維盛都落

平家物語topへ 琵琶topへ

<主な登場人物>

◆平維盛1157(保元2?−1184.5.10(元暦1.3.28?)。平重盛の長男。清盛の嫡孫。小松中将と称す。右中将・蔵人頭を歴任。舞の優美さで世人の称賛を得る。しかし母は身分の低い者であったので、小松家の嫡男は弟の資盛(母は「少輔内侍」と呼ばれた藤原親盛の娘)。妻が平家討滅を狙って死罪となった大納言藤原成親の娘であったことと合わせ、平家一門の中では傍系に。治承4(1180),源頼朝追討の総大将として臨んだ富士川合戦で敗走。寿永2(1183)年礪波山の戦では源義仲に敗れ平家都落ちの因を作る。文治1(1185)年屋島の陣を脱し、高野山で出家。滝口入道立ち会いのもとに那智で入水と『平家物語』は伝えるが真偽のほどは不明。

◆維盛正室・大納言局1160(永暦1?)−没年不明。後白河側近の藤原成親の次女。母は藤原俊成の長女・京極局。建春門院平滋子の女房として出仕し、新大納言と称される。女院の御所近くに局を賜り、手厚く遇されていたという。『平家物語』によれば、13歳で15歳の平維盛の正室となり、承安3年(1173年)に六代を、2年後には女子を産む。維盛の入水後は母方の一門の庇護で子らと暮らすが、平家一門滅亡の後、残党狩りで息子を捕らわれ苦境に。息子六代が文覚上人に救われた後、後白河院とも関係が深く、源頼朝との関係により頼朝の意向を朝廷に伝える役となった吉田経房と再婚。

<物語のあらすじ>

 寿永2年725日、天皇と建礼門院の載る輿を中心に平家一門はあわただしく西国に。しかし途中まで同道した摂政殿は七条大宮から引き返して知足院へと引きこもってしまった(「主上都落」)。この状況の中で小松三位中将維盛は妻子を平安京に残して主上行幸に供奉しようとしたが、妻子に泣きつかれ遅参する。

<聞きどころ>

 「維盛都落」は平家の行く末に暗雲が漂っていることを察知した小松三位中将維盛が都に残していく家族への尽きせぬ想いを歌い上げた句。維盛の言葉は「指声」「折声」を多用して印象深く語り、残される奥方と幼き二人の有様は「中音」「三重」で美しく歌い上げる。最後にすがりつく幼き二人を振り切って維盛が出立するや、平家が都の一族の館を焼き払うさまを「下音」「上音」の「拾」の節でさらっと語り終える。

<参考>

平家物語』は法皇や摂政に逃げられたことの意味を語らない。ここを理解しないと維盛が都落ちに際して妻子を平安京に残した意味がわからない。平家政権の正統性を保証していたのは、平家の血を引いた高倉院の存在。高倉院が王家一の人として天下に号令している限りは、平家は権力をふるうことができた。だが彼が死去すると、まだ6歳に過ぎない帝(安徳)には統治する権威を有しないので、王家一の人の地位に平家の政敵である後白河法皇に復帰してもらい、彼の承認を得て平家は権力を行使できた。その法皇が平家都落ちに同道せず逃げたということは、法皇が平家政権を見捨てたということ。そして摂政基通が逃げたのも、法皇が平家政権を見捨てたことに気がついたから。同道すれば自らもまた朝敵となり没落する。摂政は帝が幼い時に、その意思を代行する権限を有する。その摂政はこの時代藤原氏の中の摂政関白を継承する家の家であったので、それ以外の家の者が付くことができなかった。こうして法皇と摂政に逃げられたことで、平家政権は正統性を失い、全国を統治する権限を失ったのだ。
 平家の都落ちの後、後白河法皇は、入京した源氏軍を後ろ盾にして政権を握り、安徳を廃位して、他の故高倉院の皇子の一人を皇位につけて院政を敷くだろう(資料2参照)。当然逆らう平家は朝敵とされる。

 平家は政治的には死んだ。あとは軍事的勝利でそれを取り戻すしかない。
 だが戦に勝てるかどうかは時の運。諸国の兵を動員する正当性を失った平家政権の未来は極めて暗い。
 これが、維盛が都落ちに際して、妻子を平安京に残した最大の理由だろう。
 だがもう一つ考えられる。

 妻子を平安京に残せば、妻子が源氏方に捕らわれ人質になりかねない。
 この危険を回避できると維盛は考えたのだろう。

 この理由は、維盛の妻は後白河法皇の腹心だった故成親卿の娘。そして妻の母方の家は、たびたび勅撰和歌集の編纂を命じられた家で法皇とも近い。さらに維盛の父・重盛は法皇の腹心の一人でもあった。要するに維盛の小松家は平家一門の中にあっても、政敵となった後白河法皇に近い家だった。これは維盛の大叔父である頼盛の家と同様だ。
 だから妻子を平安京に置いても、源氏方の人質となることはない。
 だが平家の未来に暗雲が漂っており、近い将来に朝敵とされ攻め滅ぼされかねないと考えるのであれば、こうした後白河との関係を頼みにして、大叔父頼盛のように、維盛自身も、そして小松家全体としても平家の都落ちに従わずに平安京に残り、引き続き後白河に仕え、源氏とも共存する可能性はなかったのか。頼朝を助けたのがその母の池禅尼という関係があった頼盛は、見事にこの方法で生き延びた。
 だが源氏との密接な関係がなく、度重なる源氏討伐軍の大将軍であった維盛には、こうして生き延びる可能性はあったのか?
 このあたりの煩悶の結末が、屋嶋合戦敗北後に戦線離脱し熊野で入水ということになるのか。

 しかし維盛には、『源平盛衰記』に記された藤原長方の日記『禅中記』の異説によれば、維盛は入水ではなく熊野に参詣したのち都に上って後白河法皇に助命を乞い、法皇が頼朝と交渉し頼朝が維盛の関東下向を望んだため鎌倉へ下向する途中の相模国の湯下宿で病没したという伝承も存在する。

さらには九条兼実の『玉葉』の寿永4年2月9日の条には「伝聞、平氏帰住讃岐八島(中略)又維盛卿三十艘許相率指南海去了云々」とあり、屋嶋敗戦の後に30艘ほどの軍船を率いて戦線離脱して南海に去ったとの説も紹介している。

平家物語は朝敵となった平家の悲劇を小松家に全て負わせ、この設定には熊野での入水が最も相応しいとして、重盛の病死−維盛の入水―六代の刑死の一連の流れを採用したか?