10.母さんの小さいころ


「麻美。麻美。どこにいるんだ。麻美。」

「翔。ここよ。ここにいるのよ。」

「ここってどこだ。まったく見えない。」

「声を頼りに来てみてよ。私、なんだか、足をくじいたみたいなの。」

 麻美の声のした方へ、手探りしながらはっていった。

「何すんのよ。翔。いやぁね。」

 なんか大きくて丸くてプヨプヨしたものに、さわってしまった。

「わたしのお尻にさわって、どうするのよ。まったく、いやらしいんだから。」

「ごめん。ごめん。まったく見えないもんだから。でも、どうせなら、胸のほうが良かったな。」

「何いってるの、バカ。それより、もっとそばに来て!。」

 いきなり、麻美が抱きついてきた。ぐっと力まかせに、首ったまに抱きつかれたものだから、息ができなくなった。

「おい、やめろ。苦しいじゃないか。」

「あっ。ごめん。ごめん。」

 僕の首にかかっていた、麻美の腕の力が少し緩んだ。でも麻美は、まだ僕にしがみついたままだ。

「足くじいたって、どうしたんだ?。」

「いきなり、あたりが青白い光に包まれたと思ったら、後ろからどんと突き飛ばされたようで、前へつんのめってしまったのよ。その時、右足首をくじい

たみたいなの。」

「どれ・・・。」

「いたい!。さわらないで。」

「ごめん。ごめん。」

「ところで、ここはどこなの?。」

「たぶん、洞窟の中だと思うよ。床は、びっしょりぬれた岩になっているみたいだし。」

「そう。じゃ、入れたってわけだ。でも、何んにも見えないわね。翔の念じかたが足りないんじゃないの。」

「そうかな。」

「そうよ。いったい、何を念じたの。」

「いいたくないよ。でも、やっぱりここは、洞窟の中じゃないかもしれないな。」

「どうして?。」

「カッパ大王が、僕の念じたことを僕に見せてくれるつもりならさ、こんなに真っ暗闇じゃなくて、青白いスクリーンの中に人影が見えるはずだもの。」

 とたんに目の前の暗闇が青白く光り出し、その中に、小さな人影が写った。

「翔の小さい時かな?。」

「しっ。静かに。しゃべっちゃだめ。それにあれは、女の子みたいだよ。」

「女の子?・・・・・・・・。」

 そう、小さな女の子だった。三つぐらいかな。水色のワンピースを着て、髪にも、同じ色の大きなリボンをつけている。彼女の頭の上で、何やら声が

する。

「おいしいわね。」

「うん。うまいね。」

 小さな女の子は、手を精一杯伸ばして、何かをつかもうと必死になっている。

「あたしも、ほしい。ねぇ。ちょうだいってばぁ。」

 女の子の声が聞こえる。

「ちょっとまってなさい。」

 彼女の頭の上の声が答えた。

「おいしいわね。」

「うん。うまいね。」

 背の高い人影が二つ、目に入った。若い夫婦だった。二人で、一本のバナナをおいしそうに食べている。

「ねぇ。ちょうだい。あたしにも。」

 小さな女の子は、両親の顔をかわるがわるのぞきこみながら、ねだっている。

「ちょっとまちなさい。」

 しばらくしてまた声がした。

「よし。ほうら、あげるよ。」

 小さな女の子の手に、バナナが渡された。彼女は、嬉しそうに食べようとして口をあけたが、そのまま、氷ついたように動かなくなってしまった。

 バナナは、皮だけになっていたのだった。

 小さな女の子は、バナナの皮を投げだすと、火がついたように泣きだした。

「なに。泣いているの?。」

「泣き虫さんだね。」

 彼女の頭の上で、楽しそうに二人で笑う声が響いた。

「さあ。いくわよ。いつまで泣いていると、おいていっちゃうから。」

 両親は楽しそうに笑いながら、泣いている彼女を置いて、後ろを向いて歩いていってしまった。

 小さな女の子の泣き声がぱたっとやみ、彼女がこっちをじっと見た。目がくりっとして大きくて、鼻と口の小さい、愛らしい顔だちだった。

『どこかで、見たことのある顔だな。』

『ええ、私もよ。どこかで会った気がするのよ。』

「真美絵。行くわよ。なにしてんの。」

 小さな女の子は、くるっと振り返ると、両手を地面についてやっとのことで立ち上がると、両親を追いかけて走りだそうとした。

 その時、彼女の目に、地面に落ちているバナナの皮が目に入ったのか、彼女はかがんで、それを手でつまんだ。

「真美絵。汚いわよ。捨てなさい。バカねあんたは。いつまでそうしてるの。置いていくわよ。」

 母親らしい女の人の声が響いた。真美絵と呼ばれたその女の子の顔が一瞬ゆがんで、いまにも泣き出しそうになった。だが、彼女は泣かなかっ

た。バナナの皮を投げ捨てると、彼女は、おぼつかない足取りで両親のあとを追った。遠くから楽しそうな笑い声が、いつまでも響いていた。

「ひどいや。あれでも親か。」

「ほんとね。ひどいわ。どうして娘に、バナナを食べさせてあげないの?。」

「そうだよ。さんざんじらしておいてから、皮だけ与えるなんて。」

「残酷よ。その上、娘が泣いているのを楽しそうにからかうなんて。ひどいじゃない。」

 麻美は泣いていた。僕も泣いていた。心の底から怒りがわき起こってきた。あの両親に対する怒りだ。娘をからかって泣かせ、おまけにまだバナ

ナを食べたくてたまらない娘を、バカよばわりするなんて。

「あんなに自分の子供をおもちゃにして、どこが楽しいんだろ。」

 そういった自分の言葉に、ビクッとした。これは、僕がユウヤをいじめていた時に感じていた、あの心の奥底からの喜びと同じことに、気がついたん

だ。

『僕と同じだ。あの両親は。』

「そうさ。同じさ。」

 頭の上で、聞き覚えのある声がした。

 カッパ大王だった。青白く光るふたつの目が、じっと僕たちをみつめていた。

「カッパ大王。どうしてあの両親は、自分の娘の心をずたずたに引き裂くんですか?。」

「君と同じだよ。君が、お母さんとお兄さんとにされたと同じことを、ユウヤにしたのと同じさ。」

「自分の満たされない心を、傷ついた心を癒すために、自分の子供をいじめてるってことなのね。」

 麻美の声だ。僕にしがみついていた手をほどき、床に両手両足をついたまま、カッパ大王の目をじっとみつめている。

「そのとおりだ。そしてあの女の子も大人になったら、自分の子供に同じことをするだろうよ。」

「あの子は誰なんですか?。」

「翔。君の、よく知っている人さ。」

「僕の、よく知っている人?・・・・・」

「翔の、よく知っている人って?・・・」

「あっ。母さんだ!。」

「翔のお母さんだ!。」

 麻美と僕とは、同時に叫んでいた。

「翔のお母さんの名前、たしか真美絵だったよね。」

「そう、小村真美絵。たしか結婚前の名前は、乙坂真美絵。」

「そうだったのね。」

「あれは、小さいころの母さんだったんだね。だから母さん、僕に対しても・・・。」

「自分でもわからないうちに、翔のことをいじめているのね。」

「母さんの心の底で、まだあの小さな女の子は、傷ついたままなんだ。」       

「ねえ。カッパ大王。翔のお母さんの心の傷を、どうやったら治すことができるの?。お母さん、もう四十年近くも傷ついたままだなんて、あまりにもか

わいそうだわ。」

 麻美は、カッパ大王の目をきっと見つめたままで、大王にしつこくたずねている。床にあぐらをかいたままだが、上半身をしゃんと伸ばし、腰に手を

あてた姿勢で。

「小さい頃の自分に出会ってからの翔が、自分の感情を素直にあらわし、泣き虫の自分を取り戻したように、翔のお母さんも、あの時の自分に向き

合うしかないの?。ねえ。カッパ大王。黙ってないで教えなさい。」

 いつもの、姉御肌の命令口調に戻っていた。

「翔。君の知りたいことはわかったね。あとは、君がどうするかだよ。」

 カッパ大王の姿がぼんやりとかすんでゆらゆらと動くようになってきた。

 僕は頭の中で、ぼんやりとこの光景を見ていた。

「なによ。逃げるの。カッパ大王。あたしの質問に答えなさいよ。」

 りんとした麻美の声が響いたが、それも、遠くの方の声のようにしか聞こえず、僕の意識は、だんだん遠のいていった。

「翔。どうしたの。何かいってよ。翔。」


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