「我が町長尾の歴史」講演記録7<長尾しらかし会>にて
1997年9月:
六回目は、テーマは二ヶ領用水と街道の建設。秀吉による全国統一と家康の江戸入府。これで関東地方に平和が訪れます。その結果として長尾村はどうなったかを考えます。
(資料の説明)
江戸時代は図1・2の資料から、全国の耕地面積が1.86倍、全国の石高(お米の取れ高)が1.65倍と、大幅に農業生産が発展した時代でした。
その理由は、幕府や大名によって大規模な灌漑治水工事が行われたこと。戦乱が収まって収入を増やすために戦争をおこなうことができなくなった彼らは、農業生産そのものを発展させることで収入を増やそうとしました。
そのための灌漑治水事業は、費用はすべて大名幕府もちで、労働者として働いた農民には、かなりな給料が払われた。あまり高額なので農業をさぼって工事現場に出る農民がでたほどでした。
川崎市域では、1597年から1611年までの年月をかけて二ヶ領用水がほられました。この用水の名は、幕府領である稲毛領と川崎領のための用水路であったことからつけられました。このときの取水口は、宿河原(多摩区)です。
しかしこの結果として流域の農地開拓が進んで水量不足が生じたので、約100年後に、取水口をさらに上流の中野島(多摩区)に増設し、新たに新川と呼ばれる用水路ができました。さらに古い用水路では、泥で埋まっていた用水の泥さらいが行われて、その役割がさらに拡大しました。
この結果川崎市域の村の収穫高は軒並み上がりました。図8.図4で丸印で囲んだ村は、とくに収穫高の増大が大きい村。長尾村は村の半分が平瀬側流域で昔から農業が盛んな神木地区で、残り半分(これが現在の長尾)の半分が山なので、それほどこの用水の恩恵は受けていません。それでも次第に収穫量が上がっていることがわかります。
市域全体でみると収穫高が20%以上も増えています。
そしてこの時代、今までの主な街道以外に、それぞれの街道を結び付ける街道や、主な街道と並行して走る脇街道が建設されました。その街道の集まるところとして、長尾の近くでは、登戸(多摩区)や溝口(高津区)が発展しました。
この結果江戸という日本最大の都市(人口100万・世界一でもありました)の消費物資を作る産業が川崎市域に成立し、長尾にも和紙製造や醤油製造がはじまりました。
江戸時代というのは、人々の暮らしがずんと豊かになった時代です。