんだ。心だけでも、いや、心さえ通じていれば、心で一緒のこと感じているって信頼さえあれば、母さん、あんなことしなかったんだよ。」
「あ、あんなことって、なんだ?。」
「父さんの友達の、英作さんだよ。英作さんと仲良くなって、肉体関係までもつっていうことさ。」
「それとこれとが、どう関係あるんだ。」
「にぶいな、父さんは。喜びも悲しみも怒りも、一緒に感じてくれる、対等な人がいてくれなかったら、人間だれだって、生きて行けるわけないじゃな
い。」
突然、麻美の顔が目に浮かんだ。
「誰だって、そういう人がいてくれて始めて、生きていく勇気ってものが、生まれるんだよ。」
『そうだ、僕にとって、麻美はそういう人なんだ。麻美にとっての僕と同じで。』
「父さんがだめだった時、いつも側で慰めてくれたのが、英作おじさんだった。そうだろ、母さん?。」
「ええ、そうよ。でも、どうしてそれを。」
「僕、見たんだ。母さんが、英作おじさんと二人でいた所を。母さんは、おじさんの胸で泣いていた。」
麻美のことが、思いだされた。
『麻美もこうして、僕に、心の中のどうにもならないものを、ぶつけていたんだな。』
「英作おじさん、父さんの、親友だよね。」
「ああそうだ。親友だった、というべきだけどな。今となっては。」
「父さん、怨んでいるんだ。英作おじさんに、母さんをとられて。」
「うらんじゃいない。怒っているんだ。親友の女房を、寝取るなんて。おれは許さん!」
「そうじゃないよ。父さん。おじさんは、親友のかみさんがこまっているのを、捨てておけなかったんだよ。あの写真。兄さんと父さん母さんの三人の写
真撮ったの、おじさんだろ。そうだよね。父さん?。」
「ああ、そうだ。よくとってくれた。」
「三人は、大学の同級生だって、言っていたよね。たしか。母さん、そうだろ?。」
「ええ、そうよ。」
「たぶん、英作おじさんは、大学の頃から母さんを好きだったんだ。でも、母さんは父さんを選んだ。おじさんは、二人の幸せをそっと見守って行こう
としたんだ。でも、その母さんが、とっても苦しんでいる。見兼ねて、相談にのったんだよ。」
「そうなのか?。おまえ。」
父さんが、真剣な顔して、母さんにきいた。
「ええ、そう。そうなの。わたしが、最初に訪ねていったのよ。もう、十二年も前になるわね。」
「そんな前からか。知らなかった。」
「母さんは、それからは何度も、英作おじさんに相談に行った。時には、小さな僕を抱いて行ったりもした。僕、覚えているもの、うっすらとだけどね。
そんな時の母さんは、優しかったな。いつもと違って。そして、声も明るくきれいで、はずんでいたっけ。」
「お前、よくそんな前のこと、覚えているな。感心するよ。」
兄さんが、口をはさんできた。
「不思議に、思い出すんだ。母さんにとって、英作おじさんだけが、心のやすらぎだったと思うよ。父さん。英作おじさんのことも母さんのことも、悪くい
うなよ。自分が、惨めになるだけさ。母さんを、笑って送り出してやろうよ。英作おじさんの所へ。母さんは、これからは、自分だけの幸せを考えれば
いい。僕たちは、もう大人だ。自分でやっていくさ。」
「翔。おまえって子は・・・・・・・」
「僕は、どうすればいいんだ。」
「兄さんは、自分で考えるさ。自分のことは、自分でね。まあ、兄弟仲よく、父さんを助けていくか!。」
こうして、両親の離婚は決まった。