「開成学校教頭フルベッキ解任の真相」
川瀬 健一
2024年 3月 2日、日本英学史学会本部例会 第572回例会にて発表
グリフィスが日本におけるフルベッキの活躍の様を活写した著書『Verbeck of
Japan』では、明治6年に彼がとった半年あまりの休暇の終わりに、10月1日にアメリカから帰国の船に乗ったと記した次にグリフィスは、「以前の任務地に戻った最初の印象は特に喜ばしいものではなかった」(村瀬訳p260・原書p268)と記し、1874年初頭の「一六休み」問題などの「帝国大学の管理に大きな変化」があった中で開成学校教頭職から離れ他の職に移ったかのように記した。
しかし当時の開成学校と文部省との往復文書(『文部省往復』明治6年甲乙丙丁)を精査するとまったく異なる状況が浮かび上がった。
フルベッキが明治6年(1873)1月末に休暇を願い出た条件は、七か月間の休暇とその間の月額300円の給与半額の前借りであり、この返済のために明治6年9月で満期となる契約を七か月間延長し明治7年(1874)4月までとし、帰国後七か月間は月額600円の給与の半額支給として、前借り分を返済するとのものであった。文部省と開成学校当局はこの条件を受け入れ、明治6年3月にフルベッキに対して長期休暇を許可し、これによりフルベッキは明治6年4月から10月末までの故郷などへの旅に出たのだった。
だが文部省と開成学校当局はこの合意を文書化せずに口答合意のみとし、これを背景にフルベッキがまだ帰国しない明治6年9月12日を以て教頭職を解任したのだ。東京大学に残る「雇外国人教師講師名簿」の中のフルベッキの職歴には「9月12日解傭」と明記されている。フルベッキが10月末に帰国した際に、自分の職がなくなっている事態に直面したのが真相だ。
グリフィスがその著『Verbeck of
Japan』の中で記した「岩倉への手紙」(岩瀬訳p262・原書p271)(日記によると1873年9月11日付)とは「一六休み」強行に始まる一連の管理改革」についての抗議ではなく「フルベッキ教頭解任と自身の満期解任」への抗議であった可能性が高い。そしてグリフィスの抗議と10月末のフルベッキの帰国を受けて政府は、正院での翻訳御用という他の仕事を斡旋し、さらに文部省よりの感謝状という形で解任劇の幕を引いた。
なおこの「一六休み」強行と「教頭フルベッキ解任」はグリフィスの記した1874年初頭ではなく、1873年夏から秋の出来事であることは、前記の『文部省往復』とともに、グリフィス自身の日記でも確かめることができる。
そしてこのような事件が起きた背景は、一つは明治5(1872)年初頭から文部省が「新設の大学に学校経営の専門家を招聘したい」と考えて明治6年3月にラトガース大学教授のデイビッド・マレーを文部省督務として(後に学監)招聘したことと、明治6年2月にキリスト教解禁がなされ文部省や学校当局に学生の間へのキリスト教の浸透への危機感が高まっていたこととがあったと思われ、これらのことはフルベッキが1874年2月19日にフェリスに宛てた手紙の中でほぼ正確に把握していたことも明らかだ。
(会報第156号掲載)