一二之懸
<主な登場人物> ●熊谷直実(くまがえなおざね):(?−?) 武蔵国大里郡熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠とした武士。「熊谷系図」では直実の祖父は平盛方と言い、関東に基盤を築いた平貞盛の六代の孫という。勅勘をうけて関東に下向し息子の直貞から熊谷郷を拠点にしたと伝える。直実は、保元の乱・平治の乱では源義朝旗下として戦ったが、その後は平氏に仕え、治承4(1180)年の頼朝挙兵の折には討伐軍の大庭景親に従って頼朝と戦う。その後御家人となり、治承4 (1180) 年の常陸国佐竹氏の討伐、寿永3 (1184) 年の源義仲との戦い、同年の一ノ谷の戦いなどで、常に先陣を切って活躍して、熊谷郷を本領として安堵された。しかし長年母方の叔父の久下直光との領地争いに悩み、建久3(1192)年、久下直光との所領争いに敗れ出家する(「吾妻鏡」11月25日条)。以後は法然の弟子・蓮生として活動し、承元2(1208)年、京都東山草庵にて没する (「吾妻鏡」10月21日条)。「熊谷系図」は68歳と伝えるが、彼の出家後の事情を詳しく記した『法然上人絵伝』(全48巻・1307年着手10年後完成)の第27巻によると、上品上生の往生を発願する「自筆請願状」を著した元久元年(1204)5月13日には67歳と伝え、死亡したのは、建永2(1207)年9月4日で場所は熊谷の館と伝える。「自筆請願状」から換算すれば、70歳である。 ●平山季重 (ひらやま-すえしげ):(?−?) 本姓は日奉氏で武蔵七党の西党に属す。父は直季。武蔵国多西郡船木田荘平山郷(日野市平山)を本領とし,院の武者所に祗候して平山武者所と称した。保元・平治の乱の際,源義朝に属す。治承4(1180)年源頼朝の挙兵に従い,佐竹討伐ではまっ先に敵城に登り,宇治川合戦で橋桁の先陣,一ノ谷合戦で先陣の武功をあげたが,文治元(1185)年頼朝の許可なく右衛門尉に任官したため関東への下向をとどめられた。同5年,奥州合戦に従軍。建久3(1192)年実朝誕生のときには鳴弦役を務め,同6年の頼朝の上洛に供奉している。 <戦の経過> 寿永3 (1184) 年2月6日。源氏は大手生田森口に5万余騎(大将軍源範頼)、搦め手一の谷には7000余騎(土肥次郎実平)、山の手の鵯越の上に3000余騎(大将軍源義経)と、南の海に開けた福原の地を三方から取り囲み決戦は翌7日と定めた。
<物語のあらすじ> 山の手の鵯越の義経軍にいた熊谷次郎直実は、「ここは足場の悪い崖を一団となって馳せ下るのだから、だれが一番手というわけでもなく手柄を立てられそうにない」と言って、土肥が指揮する一の谷の搦め手口に密かに回って一番乗りの手柄を立てようとする。朋輩の平山武者所季重(?−? 武蔵国多西郡船木田荘平山郷・日野市平山を本領とする)がすでに同じことを考えて出立したことを知った熊谷は、6日の深夜、子息小次郎直家と旗指の3騎で密かに出立し、7日の明け方、まだ朝日の指さないうちに一の谷の陣の前に到着した。 源氏方が誰も来ていないことを確かめた熊谷は大音声を挙げて平家に戦いを挑んだが、平家は相手にもしない。そのうちに先に来ていたと思った平山が旗指をつれて到着したので、平山が見ている前で一番乗りを果たそうとして、熊谷は再度大音声を挙げて戦いを挑んだ。「うるさい熊谷を討て」と平家は20余騎、木戸口を開いて出陣し、熊谷ら5騎を取り込めて激戦に。熊谷は馬を射られて落馬し、息子小次郎も駆けつけたが、弓手を矢に射られて馬を下り、二人徒歩で敵に向かうこととなる。20余騎の敵に囲まれてあわや討死という所だったが、必死に防戦する熊谷親子に手を焼いていたところに、馬を休めて一息ついた平山ら2騎が突進、その間に熊谷親子は乗り替えの馬に乗って、こちらも敵の中に突進。散々に暴れまわっているところに、土肥勢7000余騎が続いて、熊谷も平山も大手柄を挙げることができた。しかし戦の後、二人はどちらが一の谷の先陣を切ったかで争うことに。 <物語の聞きどころ> 一郷しか持たぬ弱小の武士・小名の命がけの奮戦のさま。まさに「一所懸命」の姿。 この話は、巻9−16「敦盛最期」で熊谷直実が平敦盛を討つことになった際に、敵が息子小次郎とほぼ同年の若武者だと知って、早朝の戦いで一の谷の先陣を切ろうとして小次郎が薄手を負っただけでも自分の心は乱れたのに、息子が打ち取られたと聞いたらこの若武者の父はどんなに心乱れるだろうと考えて、若武者を打ち取ることを躊躇った話の、元になった、熊谷の一の谷戦陣争いの話。 結果として彼の息子小次郎は薄手を負っただけで手柄を立てることができたのだが、戦の経過を見れば、熊谷は馬を射られて落馬し、息子小次郎も駆けつけたが、弓手を矢に射られて馬を下り、二人徒歩で敵に向かうこととなる。20余騎の敵に囲まれてあわや討死という所だった。もし同輩の平山らがさんざんに暴れまわって敵をひるませ、熊谷親子が体勢を立て直す余裕を作ってくれなかったら、二人とも討死していたし、さらに熊谷と平山が平家の陣に討ち入って暴れているのに気が付いた、土肥次郎実平率いる7000余騎が突っ込んできてくれなければ、彼ら5人も討死していた可能性のある戦であった。 一郷しかもたず、家来も一人ぐらいしか抱えられない弱小武士(=小名武士)の戦が、いかに命がけのものであったかを良く示した話である。 |