征夷将軍院宣
<主な登場人物> ●中原康定:?―? 伝不詳。平家物語で巻4「還御」で高倉院の厳島御幸に随身となる。巻8「征夷将軍院宣」では勅使となる。実際には後白河の院庁の官吏で寿永2年9月から11月に何度か鎌倉と京を往復した。 ●源頼朝:1147―1199.2.9 源義朝の3男。平治1(1159)年13歳で平治の乱に参加,従五位下・右兵衛権佐の官位を受けたが,敗れて捕らえられ,永暦1(1160)年伊豆国に配流された。以後、20年間を伊豆の地に流人として過ごす。治承4(1180)年5月の以仁王の平家討伐令旨を受け、8月反平家の狼煙を上げる。石橋山の戦に敗れて海路安房国に逃げのびてから状況が好転、武士の糾合に成功し、進軍して9月に鎌倉に入り、10月には富士川の戦で平家軍を破り、瞬く間に東国に一大勢力圏を築いた。平家物語では登場の場面は少ない。「征夷将軍院宣」では院使康定の見た頼朝像が語られる。 ●三浦義澄:1127―1200.2.9 三浦義明の子。源義朝の家人として平治の乱(1159)に参加。その後は平家の軍事編成下に取り込まれ京都大番役などを務めていた。治承4(1180)年の源頼朝挙兵には計画段階から加わっていたが、石橋山の戦には間に合わず、平家方の軍勢と居城衣笠城で戦って敗れ、父の命で安房へと逃れて海上で頼朝と合流した。『吾妻鏡』では建久3(1192)年に頼朝を征夷大将軍に補任する除書が鎌倉に到着した際、これを受け取る役に選ばれたとしているが、この記事は『平家物語』の「征夷将軍院宣」の記事を参考に書かれたものなので、事実かどうかは不明。幕府成立後はその御家人中の重鎮として重きをなし、相模守護、頼朝没後は評定衆の一員となる。 <物語のあらすじ> 寿永2年10月、平家が讃岐八島に拠点を構え、それを追討する木曽殿の軍と死闘を繰り広げている間(「水島合戦」「瀬尾最期」「室山合戦」、後白河院は鎌倉の頼朝に使いを送り征夷将軍に任ずる院宣を授けた。関東では院宣授与の役に三浦介義澄を当て、若宮八幡(鶴岡八幡宮)で院宣授与の儀式を行い、翌日頼朝の舘で祝賀の宴を催す。この席で頼朝は院使に「義仲・行家・佐竹追討の院宣」を請う。頼朝は院使を懇ろにもてなし、院使の京までの道筋を篤く警護した。 <聞きどころ> 「征夷将軍院宣」は、院宣授与の儀と頼朝館での饗宴という二つの場面からなる。儀式そのものと饗宴そのものは、「口説」や「素声」で淡々と語られるが、その前後の状況が、「中音」「拾」「強聲」などの節を駆使して劇的に語られる。院宣授与の場である若宮八幡の情景を「中音」で美しく語ったあと、院宣受け取りの役を決める場面を「拾」の「下音」「上音」で劇的に語り、院宣授与に際して中原泰定が受取人に名を尋ねる場面を「強下」、受取人の三浦介義澄の名乗りを「強聲」で劇的に、頼朝館での饗宴では、その場に多数の御家人が居並ぶさまを「拾」で、饗宴の翌日、頼朝が泰定に褒美を与える場面を「甲聲」⇒「口説」で劇的に語って、「口説」や「素声」での語りとの違いを際立たせている。最後に都に上る泰定一行をもてなすため、街道の宿々に十石ずつ米を置いた頼朝の心遣いを「拾」で劇的に語って終わる。 <参考> 頼朝を征夷将軍任ずる話なのに、その院宣が出てこないという不思議な話。『平家物語』の中で最も古態を示す「延慶本平家」や、「源平盛衰記」では「院宣」そのものが冒頭に出てくるが、語りの譜本ある「覚一本平家」や「百二十句本平家」では省略されている。
史実ではこの時には頼朝を征夷将軍に任じてはおらず、院の使いを通じて与えられたのは、「寿永二年十月宣旨」と呼ばれる院宣で、内容は、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認したもの。北陸道と奥州以外の全国における治安維持権を頼朝に与えたことは、事実上の畿内を占拠する義仲追討令となっている。 「延慶本平家」では「水島合戦」に続く「室山合戦」の項に、寿永2年11月の話として、「寿永二年十月宣旨」とおぼしき宣旨が掲載されている。
史実では朝廷が頼朝を征夷将軍に任じたのは、9年後の建久3年(1193)で後白河院没後の話。 「平家物語」が成立した時代には、鎌倉武士政権の正統性はそのトップが朝廷から征夷大将軍に任じられたことと認識されていたが、「平家物語」はこの前で終わっているので入れることができず、史実としては鎌倉武士政権を朝廷が認めた「寿永二年十月宣旨」を与えたところに、「征夷将軍院宣」を与えた話として挿入したため、「寿永二年十月宣旨」が弾き出されたものか。 「玉葉」や「百錬抄」などの公家の日記によれば、都を占領した木曽義仲勢が京中で乱暴を働き、狼藉停止の命令を院が発しても義仲は取り上げなかった。業を煮やした後白河院は院庁の役人である中原康定を鎌倉に遣わして頼朝と交渉する一方で、平家追討を名目に義仲を京から出して、その間に康定が京と鎌倉の間を何度か往復し、双方の要求を取り持って10月14日に院宣を与えることとなったことがわかる。「平家物語」の「征夷将軍院宣」の項は、何度か執り行われた交渉の様と院使が見聞きしたことを交えて、「征夷将軍院宣」を頼朝に与えた話を作り上げたもの。ただしこの段に示された頼朝の様子、「顔大きいが、背は低くい。容貌優美にして言葉遣いにはなまりはない」は、院使の実見によるものか。 当初は「延慶本平家」のように冒頭に院宣そのものが入っていたが、室町時代の語りの譜本である「覚一本平家」と「百二十句本平家」ではなぜか院宣が省略され、さらに「室山合戦」に挿入されていた「寿永二年十月宣旨」も省略されている。
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