「我が町長尾の歴史」講演記録8<長尾しらかし会>にて

1998年2月:


 七回目は、テーマは、江戸時代の長尾村の様子を当時の資料を通じてみてみることです。今回取り上げたのは、「新編武蔵風土記稿」と「江戸名所図会」です。

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(資料の説明)

 風土記稿は、資料にも書いておきましたが、江戸幕府の学問所が1810年から28年までの期間をかけて武蔵の国の歴史地理についての調査結果をまとめたものです。村や町に残る古文書や史跡を調査した結果として、それぞれに村や町の歴史と現況を述べたもの。
 また江戸名所図会は、江戸の名主の斎藤家三代が記した江戸とその近郊の名所旧跡の現状と由来を記した本で、詳しい絵を付して、観光名所を解説したもの。1834年に出版された。
 この二つの江戸末期の資料で長尾村はどう描かれていたか。
 これは添付した資料を読んでみていただければよくわかります。
 風土記稿では、長尾村を二つに分けて記述しています。一つは谷長尾。もう一つは河内長尾。谷長尾とは今の神木で、平瀬川流域の平野(谷)に広がった本来の長尾村。そして河内長尾とは、その北側の丘陵とそのさらに北側に広がる多摩川の沖積平野の部分。今の多摩区長尾です。ここは主に江戸時代になって多摩川の河道が北に動いてあいた河原を開墾してできた地域。
 それぞれにある名所旧跡の説明や、村の歴史を記しています。
 一つミスプリントがあります。p652に「妙覚寺」とありますが「妙楽寺」の間違いです。
 また旧跡陣屋跡は、今の向ヶ丘小学校です。
 p655に載っている秀吉の禁制は、前に長尾の歴史6で使用した資料のことです。
 資料の後ろ三枚が、江戸名所図会で多摩川の右岸(川崎側)を左岸(江戸川)から見た風景です。一枚目から二枚目三枚目と川の下流に下っていきます。
 三枚目に妙楽寺が描かれています。
 これによると今の本堂の西側の高台に薬師堂があることがわかります。この本尊が今も残る薬師三尊像です。この図面で妙楽寺が今より大きな寺であることがわかります。
 なお三枚目の左側の七面山とは今の津田山のこと。
 明治時代以後にここに津田さんというお金持ちの家ができたことで、名前が変わってしまったそうな。


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