「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第1章:原始と古代の日本」批判G
8.「倭」=「大和朝廷」という虚妄
次の1節は、「大和朝廷の外交政策」と題して、4世紀から6世紀までの、朝鮮半島情勢を中心に、我が国と中国・朝鮮諸国との関係を述べている。この節は、我が国と朝鮮諸国との関係を、統一中国なき動乱の時代としての3世紀から6世紀という、東アジア全体の動きのなかにおいて描いており、「東アジアの中の日本」という観点で歴史を叙述した点で、優れたものになっている。
ただここにおいて、中国や朝鮮諸国の資料に現れ、朝鮮の高句麗と戦を交えた「倭国」を、「大和朝廷」ととらえて叙述していることは、大いなる間違いであり、歴史の偽造である(このことは、他の教科書におけるあつかいとも共通しており、日本古代史学会の公認の定説自体が持っている「皇国史観」という先入観を捉えかえすことをせずに、無批判に「日本書紀の大義名分論」=「大和こそ日本古来の中心なり」を祖述してしまった結果でもある。)。
教科書の記述を見よう。最初に4世紀から6世紀の東アジア情勢について、以下のように述べる(p37)。
古代の朝鮮半島や日本列島の動向は、中国大陸の政治の動き一つで大きく左右された。220年に漢がほろびてから、589年に隋が中国を統一するまでの約370年間、中国は小国が並び立つ状態で、朝鮮半島におよぼす政治的影響力がいくらか弱まった。 |
正しい指摘である。ただ一つ付言しておけば、「朝鮮半島や日本列島の動向が、中国大陸の政治の動き一つで大きく左右された」のは決して古代だけではなく、中世も・近世も・近代も・そして現代もそうだということを忘れないで置こう。
そして次に、中国の影響力が減った中での朝鮮半島情勢を以下のように述べる(p37)。
急速に強大になった高句麗は、313年にこのころ中国領土だった楽浪郡を攻め亡ぼした。中国を中心とした東アジア諸民族の秩序にゆるみが生じ、大和朝廷もこれに対応して、半島への活発な動きを示した。 高句麗は、半島南部の新羅や百済を圧迫していた。百済は大和朝廷に救援をあおいだ。日本列島の人々は、もともと鉄資源を求めて、朝鮮半島南部と交流を持っていた。そこで、4世紀後半、大和朝廷は海をわたって朝鮮に出兵した。大和朝廷は半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。 |
おおむね正しい記述である。「大和朝廷」としたところを「倭国」という形に、当時の資料にあらわれた形に訂正すればのことであるが。
そして教科書は、その後の情勢についてさらに詳しく記述する(p38)。
高句麗は南下政策をとった。海をわたった大和朝廷の軍勢は、百済や新羅を助けて、高句麗と激しくたたかった。414年に建てられた高句麗の広開土王(好太王)の碑文に、4世紀から五世紀始めの出来事として、このことが記されている。 高句麗は、百済の首都漢城を攻め落とし、半島南部を席巻した。しかし、百済と任那を地盤とした日本軍の抵抗にあって、征服は果たせなかった。 |
おおむね正しい記事である。
(1)「倭国」と同盟したのは百済だけ
だがここには「倭国」=「大和朝廷」というすり替え以外に、もう1点気になる資料との食い違いがある。それは、「倭国」と同盟したのは百済だけだというのが広開土王の碑文などの資料の示すとところであるが、この教科書は「百済と新羅」を助けてという書き方で、まるで「倭国=正義の味方」という書き方をしているところである。
広開土王の碑文によれば、新羅は常に高句麗のほうについており、高句麗・新羅連合軍対百済・倭連合軍という形に闘いは進展している。そしてこの闘いは、倭が善意で百済を助けるという闘いではなく、この教科書も書いているように朝鮮南部(=この教科書の記述の任那。正しくは加羅諸国)には豊富な鉄資源が存在しており、それを誰が支配するのかという問題なのである。そして一時的に同盟したのが倭と百済なのである。
また倭国と百済とは対等な関係であり、いやむしろ百済の方が上位に位置する関係であった。このことはこの時代に百済王世子が倭王旨(し)に送った刀(七支刀)の銘文でも明らかである。
おそらく倭にとっては自己の領地である金官加羅(=任那 ※おそらくこの国は韓諸国の一つであり、同時に倭国を構成する一国でもあり、韓名と和名の両者をもっていたのであろう)を守るために百済と同盟を結んだと言うのがほんとうのところであろう。
ここをくわしく叙述しないと、文字どおり「百済を助けて」倭国が高句麗と闘ったということになり事実と大いに違ってくるのである。
(2)「任那」は「倭」の一部
だがここを正確に記述するためには、「日本列島の人々は、もともと鉄資源を求めて、朝鮮半島南部と交流を持っていた」などというあいまいな書き方はできなくなる。正確には鉄資源を産する半島南部の地=加羅諸国のうちの金官加羅は、昔から倭地であり、この時期に倭が朝鮮に出兵して築いた拠点などではないということである。
あの魏志倭人伝には次のような記述がある。「郡より倭に到るには海岸に従って水行し、韓国をへて、その北岸、狗邪韓国にいたる。初めて一海を渡り、対海国に到る」と。
郡とは中国領であった帯方郡(いまの平嬢付近)。倭とは倭国の首都で女王卑弥呼が都する「邪馬台国」。そして対海国とは今の対馬である。さすれば狗邪韓国が、今の韓国の釜山付近にあたることは明白である。そしてここを「その北岸」と表現した。「その」とは「倭の」ということであり、狗邪韓国は倭国の一部なのである。
このことは考古学的出土遺物が証明している。弥生時代の昔から古墳時代にいたっても、九州北岸と半島南岸は同じ文化を持っていた。
また広開土王の碑文には新羅王が広開土王に言った言葉として「倭人、その国境に満ち」というものがある。つまりその国境とは新羅と倭との国境ということであり、新羅と倭とは朝鮮半島内で国境を接していたのである。
すなわち倭が高句麗と闘ったのは自国の一部である金官加羅=任那(かっての狗邪韓国)を守るためであり、百済を助けるためではない。百済との同盟はそのときの情勢のなせるわざなのである。そしてこのことは百済にとっても同様である。この教科書にも書いてあるが、後になって6世紀のことであるが、百済は新羅と手を組んで、加羅諸国を亡ぼし、百済と新羅とで分けてしまったのである。倭の同盟国であった百済が、倭の重要な鉄資源産地の加羅諸国を征服したのである。
金官加羅=任那が倭の一部であったことをこの教科書は「任那に拠点を築いた」とあいまいに表現し、これにたいしても韓国は抗議をし、結局この部分の表現は「加羅諸国と同盟した」に落ちついたのだが、双方とも、まだ「日本」と「韓国」という民族国家が成立していない民族混在の時代である古代に現代の民族感情を持ちこんで、歴史を歪めてしまうという態度においては同質のものである。
(3)「倭」と百済は常に同盟国であったわけではない
またこの教科書では、先に指摘した事だが、百済と倭とがつねに同盟国であったかのような書き方をしている。これは間違いである。
たとえば上の文章に続いて、5世紀の情勢について以下のように記述する(p38)。
5世紀中ごろ、中国では南に宋、北に北魏が建国し、いわゆる南北朝時代を迎えた。(中略)大和朝廷と百済は、中国の南朝に朝貢した。 5世紀を通じて10回近く、「倭の五王」が宋に使者を送った。他方高句麗は北魏に朝貢し、同盟関係にあった。大和朝廷と百済があえて宋の朝貢国になったのは、宋の力を借りて高句麗を牽制するためであった。 |
混乱していた中国に二大王朝が成立した事が、半島情勢に変化を与えた好例である。対立する高句麗と倭・百済はそれぞれ中国の力と権威を借りて、その支配を確固たるものにしようとしたのである。
しかしここでも、この教科書の記述は少し変である。「倭と百済は仲良く宋に朝貢した」と読めるからである。
事実は少し違った。ここに出てくる倭の五王が宋に要求した官位を見ていくと、そこには百済に対する支配権を要求している事がわかる。そしてこの要求に対して宋王朝は、一貫して百済に対する支配権だけは認めなかった。宋書倭国伝のよれば、それは以下のようになる。
(1)倭王珍・・・・・・「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」
⇒「安東大将軍・倭国王」に叙す
(2)倭王済・・・・・・「使持節都督、倭・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に叙す
(3)倭王武・・・・・・「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と自称
⇒「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に叙す
倭は常に朝鮮半島の高句麗の支配地域を除く全ての土地に対する支配権を要求していたのであり、宋王朝は百済だけは認めなかったのである。それはあたりまえ。百済も昔から中国の王朝に朝貢してきた国であり、百済国王は中国皇帝によって百済国王に認められ、百済は中国にとって朝鮮南部を代表する、その支配化にある国なのである。この点で中国に朝貢したことのない新羅や加羅諸国とは格が違うのである。
ともあれ、倭国と百済とは対等な関係であり、互いに同盟したりぶつかったりしていたのである。
(4)「倭」は「大和朝廷」ではない
さてここで、中国や朝鮮の国々の史書に出てくる「倭」が「大和朝廷」ではないことを証明しておこう。
この教科書はなんの注釈もなく「倭の五王」を「大和朝廷の王」と叙述している。たとえばこのページの資料として埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣をあげ、そこに出てくる「獲加多支鹵大王」を「わかたける」とるびをふり、「倭の五王の武で雄略天皇にあたると考えられている」と記している。
これは日本古代史学会公認の定説で、どの教科書にも記述してあるのだが、どう考えても無理である。
「獲加多支鹵大王」の「獲」の字は漢音では「カク」呉音では「ワク」だから、「ワ」音をあてても間違いではない。また次の「加」も漢音で「カ」呉音で「ケ」だから、まあ良い。そして「多」は漢音でも呉音でも「タ」である。しかし、次の「支」は、漢音でも呉音でも「シ」であり、どうやっても「ケ」と読めない。最後の「鹵」は、漢音なら「ロ」呉音なら「ル」である。
「ワカタケル」という読みは第1音を呉音、第2音を漢音、第3音はどちらでも可、第4音はまったく恣意的な読み。そして最後の第5音を呉音と、バラバラないいかげんな読みなのである。
ここは古田武彦のように第1の「獲」を動詞として名前は「加多支鹵大王」とし、全てを漢音で読んで「カタシロ大王」としたほうが読みとしてはかなっている。「ワカタケル」という読みは、「日本の王と言えば大和の王」という日本書紀の大義名文論を前提とした読みなのであり、これは成立しがたい。
またもっと確実な証拠として、この倭王武の上表文にある、武の父済の記事の「大挙して高句麗を攻めようとしたときに、父兄をともにうしなうこととな」ったという記事など、雄略(天皇)の父である允恭(天皇)の古事記や日本書紀の記事にはまったくない記事であることなどは、この倭の五王が「大和朝廷の王」などではないことを明白に示している。
さらに古事記の記事には「大和朝廷」と高句麗とがしばしば闘いを交えた事などは全くなく、倭の五王に当たるとされる応神から雄略までの記事を見ても、「大和朝廷」内部での権力抗争ばかりが描かれており、外国と戦ったことなどない牧歌的時代として描かれていることも、付記しておく。
(5)「大和朝廷」は日本列島を統一してはいない
また、高句麗の広開土王の碑文の「倭」との闘いが頻出し、一方で東国の古墳に倭の五王の一人である武=雄略(天皇)の名前が入った刀が出て来た事は、この4世紀から5世紀の時代に「大和朝廷」による日本列島統一がかなり進んでいた事を示す資料として、戦後の日本古代史学会に珍重されてきた。これが前記の前方後円墳の広がりと共に「大和朝廷による日本統一」の学問的根拠となってきたのである。
しかしこの認識も虚妄であった。
当時の「大和朝廷」は、まだ近畿地方をようやく支配下に置いたに過ぎず、それすらも安定したものではなく、内部抗争を続けていた時代であった。(例外は応神の父の仲哀(天皇)である。ここでは熊襲征伐にからんで、その后の神功皇后による新羅征伐が記述されている。古事記の熊襲とは北九州に都する倭国のことなので、高句麗との戦に明け暮れる倭国王が、その分家である「大和」にも援軍を頼み、援軍として倭国の都に入った仲哀(天皇)が反逆したが、逆に倭国軍と同盟軍である百済軍に攻められて敗死し、新羅との親戚関係をもっていた神功皇后のつてで死地を脱して大和に帰ったということではないだろうか。〔この点、古田武彦氏の説による〕)
(6)「任那」=加羅諸国ではない
この節の最後は、「大和朝廷の自信」と題して、6世紀の東アジア情勢を詳しく述べている。教科書の記述は以下のようである(p40)。
6世紀になると、半島の政治情勢に変化が生じた。あれほど武威をほこっていた高句麗が衰退し始め、支援国の北魏も凋落に向かった。かわりに新羅と百済の国力は増大した。任那は両国から圧迫された。高句麗が強大であった時代には考えられない情勢の変化だった。任那は、新羅からは攻略され、百済からは領土の一部の割譲を求められた。 しかし、百済と大和朝廷の連携だけは続いた。新羅・高句麗が連合して、百済を脅かしていた時代だったからである。538年には、百済の聖明王は、仏像と経典を日本に献上した。百済からは、助けを求める使者が列島にあいついでやってきた。しかし562年、任那はほろんで新羅領となった。 |
たしかにこのような変化が生じた。
だがここで一つ気になるところを指摘しておこう。それはこの教科書が「任那」=加羅諸国という立場を一貫してとっていることである。
たしかに日本書紀ではそのような使い方をしている。しかしこれは史実ではない。『加羅諸国はすべて倭に従属したものである』という大義名分にそって書かれた、いわばイデオロギーの表明にすぎない。
事実は、すでに述べたように、加羅諸国は30数国にわかれ、その中の最大の国の一つが任那という和名をもった金官加羅国であった。そしてこの地は、あの魏志倭人伝の時代以前から倭の地であり、鉄の産地であった。加羅諸国全体が鉄の産地であったため、倭国は金官加羅が倭を構成する王国の一つであることをもって、加羅全体が自分の領域であることを主張していたのだ。
しかしこれは倭の立場にすぎない。加羅諸国には倭の影響下から脱しようという動きもあったのである。
加羅諸国のうち、金官加羅と並ぶ大国の一つに大伽耶という国がある。この国の王は、479年に南斉に朝貢し、輔国将軍・加羅国王に補されている。これはあの倭王武が宋に朝貢して「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に補された翌年であり、同じ地位を宋をついだ斉王朝に認められた年と同じである。つまり斉は、加羅をもふくむ南朝鮮地域の軍事司令官としての地位を倭国王に認めはしたが、百済を倭と対等の中国王朝に隷属する国と認めたのと同じように、加羅の大国である大伽耶をも、倭国と対等と認めたのである。
この歴史教科書が、「加羅諸国はすべて倭の主導権下にある」という倭国中心の考え方=皇国史観に立つ名称である「任那」=加羅諸国という用語を無批判に使うと言う事は、この教科書の著者たちが、皇国史観に立っていることを示す事実の一つである。
(7)「倭」⇒「やまと」の読み替えに潜む皇国史観
この節の記述は、東アジア情勢の中での日本と中国・韓国の関係をくわしく叙述するところに特徴がある。このことはとても正しい。
しかしこの教科書の記述には上に指摘したように、いくつも問題がある。
最後にその問題点を3つにまとめて提示して、この節の批判を終えよう。
その一つは、この教科書は、4世紀から6世紀の東アジアを語るに必要な資料に頻繁にあらわれる「倭国」を、すべて「大和朝廷」と読み替えている。そしてその根拠は古事記や日本書紀で「倭」の字を「やまと」と読ませていることに根拠を置いている。
しかし古事記でみると、「やまと」には、2種類の漢字が使用されている。すなわち「倭」と「夜麻登」である。そしてこの二つの字の使い方を見ると、「夜麻登」の文字は、文字通り「大和の国」をあらわす使い方をしており、これが大和を指す文字である事は明らかである。では「倭」は何を表しているのか。これはズバリ「日本列島全体」を指す言葉として用いられているのである。
たとえば神武の名前である「神倭伊波礼毘古の命」の「倭」は、おおいなる偉大な「倭」国を指しており、その支配下にある「伊波礼」の長という意味になる。そして彼の子孫の王の名前に冠するときには、ほとんどが全て美称になってしまい、自らが倭の王朝の流れを汲むものという自己主張の一部になって行くのである。
「倭」はここでも、日本列島を代表する王者である、北九州の王家を指すことばであり、けして「やまと」とよべるものではない。この字を「やまと」と読んだ事自体が、「日本列島の中心は昔から大和である」という「大和中心史観」の造語であり、それを歴史的事実として使用する事は、これ自身が歴史の捏造といわざるをえない。
(8)「倭」は中国の属国である
二つ目の問題点は、この教科書の著者がくりかえし、「日本は中国に朝貢してきたが独立した立場をとった」と、何の資料的根拠も示さずに主張していることである。
教科書の記述を示そう(p39)。
中華秩序と朝貢 中華秩序とは、近代以前の中国中心の国際秩序のこと。中国の皇帝が周辺諸国の王に称号などを授け臣下とする。臣下とされた国は定期的に使者や貢物を送り(朝貢)、臣従の礼をとる。 |
この教科書の著者たちは、よほど日本が中国の風下にたつことが嫌いなようである。日本は江戸時代まで一貫して中国の属国である。たしかに途中で何度も長い間朝貢の礼をとらないことはあった。でもそれは日本が中国の属国と言う立場を捨てたことではなく、日本がベトナムや朝鮮と違って中国とは国境を接しておらず、間に海をおいている地理的条件にあるために、自国の必要がないかぎり、中国に朝貢することを強要されないという位置にいたからである(例外は鎌倉時代の元との関係のみ)。
だがいつも中国と国交を結んだときには、日本国王は中国皇帝の臣下であり、日本は中国の属国なのであった。これはあの「委奴国」も「邪馬台国」もそうであり、「倭の五王」もそうである。そして後の唐王朝との関係もそうであり、明王朝と通交したときもそうであった。
日本が「独立した」かのような中国と無関係でいられたのは、その地理的条件のせいであり、決して意図的にその立場をとった結果ではないのである。ベトナムや朝鮮は中国と国境を接しているために直接に中国の脅威を受けざるをえなかった。この地理的条件を無視して、「日本は中国と独立した立場をとった」と宣言する事は、事実を無視した単なる「民族主義・国粋主義」の発露でしかない。
(9)「中国文化の担い手」としての朝鮮渡来人という矮小化
この教科書の記述の問題点の3つめは、4〜6世紀に朝鮮半島から大量にやってきた渡来人の果たした役割を過小評価し、それを「中国文化の担い手」という形に矮小化し、あまつさえ彼らを日本の王化に帰属した「帰化人」と記述しているところである。教科書の記述を示そう(p39)。
中国は、紀元前の段階ですでに、文字、哲学、法、官僚組織、高度な宗教などを十分に身につけた古代帝国時代を経過していた。 文化は高きから低きに流れるのを常とする。朝鮮半島を通じて、中国の文化は日本に流入した。戦争などで百済との交流がさかんになるにつれ、人の往来もひんぱんになった。 おもに5世紀以降、大陸や半島から技術をもった人々が一族や集団で移り住んだ。(中略)技術や文化を伝えたこれらの人々は、帰化人(渡来人)と呼ばれる。大和朝廷は、かれらを主に近畿地方に住まわせ、王権につかえさせた。 |
たしかに朝鮮半島からの渡来人がもたらした技術や文化の多くは中国に起源をもつものであった。中国と国境を接し、一時期には中国に征服されたこともある朝鮮半島の人々は、進んだ中国文化をうけいれざるを得なかった。
だがそこで育まれた文化を中国文化とは呼ばない。それは朝鮮の風土に根ざした文化と融合し、朝鮮化されているからである。仏教文化しかり。中国の法制度しかり。そして文字さえも。
朝鮮では速い時期から中国の文字の音を借りて朝鮮語を記述する試みがなされていた。それが日本にもたらされて、日本で日本語を表記するために改変されたもの。それがのちの万葉仮名ではなかったか。この万葉仮名を朝鮮文化とは呼ばないし、中国文化とも呼ばない。
これと同様に朝鮮からの渡来人がもたらした文化も朝鮮文化なのである。そして彼らがもたらしたものの中には、中国起源ではない朝鮮独自の文化も入っているのである。「高温で焼いた固い土器(須惠器)」は、かっては「朝鮮土器」と呼ばれた。また古墳文化で土を盛り上げた封土の中に石でお棺を入れる区画をつくるのも朝鮮独自の文化である。そしてこれらの文化は当時においては、日本の文化より数段優れていたのであり、これらの朝鮮渡来人の文化を除いたら、日本文化などなにもないほどのものであった。
この教科書の著者たちは、よほど朝鮮の風下に日本が立つことが嫌いなようである。
また彼ら渡来人のことを「帰化人」と呼ぶのも問題である。
帰化というのは優れてイデオロギー的な用語である。帰化とは「王化に服すること」、王化とは「王の徳によって人々を従わせること」を意味する言葉である。つまり「異国のものが帝王の徳をしたって服属する」という意味の言葉なのであり、この言葉は日本書紀ですら使っていない。
古事記ではこれらの人々がやってきたことをたんに「渡来」とのみ記す。つまり単に海を越えて日本にやってきたのである。
彼らは日本書紀によれば170県の民とか17県の民とかというように単に一族ではなく多くの民を伴って移住してきている。いいかえれば、植民といってよいだろう。そして彼らは単に「朝廷」につかえる役人ではない。あの神功皇后の祖先が新羅の王子「天之日矛」とされているように、有力な諸王の一人でもあったのであり、大和の有力氏族にその祖先が朝鮮や中国からの渡来人であると自称するものも多い。
当時の大和は「統一王権」などではない。九州とは違って多くの未開の地も数多くあった。その地に朝鮮半島の戦乱を避け、大量の人々を伴って新天地を求めてやってきた人々。それが渡来人であった。そしてもう一つ大事なことは、彼らが渡来したのは、けして5世紀以降に限られるものでない。5世紀以降とされたのは、古事記や日本書紀において、彼らの渡来の記事が書かれているのが、応神(天皇)以後だからである。
彼らは後には「今来人」(いまきびと)と呼ばれ、最近渡来した人ととらえられていた。つまりは、大和の国がある程度国として出来あがってきた後で来た人々という意味であり、それより以前に渡来した事が確実な息長氏(おきながし、神功皇后を出した一族)は渡来人の中にすら位置付けられないのである。
前記の弥生人における渡来系の人々の数を試算した埴原和郎氏は、「7世紀には渡来系の人々の数は日本人の70%を超える」とすら述べている。つまりこの人々を除いて日本人はありえない状態であったと述べているわけである。
このような事実を無視して彼らを「帰化人」と呼ぶ、この教科書の著者たちの感覚。それが「日本の方が優れている」「日本のほうが強力である」というイデオロギーに毒されている証拠である。
注:05年8月の新版の記述は、おおむね旧版と同様であり、旧版と同様なあやまりをおかしたままである(p32・33)。訂正されたのは、「倭が新羅と百済とを高句麗の脅威から守り」とした記述から新羅を削除し、より史実に忠実な記述とした所だけである。あとは、全体として記述が簡略化されている。例えば、中国に南朝・北朝が成立した時、倭が南朝に朝貢したのは、「高句麗が北朝に朝貢して北魏をバックに勢力を伸ばそうとしていた」ことへの対抗措置であったことなどである。最後にこの項の末尾に置かれていた中国・隋の登場がもたらした影響についての文は全面削除され、次の聖徳太子の政治の所に統合された。
注:この項は、前掲古田武彦著「失われた九州王朝」、「関東に大王あり:稲荷山鉄剣の密室」(創世記1979年刊)などを参照した。