あとがき
この話しを思いついたのは、定期テストの監督をしている時でした。『翔べ!カッパ!』。この題がいきなり頭に浮かびました。
カッパによく似た翔を主人公に、同じく十四才の少女麻美をからめて、今の学校や家庭の病巣のありさまと、それを直す可能性を描くという物語。
最初の出だし。翔の夢の中の出来事は、このテスト監督中の一時間で、ほぼ骨格はできあがっていました。
この話しを考えたきっかけは、神戸の連続少年少女殺傷事件でした。十四才の少年が逮捕された時、すぐに一冊の本の内容が思い出されまし
た。アリス・ミラー著『魂の殺人』です。
五年程前にこの本を読んで、大人の暴力が子供の心に与える破壊行為のすさまじさを知り、現実の様々な事件が、この本に説かれている仮説で
完全に説明できる事がわかりました。それまでに見聞きしていた教師の暴力のすさまじさも、この説で理解できました。神戸の事件を知った時にも、
この本の内容を思い出し、犯人はかなり年齢が低く、傷ついた心をさらに学校で傷つけられた人だと思いました。でも、十四才は想像以上の低年齢
でした。
大人の子供に対する暴力のすさまじさ。それが家庭にも学校にも巣くっている事を、この事件は明らかに物語っていました。この事を多くの人に気
付いてほしい。これがこの物語を書いた一つの理由です。
もう一つは、この物語の主人公の一人、麻美のモデルになった少女です。小学校で担任を中心としたいじめにあった彼女は、とても暗い、人を斜
めに見る少女でした。でも中学校で生活する中でしだいにその暗さも消え、この春に一つの劇のシナリオを、彼女は書きました。題は『もう一つの天
国』。
最初に見せられて一読した時、これは彼女の自分の体験にもとづいて書いたなと思いました。彼女は自分の受けた心の傷を、今、自分自身の力
で対象化し、少しずつそこから抜け出ようとしつつあるなと思いました。
何が彼女をそうさせたのか。こう考えた時、彼女の中学校がA少年の中学校とはかなり違っている事に気がつきました。
私が今勤めている学校なのですが、地域で一番荒れていた学校を、何年もかけて建て直しました。その方法は、何事も生徒中心に、学校の主人
公は生徒だという考えを徹底すること。生徒や父母に、そしてとりわけ教職員に徹底することにより、学校は変わってきました。
この雰囲気が、少しでも生徒を支え、理解し、伸ばしていこうとする雰囲気が、彼女をして、『もう一つの天国』というシナリオを書かせたのではない
かと感じました。
私の学校も生徒中心というにはまだまだ不充分です。特に規則の面では、これを巡っては教師間にするどい対立もあります。しかし、明確な対立
がある分だけ、可能性もあるわけです。そしてこの学校が他の学校に較べて生徒中心の学校になるには長い期間の努力と闘いがあったわけです
が、ある一人の教師が来た事をきっかけにして、その蓄積が表面化し、大きくかわってきたのです。
これが「カッパ大王」という重要な登場人物がこの物語に登場する理由でもあります。学校や家庭に巣くう闇を描くとともに、これを取り除く可能性も
描いてみたい。その中での少年や少女たちの成長のさまも描いてみたい。こう考えた時に、この物語は生まれました。
自分の意図したことがどこまで描けたか。それはわかりません。でも、夏休み三十日間毎日ワープロに向かってこの物語を書きつづけられたの
は、A少年を、そして彼によって傷つけられ殺された子供たちを助けることのできなかった事への悔しさと共に、今、立ち直りつつある少女への応援
と感謝との気持ちに支えられたからだと思います。
心の傷から抜け出すのは大変なことです。自分を直視する勇気がいります。ともすれば苦しさに逃げ出すこともあるでしょう。彼女が自分の体験を
もとにシナリオを書いたということは、彼女がその闘いの途上にあるということであり、自分の力で闘っているということです。
彼女のために私に何ができるか。こんな事を考えながら、この物語をつくりました。
もっとも、書いている時には、こういうことは頭からぬけさっています。自分でも不思議なのですが、次から次へと物語が浮かんでくるのです。登場
人物が勝手に動きまわっているようで、言葉が行動が次々に出てきてしまいます。最初に出来ていたのは、第一章の夢の場面と、最後の章の暗闇
祭りの終わりの所だけです。でも、この二つが出来上がった時には、物語はスラスラと勝手に進行していってしまいました。
この物語は結果としては、実際の人や出来事や場所や歴史に取材しています。わたし自身が今までに見聞きしてきたことに取材しています。でも
さまざまな事が勝手に組みあわさっていったので、このような架空の話しができあがりました。
第十章で、翔のお母さんの小さい頃の場面は、うまい例が思い浮かばなかったので、アリス・ミラーの『才能のある子のドラマ』という本の例を、ほ
ぼそのまま使いました。この本で両親が食べていたアイスクリームを、バナナに変えただけです。
最後に、この物語を書く勇気を与えてくれた少女に感謝して、彼女にこの物語を捧げます。
麻美、ありがとう。
一九九七年 九月七日 著者 鯖江 流 記す。