掲示板過去ログ2(07/3/4〜06/3/27)


No.138 「淀殿」「太閤検地」の項の修正 コアラ <i218-47-78-181.s01.a014.ap.plala.or.jp>

 以前、「いし」さんのご指摘がありました「北政所と淀殿は対立していない」という問題を、福田千鶴著「淀殿」によって修正しました。近世10の中の「豊臣政権の内部矛盾」から、二人の対立によって武功派と吏僚派が関ヶ原で分かれることとなったという記述を全面削除し、削除した理由を注で記述。さらに近世5の「太閤検地」の項も、検地が百姓に農地所有権を認めた側面を無視したものであったので、百姓から見ての検地の項を起こし、これに伴って太閤検地の性格や実施状況についての記述も変更しました。
 「いし」さん。ご指摘ありがとうございました。
 2007年03月04日 (日) 15時20分


No.112淀殿の記述の変更の可能性 コアラ <i218-47-78-105.s01.a014.ap.plala.or.jp>

 先般「いし」さんから淀殿と北政所の対立うんぬんに付いてご指摘がありましたが、昨日、「淀殿」という研究書の存在を新聞の書評で知りました。書評によると、秀頼は秀吉との間の子ではないとかの様々な淀殿についての醜聞は豊臣家を消してしまいたい徳川が流したデマであるということを資料に基づいて明らかにした本だとか。そして淀殿と北政所の対立というのも嘘だとか。「いし」さんのご指摘に関るものなので、早速購入して検討し、記述の変更を考えてみます。
 ミネルヴァ書房刊「淀殿」。福田千鶴著です。
 2007年02月01日 (木) 11時28分


No.44 幾度も申し訳ありませんが・・・ いし <zaq3d7d458f.zaq.ne.jp>

幾度も申し訳ありません。
いしです。
今回もまた拝見致しました。
初期の江戸幕府と豊臣公儀が並立していたというのは、どの教科書でも触れられておりませんし、江戸時代の幕府が中央集権的だと誤解されていたというのも、頷く所ばかりです。

ですが、今回もまた細かい点で異論をと思います。
北政所:東軍派、淀殿:西軍派という構図は長らく唱えられていましたが、最近では逆に北政所が西軍に味方し、淀殿が徳川に期待していたという説が浮上しています。
淀殿は妹が秀忠に嫁いでいますし、関ヶ原にしても徳川家康には軍資金や兵糧を贈っているものの、西軍決起には何もしていません。
逆に北政所は宇喜多秀家の必勝祈願に自らの代理を送ったり、戦後も西軍についていた諸将との交流があったり(逆にこの頃は福島や加藤を避けているような行動も見られます)、と、西軍寄りであるように思えます。

これは、秀頼誕生のみならず、それ以前・以後も秀吉・秀次間の対立と宥和との繰り返しがあり、最終的に秀吉が秀次を一掃する形で終わってしまったことへの延長線のようにも感じられます。それは私の推察にしか過ぎないのですが…
2006年11月12日 (日) 22時32分


No.45いつもありがとうございます コアラ <i218-47-78-67.s01.a014.ap.plala.or.jp>

> 北政所:東軍派、淀殿:西軍派という構図は長らく唱えられていましたが、最近では逆に北政所が西軍に味方し、淀殿が徳川に期待していたという説が浮上しています。
> 淀殿は妹が秀忠に嫁いでいますし、関ヶ原にしても徳川家康には軍資金や兵糧を贈っているものの、西軍決起には何もしていません。
> 逆に北政所は宇喜多秀家の必勝祈願に自らの代理を送ったり、戦後も西軍についていた諸将との交流があったり(逆にこの頃は福島や加藤を避けているような行動も見られます)、と、西軍寄りであるように思えます。

 これは初耳です。今回の考察は、関ヶ原合戦が近世武士社会の政治構造を規定したとする笠谷和比古氏の説に依拠して記述しました。笠谷氏は、淀殿・北政所の動きについては従来説に依拠していました。そうではないという御説は、どのような書物・資料に依拠して出されているのでしょうか。出典をお教え頂ければありがたいです。

 2006年11月13日 (月) 09時53分


No.17お初にお目に掛かります いし <zaq3d7d458f.zaq.ne.jp>

お初にお目に掛かります。
いつも楽しく拝見させてもらっています。
参考になる箇所も多々あり、その度になるほどと頷いている次第です。

ですが、今回は異論を。
まず、秀吉の朝鮮侵略においての石田三成ら奉行衆について。
石田三成や増田長盛らは、少なくとも第一次朝鮮侵略には参加しており、特に石田三成は小早川隆景や小西行長にすら先駆けて早期の戦線縮小、並びに講和を提唱しています。決して彼らが「後方支援と称して戦に出ようとせず、各大名の力を削ごうとした」わけではありません。
また、第二次朝鮮侵略には、関ヶ原で東軍の急先鋒としても知られる福島正則も参加しておらず、国内の安全な場所にいたから奉行衆が恨まれたというのも少々疑問を感じてしまいます。
(続く
 2006年10月24日 (火) 05時21分

No.18続き いし <zaq3d7d458f.zaq.ne.jp>

次に、オスマン帝国について。
オスマンがハンガリーの大部分を占領するきっかけとなったモハーチの戦いは1526年であり、第一次ウィーン包囲も1529年の出来事です。
秀吉政権どころか、この時点ではまだ織田信長も生まれてすらいません。
時系列として、少々おかしな書き方になっているのではないでしょうか?
カトリック教国のフランスも、神聖ローマ帝国と敵対していた関係から、オスマンと結んでいます。このことから、オスマンは脅威というより、欧州の戦乱の中に、一勢力として参加したといった方が的を射ているように思われます。
 2006年10月24日 (火) 05時41分

No.19ご意見ありがとうございます コアラ <i218-47-76-178.s01.a014.ap.plala.or.jp>

 たしかに石田・増田は第1次侵略時に渡海しています。しかしこれは前線に進んだわけではなく秀吉の朝鮮渡海の準備に渡り、結果として敗戦の中での戦線の縮小に動いたにすぎません。彼ら奉行衆は第2次には国内におり、検地の強化など国内支配の強化に動いています。彼らが秀吉の朝鮮侵略の後方指揮官として大名の力の削減に動いたのは事実だと思います。
 オスマントルコの第1次ウイーン攻囲は1529年です。でもここで記したのはフェリペ2世の時代に限りましたので、第2次攻囲のほうでえすよ。また当時トルコとフランスとが同盟を結んでおりその流れでウイーン攻囲を行ったのは事実です。でも「一勢力として欧州内戦に参加」では、オスマントルコの脅威の矮小化だと思います。
 2006年10月24日 (火) 11時08分

No.24第二次ウィーン包囲にしても いし <zaq3d7d458f.zaq.ne.jp>

お返事有り難うございました。
ですが、もう一つ疑問に思った点を。

第二次ウィーン包囲は1683年で、もう少し後の時代ではないでしょうか?
それに、第二次ウィーン包囲自体、むしろオスマンに対する欧州の逆襲の第一歩ともいうべき事件だと記憶しております。
無論、16世紀の欧州で、オスマンの影響力が強かったのは事実でしょうが・・・

増田や長束については見受けられず、石田のみで申し訳ありませんが、彼は第一次侵略の漢城攻防戦、幸州山城の戦い(1593年2月)で負傷しているはずです。ここは当時最前線で、「前線に出なかった」というのは的はずれに思われます。
第二次侵略に関して言えば、仰る通り日本国内での検地に当たってはいますね。とはいえ、奉行衆が侵略戦争を積極的に推進していたというのは、調べても見つけることは叶いませんでした。よろしければ、その出典などお教え頂ければと思っております。
ぶしつけなお願いで申し訳ありませんが、どうぞお願いします。
 2006年10月28日 (土) 01時31分

No.25 いくつか訂正します。ご意見ありがとうございます コアラ <i218-47-77-15.s01.a014.ap.plala.or.jp>

 調べて見ましたら私の記述に誤りがありました。1593年はオーストリアにトルコが侵入した事件。ウィーンは包囲していません。ただ16世紀においてはトルコがヨーロッパを圧倒していたのは事実です。そしてこれに変化が生じたのが1683年の第2次ウィーン攻囲。ここで敗退したトルコは次にはハンガリーも失います。ですから1683年はヨーロッパの反転攻勢が開始された年。しかしこれでトルコが衰退したわけではなく、東の大国として君臨し続けたことは確かです。
 五奉行が侵略戦争を積極的に推進しなかったと見るのはなぜでしょうか。奉行衆は現地司令官として渡海していますし、文録・慶長検地自体が侵略戦争体制を強化するためのものだと思います。この意味で五奉行は秀吉の指示を受けて侵略戦争を積極的に推進したのではないですか。また三成が参加した漢城攻防戦などは、侵略軍が敗退し戦線を縮小する過程での戦いです。他の諸将のように進入の過程での文字通りの前線ではありません。ただ「前線にも行かず・・・」という表現は行き過ぎかもしれません。表現を再検討したいと思います。
2006年10月28日 (土) 08時12分

No.26追加 コアラ <i218-47-77-15.s01.a014.ap.plala.or.jp>

幸州の戦いには、増田・大谷の奉行衆も石田三成とともに参加し、7段に分かれていた軍勢の2番手をつとめています。出典は北島万次氏の「朝鮮日々記・高麗日記」です。秀吉の命を受けて中国出陣のための基盤づくりに朝鮮に渡った奉行衆も敗退する中で拠点である漢城を守るために「前線」に出て戦わざるを得なくなったようです。
 2006年10月28日 (土) 08時22分

No.28修正しました コアラ <i218-47-77-108.s01.a014.ap.plala.or.jp>

「いし」さんのご意見を参考にして調べたことをもとにして「3−7:朝鮮侵略戦争」の記述を幾つか修正しました。奉行衆は「後方支援と称して戦に出ようとせず、各大名の力を削ごうとした」とした部分は「後方支援と称して戦に出ようとせず」を削除し、第1次侵略において奉行衆も参陣せざると得なくなった状況を加筆しました。ただ文録・慶長検地が侵略戦争体制の強化を名目に諸大名の力の削減を図っていることは明白なので「諸大名の力を削ごうとした」は残しました。
 またスペインとの関係でオスマン・トルコについての記述を、16世紀はトルコの脅威が続いており17世紀末に至ってその衰退が始まるという形で少し修正しました。

 2006年10月29日 (日) 17時35分

No.30お聞き入れ下さり、有り難うございます いし <zaq3d7d458f.zaq.ne.jp>

私の拙い指摘をお聞き入れ下さり、有り難うございました。

仰る通り、オスマン帝国がその力を失ったと言うべきは、第二次ウィーン包囲よりもずっと後のことですね。
ハンガリーでは、現在でも屈辱としている百数十年だそうです。

なるほど。これも仰る通り、奉行衆が秀吉の手足となって、積極的に朝鮮侵略の指揮を執ったのは間違いないでしょう。ただ、奉行衆は日本軍が「快進撃」を続けていた時点より、戦線縮小、ひいては講和に向けて行動を起こしていたと記憶しています。
加藤ら主戦派のことは書かれず、奉行衆のみを悪し様に書かれる様子を見て「自らは戦地に赴かず、積極的に侵略戦争に賛同するような卑劣な真似を行ったからこそ、彼らは正義を失ったのだ」と、旧日本軍の亡霊たる日本戦史の「通説」通りの記述をなさっているのではないかと勝手な解釈を行い、小賢しくも口を挟んだのです。この点において、不快な思いをさせてしまったことを、改めてお詫び致します。
 2006年10月31日 (火) 06時19分

No.31こちらこそありがとうございました コアラ <i218-47-77-77.s01.a014.ap.plala.or.jp>

疑問点をご指摘くださったおかげでより正確な記述になったとおもいます。ありがとうございました。
 奉行衆の動きは第1次侵略の後退戦の中での和平への動きのなかで目立っているのは事実です。現地の状況をリアルに捉えれば、これは当然の動きです。しかし彼らの動きでもう一つ大事なのは、彼らが秀吉の代理人である軍目付けとして動いており、朝鮮に渡った諸将の動きを監督・評価し、秀吉に注進する立場にあったことです。その結果少しでも臆した行動をとったと彼らに評価された諸将は秀吉に譴責され、領地没収や削減の憂き目にあっていることが、後に豊臣政権の分裂=関ヶ原の合戦とその滅亡に繋がったということでしょう。この点はさらに加筆し、次の関ヶ原・徳川政権の成立のところで詳述します。
 2006年10月31日 (火) 10時52分


No.3はじめまして 永原 <zm047032.ppp.dion.ne.jp>

はじめまして 永原と申します。
朝鮮の歴史を研究するHPを運営しています。
朝鮮の歴史で検索したらこのサイトがかかったのでご挨拶にあがりました。

さて 話はかわりますが、コアラさんは三光作戦について中国帰還兵(共産党軍の捕虜となった人々)の証言だけを持っていると話されましたね。

実はこの「三光作戦」についての日本側の作戦命令書はあります。
以下引用します。
(引用開始)
歴史修正主義の克服  著者 山田朗 高文研 P129

一九四〇年北支那方面軍司令部が出した「燼滅目標及び方法」という
文章を見てほしい。日本側では「三光作戦」のことを「燼滅作戦」と
称しており、そのやり方として

1,敵及び士民を仮装する敵 殺戮
2,敵性ありと認むる住民中15歳以上60歳までの男子 同上
と、上級司令部の命令として発令している。・・
(引用終了)

失礼します。

 2006年03月27日 (月) 00時31分

No.4ありがとうございます 管理者・コアラ <i218-47-78-104.s01.a014.ap.plala.or.jp>

 ご教示、ありがとうございます。やはりそういうものがあるんですね。貴サイトならびにご教示いただいた書籍などを参考に学習していきたいと思います。
 2006年03月27日 (月) 08時04分


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