少将都還

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▼主な登場人物

 

●藤原成経:11561202 後白河院近臣である藤原成親の長男。15歳で叙爵・丹波守任官以後順調に昇進し、18歳で従四位下となり丹波少将と称した。父成親は平氏とも縁が深く、その妹は清盛の嫡男内大臣重盛の正妻、そして重盛の息子の維盛・清経の妻は成親の娘。そして成経自身の正妻は、清盛の弟で平家軍総帥である教盛の娘と、後白河院・平家双方と深い縁で結ばれていた。1179(治承3)年帰洛後は、順次官を戻し、平家滅亡後の1189(文治5)年に蔵人頭、翌年参議と出世し、1192(建久3)年の後白河院崩御までに、従三位・近江権守へと上った。

●平康頼:生没年不詳 明法道(法律)の家柄である中原氏に生まれる。十代で平保盛(平清盛の甥・頼盛の長男)の家人となり、越前国守となった主人と共に越前に赴任したころ、平氏を称することを許されたか。尾張守となった主人に代り目代として赴任。ここで源義朝の荒れた墓を修理し供養の御堂を保護したことで名声を得、後白河法皇の近習となる。以後北面―検非違使・左衛門大尉となり平判官と称した。鬼界が島へ赴く途次出家。1179(治承3)年帰洛後は、東山の双林寺に籠居して、説話集「宝物集」を編んだり、歌人として世に知られた。平家滅亡後には頼朝から皇室領の阿波国麻殖保の保司に任ぜられた。

 

<物語のあらすじ>

 

治承3年正月下旬、丹波少将と康頼入道は肥前嘉瀬庄を立って、都へ急いだが、途中210日頃に備前児島に着き、故大納言成親の住みかを尋ねた。竹の柱、古びた障子などに書かれた筆の跡を見つけて読んでは泣き、壁に「三尊来迎便りあり。九品往生無疑」と書かれたのを見つけ、欣求浄土の望みも持たれていたかと感心した。その墓の跡を尋ねると、わずかに土の高まりがあるのみ。この墓に向かって少将は、「お亡くなりになったと聞いても遠き島におる身なれば来ることもできず、二とせを送ってようやく参りました」と語って泣いた。その夜は二人して念仏行道し、翌朝新しく壇を築き柵を設けて扉もつけ、前に仮屋を建てて七日七夜念仏した。結願の日には大きな卒塔婆を立てた。316日には鳥羽に着き、故大納言の山荘・州浜殿を尋ねてみれば、家はすでに荒れ果てていた。それでも彼処に生前の面影を見ることができ、二人は夜が更けるまで州浜殿に滞在した。都よりの迎えの車に同乗して七条河原まで行き、そこで二人は別れた。少将は舅平宰相殿の六波羅の宿所に参り、少将の姿を一目見た人々は皆、涙に暮れた。少将はその後もとのごとく院に召され、宰相中将(参議・近衛中将)にまで上がられた。康頼入道は、東山双林寺にわが山荘があるのでそこに落ち着き、そこにて宝物集という物語を書いたと伝えられている。

 

 

<聞きどころ>

 

「少将都還」は人の悲しき思いを切々と語る句。

 冒頭鬼界が島を発って備前児島に着き故大納言成親の住んだ有木の別所を訪ね荒れ果てた粗末な家に残る大納言の筆跡に出会うさまを「口説」で淡々と語り、一転「中音」に節を替えて、壁に欣求浄土を願う句が書かれていることを発見した場面を、美しく歌い上げる。

 その後再び「口説」に戻り、故大納言の墓らしきかすかな土饅頭を見つけた場面を語り、その墓に少将成経が語りかけた言葉を、最初は「折声」で切々と、続いて「口説」⇒「初重」に節を替え、さらには「中音」⇒「初重」の美しい調べに替えて語り続ける。

 そして「口説」に節を転じて二人して墓を作り直し仮屋を立てて七日七夜の祈念をしたことを語り、「折声」⇒「初重」⇒「三重」と印象的かつ美しい調べを駆使して亡き人への想いを切々と語り上げ、最後は「初重」⇒「中音」に移って都に戻るため亡き人に別れを告げて最初の段を終える。

 二段目は鳥羽での場面。故大納言の山荘・州浜殿の荒れたる様のなかに亡き人の面影を探す少将の心を、「口説」⇒「初重」⇒「口説」と次々と節を替えて淡々と語り、途中懐かしき歌を「下歌」で呟きつつ、「中音」⇒「初重」⇒「折声」⇒「指声」⇒「中音」⇒「初重」と、次々と美しい調べを駆使して、亡き人の面影を追う少将の心を切々と語り上げる。

 最後の場面は鳥羽を離れ都に戻ってから。

 別れがたい二人は都から差し遣わされた迎えの車に同乗して向かう場面を「口説lでさらっと語った後、七条河原についてそれぞれの道を行く際に「三重」にて朗々と、その別れがたい思いを歌い上げて、別れの場面を終える。

 その後は、帰洛後の二人の様子をそれぞれに語って、この句を終える。

 少将が舅平宰相の宿所での家族との再会の場面は、「口説」で語り始めて、「峯声」⇒「指声」⇒「素声」と特徴的な節を駆使して、再会した人々の言い難い思いを述べる。

 康頼入道のその後は、途中「上歌」にてその想いを歌で表現しつつ、「口説」⇒「初重」にて淡々と東山双林寺の山荘に籠って宝物集を書き上げるまでを語り終える。

 

 

<参考>

 「少将都還」の句で語られたことは、おそらくあったであろう事実を記したものと思われる。

https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/14613595から転載

 

 岡山県岡山市北区吉備津の山中に、大納言藤原成親の墓と伝えられるものが現存する。その地は「平家物語」が伝える吉備の中山の山中であり、有木の別所と言われる場所だ。

 現在では山中に写真にあるように立派な石積みが組まれた段の上に、玉垣で囲まれた中に、次の写真のように、形がわからないほど角が削れてしまった五輪塔の一部が収められている。明治になって、墓所は荒れ果て墓と伝えられる五輪塔の一部が残されているのみであったが、ある宗教法人によって写真のように修復され、横に9段の供養塔が建てられた。明治43年のことだという。

https://www.aflo.com/ja/contents/30325177から転載

 

 この「少将都還」で語られた内容が史実であるかどうかを確かめる史料は存在しない。

 だが、鬼界が島から都に戻るには、船で九州を経由して瀬戸内海を経て戻るしかないので、その途中の備前の港の側に大納言の墓所があれば、これを訪れて供養するのは当たり前のことだろう。

 丹波少将が父の旧跡と墓を尋ねた場面はとても具体的で、大事な人を亡くした悲しみが切々と伝わってくる名句である。


 しかしここにも物語作者の創作があるように思える。
 大納言成親が住んでいたところは粗末な家で半ば朽ちかけていたように描かれ、彼の墓は段を築くこともなく墓域を区切る柵もない粗末なもので、ただの土饅頭であったかのように描かれている。
 だがいくら流人とはいえ、正二位の高位を授けられた貴人である。そして彼が流された有木の別所とは国府に近い所で、別所とはなんらかの役所が置かれた場所でもある。

 高位の流人を国府が預かった場合、わずか二年で朽ちかけてしまうような粗末な家に住まわせるだろうか。通常はそれなりの役所の一角をしめる建物に幽閉する。
 また流人が亡くなって葬る際も、土饅頭とは平民の扱いであって、ここも普通ではない。やはり「平家物語」が記したように、墓所に段を築きぐるりと柵を巡らすのが通常である。

 この大納言成親の旧居と墓のありさまは、平清盛が彼を粗末に扱って殺したとの、物語の設定に従って記されたものに違いない。

 

 また鳥羽に大納言成親の別荘があったかどうか。たしかめるすべはない。「平家物語」では「大納言流罪」の句に「わが山荘」として初出し、この「少将都還」の岩波文庫の注では「鳥羽の田中 にあった」とされる。出典は「平家物語」の異本である「源平盛衰記」の「大納言流罪」の段であり、確実な史料ではない。

 この鳥羽には、白河院の時代から離宮が造営され、鳥羽上皇の代にはほぼ完成し、14世紀ごろまでは代々院の御所として使われていた。敷地は約百八十町(180万平方メートル)。鳥羽殿を構成する南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所には,それぞれ御堂が附属し,広大な池を持つ庭園が築かれた。 

 

鳥羽殿復元図:平安京探偵団 https://homepage-nifty.com/heiankyo/heike/heike42.html より転載。

 このなかの田中殿は鳥羽上皇時代に築かれ、金剛心院という御堂が付属として建てられ、その東に同じく鳥羽上皇時代に建てられた東殿には、御堂として安楽寿院が建てられ、ここに建てられた三重塔(本御堂)は、後に鳥羽上皇の墓所になったところだ。

 鳥羽離宮造営は院近臣である受領層によってなされ、院近臣などの貴族には、鳥羽殿周辺に宅地が与えられたというから、父家成とともに鳥羽上皇の側近として立身した成親が、鳥羽上皇の離宮の一つ田中殿の側に宅地を与えられたとしても不思議はない。

 だがこの丹波少将が父の別荘である州浜殿を尋ねる場面にも物語作者の虚構が挿入されていると思える。
 なぜなら数年使わないうちに別荘は半ば朽ち果てつつあるように、物語は記している。

 しかし大納言成親はこの官位は剥奪されたとはいえ、正二位の位はそのままであるから、位階に従って給付される所領はそのままであったと思われる。
 したがって大納言の未亡人、丹波少将成経の母にもまた、この所領からの税が支給され続けたと思われる。
 

 大納言成親、そして息子の丹波少将成経はともに其の官は剥奪されているが、公式には流罪とはなっておらず、かれらの流罪は平清盛の私的制裁である。だからこそ鬼界が島にいた丹波少将と康頼入道が都に戻されるにあたっては、清盛の赦免状が下された。朝廷による太政官の赦免状ではなかったのだ。

 したがって彼等は時期を見て都に戻され、やがて元の官にも服される予定であった。だから位階はそのままで、位階に伴う給付として領地はそのまま継続した。

 大納言成親の死は「平家物語」では清盛による謀殺のように描かれてはいるが、それも一説にはとあり、貴族の日記では病死とされている。慣れない地での暮らしで体調を崩して死去したというのが事実だろう。

 そして成親には成経以外にも、他家に養子に行っているとはいえ息子たちもおり、平家一族を始め有力貴族に娘を入れていた。

 大納言の未亡人や子どもたちの誰かが指揮して、大納言の領地から上がる税の一部を使ってその別荘を維持し管理人を置いていたというのが事実だろう。

 鳥羽の州浜殿が半ば朽ちかけていたというのも、読者の哀れを誘う作者の仕掛けと思われる。

 

 「少将都還」の句は、作者の創作も一部入っているが、当時実際にあったであろうことを描いた句と言える。