2.九月一日の朝
「翔。翔。翔・・・・・・・翔。」
「翔。おきなさい。翔。今、何時だと思ってるの。もう七時五十八分よ。翔。学校に遅れるわよ。」
『おばはんの声だ。まったくうるさいな。もっと寝ていたいのに。』
「うーん。まだ早いよ。それにまだ夏休みなんだから・・・・ムニャ・・ムニャ」
「ゴーンッ」
とたんに目から火花が飛び散った。いきなり頭から床にたたきつけられた。おばはんが僕のふとんをめくりあげて、そのまま床に放りなげたんだ。
「いてっ。何すんだよ。ケガすんじゃないかまったく、乱暴なんだから。」
「なに言ってるの。バカ。夏休みは昨日で終わりよ。今日は二学期の始業式でしょ。早くおきなさい。お兄ちゃんは、とっくに起きて御飯をすませてん
のよ。まったく翔ときたら、いつまで夏休み気分でいるの。だから夜更しはやめて早く寝なさいと毎日言っているのに、これなんだから。また遅刻でし
ょ。始業式の日から遅刻じゃお先真っ暗ね。また通知表に遅刻72回なんて書かれるの。お母さん三者面談に行かないから。まったく恥ずかしいっ
たらないわ。この子は。通知表に1と2しかなくて恥ずかしいのに、その上遅刻七十二回だなんて。バカのうえにグズなんだからこの子は。それにくら
べてお兄ちゃんは優秀で・・・・・」
「七十二回じゃないや。七十一回だよ。それに始業式の日から通知表の話しなんか・・・・・」
「なにいってんの。バカ。一回くらいたいした違いじゃないでしょ。それより早く顔を洗ってトイレを済まして、さっさと御飯をたべなさい。」
おばはんは、はきすてるように言うと階段をドタドタ大きな音をさせて降りて行った。
『あーあ。朝からまたお説教だ。おばはんはすぐ僕のことをバカだのグズだの言う。「それに較べてお兄ちゃんの優秀なこと・・・・・」だとよ。どうせ兄
貴は秀才でオレはバカですよ。同じ両親から生まれた子だなんて信じられない・・・・とこれはおばはんのいつものセリフだ。』
いそいで寝間着とパンツを脱ぎ捨てて、戸棚から新しいパンツを出してはき、階段を降りて左に曲がり、洗面所に飛び込む。ジャッと勢いよく水道
の栓をひねって水を出し、顔を洗ったついでに、頭も・・・・・・・・。
「なにみっともないかっこうしてんのよ。バカ。パンツ一枚で。頭から水をたらして・・・・あーあ。床がびしょ濡れじゃないの。雑巾もってきなさい。さっさ
として!」
『またおばはんにどなられてしまった。僕は何をやってもだめだ。いつもおばはんにはどなられっぱなし。あーあ。』
雑巾で床の水たまりをふきとってから、バスタオルで頭をふき、いそいで2階にかけあがり、ワイシャツをはおってズボンをはき、白いソックスをベッ
トにひっくりかえってはいて、また階段をかけおりて、洗面所で髪をとかし、櫛でとかしながらダイニングキッチンのテーブルについた。目の前にうまそ
うなメロンがあったのでガバッとかぶりつくと。
「バカ!。それはお兄ちゃんのでしょ。あんたのはこれ。翔。ちゃんと御飯を食べてからにしなさい。メロンは。」
『またどなられてしまった。毎日これのくりかえしだ。まったく・・・・・』
けさの御飯はワカメの味噌汁にアジのひらき。それにネギのたっぷり入った納豆。いつもと同じだ。毎朝これだ。朝から納豆だなんて何考えてんだ
おばはんは。納豆は大豆から出来ていて良質の蛋白質がたくさんとれて消化もよくて最高の健康食品よなんていうけど朝からあの臭いはたまらな
い。あんな臭いをさせて学校へいくなんて考えてみただけでもぞっとする。その上食事の後には乳酸菌のたっぶり入った乳酸飲料。お腹の乳酸菌に
も御飯をやらなくちゃねとくら。こちとらなんだかカゴの中で無理やり栄養とらされているブロイラーみたいな気分だ。
『朝起き抜けに、冷たいメロンなんて最高だと思うけどな。たまには美味しいバターたっぷりのクロワッサンに蜂蜜をたっぷり塗って、ミルクをたくさん
入れたミルクティーで、それにボイルしたフランクフルトにからしをたっぷり塗って・・・・夢だなこれは。』
朝御飯を食べ終わって、でかけようとすると、いきなりおばはんにどなられた。
「通知表もっていくんでしょ。カバンぐらいもっていきなさいよ。」
「あっそうかぁ。通知表どこにしまったっけ。」
「そう言うと思ったから、昨夜寝る前に、あんたの机の上に置いといたわよ。」
「うん、わかった。とってくる」
「いいわよ、母さんがとってくるから。その間に歯ぐらい磨きなさいよ。ちゃんと食後に歯をよく磨いておかないと、虫歯になるわよ。あんたの歯はもう
永久歯で、虫歯になったってもう生えかわったりはしないんだから。歯は大人になったのに、頭の中味はちっとも大人にならないのね。・・・・・・」
おばはんはまた小言をぶつぶつ言いながら階段を登っていった。
『まったくうるさいんだから。一言言えばついでにその五・六倍ものよけいなお説教がついてくるんだ。、いいかげんに子供あつかいはよしてくれ。』
歯を磨いてうがいをして、そのままダイニングキッチンを横切って玄関に行き、靴をはいているとおばはんが戻ってきた。
「はい、カバン。中にちゃんと通知表入れておいたから。わすれずに先生に渡すのよ。去年なんかせっかく持たしたのにそのまま忘れて、十月になっ
てから先生にまだですかって電話もらって、母さん死ぬほど恥ずかしいおもいをしたんだから・・・・」
またお説教がはじまったので、さっさとカバンをひったくって玄関のドアのノブをひき勢いよく道路に飛び出した。その後ろからおばはんの小言が追
い討ちをかけてくる。
「あっそれから、脱いだパンツと寝間着ぐらいちゃんと洗濯篭に入れておくのよ。あんたの部屋に入ったら、ベットの前から洋服ダンスに向かって、パ
ンツと寝間着のズボンと寝間着が裏返しになって脱いだままに放り出してあるじゃない。あんたのきたない汚れたパンツなんか母さんに触らせるんじ
ゃないのよ・・・・・・・・」
声を振り切って、家の前の道路を走り、左に曲がって大通りに出た。
『あっ。遅刻しそうだ。ヤバイぞ。』
大通りを必死で駆けたが、頭の中にはさっきのおばはんの小言が耳に残っていて、走れば走るほど頭の中で、声がどんどん大きくなってきて頭が
ガンガンしてきた。坂道を少し下ったところに道祖神さまがある。そこまで走ってきて、息がきれたので、ちょっと立ち止まった。
『まったく。毎朝毎朝、学校に出かけるたびに小言、小言とお説教だ。二言目にはあんたのために言っているのよなんていうけど、兄貴なんか小言
を言われているのを聞いたことがない。兄貴だってけっこうドジやってるけど、いいのよ気にしなくてなんて御機嫌をとっている。なんで僕ばっかりお
こられるんだ。それにどうして僕はおばはんにどなりかえすこともできないんだろう。僕が悪いんじゃない時だってある。そんな時だっておばはんは僕
のせいにする。なのに僕は言い返すこともできない。僕って弱虫なんだ。だめなやつなんだ・・・・・・』
なんて考えていたらだんだん憂鬱になってきた。
それにもう八時二十三分だ。今から走っていったって二十五分前に校門を通過することなんかできるわけがない。また校門の所で生徒指導の教
師どもに捕まっておこられ、玄関の所で担任が引き取りにくるまで立たされるんだ。そして、上の方の校舎の窓からは一年生や三年生、おまけに僕
のクラスのやつらまで顔を出してのぞいて、僕をバカにしたような目で見るんだ。
担任が来たってすぐ教室に行けるわけじゃない。また玄関の所でたっぷり三分はお説教だ。今何時だと思っているんだ。バカやろうめ。家を何分
に出たんだ。そんな時間で間に合うと思っているか・・・・・・ってなぐあいにだ。そしてちょっとでも僕の答えかたが悪いといきなりビンタがとんでくる。
まあこれだって去年の担任のカマキリよりはましだ。あいつはとんがったメガネの奥から僕をバカにしたような目でなめまわしながら、たっぷり十五
分はお説教をし、そのあとすぐに家に電話しておばはんに告げ口。おかげで家に帰ってからもたっぷり三十二分はお説教となる。
ビンタでふっとんだ分、お説教の時間が短くて教室に早く行けるというわけ。
いきなり昨夜見た夢の中の小さい男の子の顔が目に浮かんだ。丸い大きな目に涙を一杯にためて、真っ赤に泣きはらした目で僕をじっと見てい
る。
『あれは僕の小さい時に違いない。でもあれはどこなんだろう。真っ暗なぬれた岩の洞窟。鳥居の奥の白い道を降りていった先の神社の建物の奥
にある洞窟・・・・・』
とたんに森の前にある鳥居が目に浮かんだ。大きな五階建のビルぐらいの高さのある、銅でできていて、さびで緑色になった立派な鳥居。その鳥
居の先には白い石で葺いた道がまっすぐ森の中を下っていく・・・・。
『あっ。あれは。二年前に暗闇祭りを見に行った神社の鳥居だ。たしか、南武蔵野線の菅原駅を降りて、十分ほど川に向かって歩いた所の神社だ
ったな。』
思い出したとたんに、その神社に行きたい気持ちがふつふつと湧いてきた。そこに行けば昨日の夢の謎がわかるような気がしてきたからだ。
『あの男の子に会いたい。どうして泣いていたのかを聞いてみたい。』
小さい時の自分に会いたいだなんてなんだか変だけど、無性にそんな気持ちになった。気がついたらもう、足は自然に駅の方に向かっていた。道
祖神さまの前から坂道をまっすぐ降りていくと学校の前の交差点に出るのだけど、僕はその途中の横断歩道を渡って右に折れ、そのまま山すその
細い道をまっすぐ歩いていた。
後ろの方でチャイムがなった。
「キーン、コーン、カーンコン。キンコンカンコーン。」
八時二十五分の予鈴のチャイムだ。