頼豪
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▼主な登場人物
●頼豪:1004−1084 天台宗の僧。藤原有家の子。園城寺の心譽権大僧正について出家。1037年(長暦1)入壇伝法。祈祷に効験をうたわれ、白河天皇の皇子誕生を祈り効があった。1074年(承保1)天皇の勧めで、恩賞に園城寺戒壇建立を請うが、延暦寺の強い反対にあって聴許されず、頼豪は寺に籠り怨嗟し、天皇の慰諭にも応ぜず、断食して果てた。せっかく誕生の皇子も病死し、世に頼豪が数千の鼠に化して延暦寺の聖教を食い尽くし、山徒が鼠祠をつくってこれをおさめたと言い伝えられている。 ●白河天皇:1053−1129 後三条天皇の第一皇子。母は藤原能信の娘茂子。名は貞仁親王。1072年(延久4)12月、父から譲位されて即位。この際父の意向で異母弟実仁親王が東宮となり、実仁親王にもしものことがあったときには同母弟の輔仁親王を立てるよう言われる(父は翌年薨去)。1075年(承保2)年12月中宮藤原賢子との間に第一皇子敦文親王が誕生するが、1077年(承保4)9月疱瘡にかかり死去。1079年(承歴3)7月には賢子との間に第二皇子善仁親王が誕生し、1085年(応徳2)実仁親王薨去に際しては父の遺言に反して、異母弟輔仁親王ではなく、実子の善仁親王を8歳にして、1086年(応徳3)11月26日に立太子と同時に譲位し(堀河天皇)、院政を行う。また堀河天皇が1107年(嘉承7)7月29歳で崩御すると、その第一皇子宗仁親王を5歳で即位させ(鳥羽天皇)、鳥羽天皇が、1123年(保安4)1月に第一皇子の顕仁親王に譲位(崇徳天皇)した後も院政を続け、1129年(大治4)7月に76歳で崩御するまで親政・院政合わせて57年もの間、治天の君として天下に君臨した。その間の1096年(永長元)年8月に出家。親政、院政期を通じて、1075年(承保2)、99年(康和1)、1107年(嘉承2)、27年(大治2)などに荘園整理令を発し、父の政治路線を引き継いだ。また、叙位、任官について独裁的な発言力をもち、受領を優遇した。院の武力として北面の武士を創設し、新興の源・平氏をこれにあてた。長い間絶対的な権力を握ったが、「天下三不如意」(賀茂川の水、双六の賽、山法師)の話が生まれるほど。うち続く天変地異や叡山と園城寺との争いなどに悩んだ。 ●良真大僧正:1022−1096 光孝天皇の末裔で讃岐守源是輔の子。比叡山の慶命、明快にまなび、長宴より灌頂をうける。1081年(永保元)天台座主。大僧正。1093年(寛治7)山門内部の争いで座主を辞し、京都にうつった。1096年(嘉保3)5月13日死去。75歳。号は円融房。
<物語のあらすじ>
白河天皇御在位の時、帝は中宮源兼子の腹に皇子誕生を願って、有験の僧との聞こえの高い三井寺の頼豪阿闍梨に「この后の腹に皇子御誕生を祈念せよ。成就せば懸賞は想いのまま」と仰せになった。頼豪阿闍梨が百日肝胆を砕いて祈られたところ后は懐妊され、承保元年12月16日に皇子が誕生した。帝が頼豪阿闍梨を召して所望を尋ねると「三井寺に戒壇建立」と。帝は「皇子誕生を記念したのは海内無為を願っての事。この願いを叶えては山門が怒り山門寺門の合戦となり天台の仏法が滅びてしまう」として阿闍梨の願いを叶えなかった。三井寺に戻った阿闍梨は干死にせんとし、噂を聞いて帝が差し向けた使いに対して「綸言汗の如し。我が所望が叶わないのなら、我が祈りだした皇子なれば取って魔道へ行かん」と持仏堂に籠って、やがて干死にした。その後皇子も病にかかり、承歴元年8月6日、4歳で亡くなられた。白河天皇第一皇子敦文親王これなり。嘆き悲しんだ帝は、今度は山門の円融坊の僧都に皇子誕生を懇願したところ、円融坊は「いつも我山の力にてこの種の願いは成就するものだ。お安いことだ」として、100日肝胆を砕いて祈念すると、中宮はまたもご懐妊あり、承歴3年7月8日、無事皇子誕生となった。堀河天皇はこれなり。
<聞きどころ>
「頼豪」は短い句だが、さらっと語ったように見えて、その後の悲劇を予感させるようなおどろおどろしい語りである。 冒頭白河天皇が皇子誕生を願って三井寺の頼豪阿闍梨に祈祷を頼み、阿闍梨の祈祷の甲斐あって中宮御懐妊なったことまでを「口説」でさらっと語り、御産平安皇子誕生を「強下」でおどろおどろしく語って後の悲劇を暗示する。 その後「素声」に節を一転させ、頼豪が三井寺に戒壇を開く願いを申したところ、それでは山門が許さず山門寺門の合戦になると帝が阿闍梨の願いを断る場面をさらっと語る。 そして「口説」に移って、三井寺に戻った頼豪が怒って干死にて死なんとし、宥めるための勅使が向かう場面をさらっと語って、頼豪が持仏堂に籠る場面を「強下」でおどろおどろしく語りだし、高音の「強声」にて「綸言汗の如し」との頼豪の叫びを強調し、「我が祈り出したる皇子なれば共に魔道へ行かん」との頼豪の恐ろしい言葉と、それを聞いて悲歎に暮れる帝の様子は「口説」でさらっと語った後、「中音」⇒「初重」の美しい調べに移って皇子の死を美しく語り終える。 次に帝が一転して山門の円融坊の僧都に皇子誕生を祈念させる場面に移り、円融坊の僧都の祈念によって無事堀河の帝が誕生した様を「口説」の節でさらっと語り終える。 最後に「怨霊は昔も今も恐ろし」「今度の時も大赦行われても俊寛僧都一人残されたことは心に懸かる」と「口説」⇒「強下」でさらっと語った後、まるで後の悲劇を予感させるかのように「拾」の節にて、中宮平徳子所生の皇子がその年の12月8日に生後一か月で東宮に立ったことをさっと語って、最後に「初重」に移って年が変わって治承3年となったと語って、まるで新年には不吉なことが起こることを予言するかのように終える。
<参考>
この句で描かれた、白河天皇の第一皇子敦文親王と第二皇子善仁親王の誕生には、前者は園城寺の頼豪阿闍梨に、後者は叡山の良真大僧正に、皇子誕生の祈祷を依頼して生まれたという話は、どちらも「平家物語」が伝える伝承である。 白河天皇が皇子誕生を願って祈祷の効験があるとされる高僧に祈願を願った可能性はあるが、それで皇子が誕生するわけはなく、また祈祷成就の恩賞は望みのままと言っておきながら、頼豪がそれを園城寺に戒壇設立としたところ天皇が約束を違えたので、頼豪が恨んで皇子を伴って魔道に落ちたというのは、頼豪没年が敦文親王没年の7年後 であることに明白で、まったくの伝承にすぎない。 このような不思議な話を「平家物語」作者がここに挿入した意図は、前の句である「大塔建立」の箇所でも説明したが、高倉天皇と娘の徳子との間に皇子誕生を願った清盛夫妻が厳島明神に祈願して生まれた皇子言仁親王(後の安徳)が、やがて壇の浦の海に沈むという悲劇を生んだそもそもの理由を、しばしば皇子誕生を祈願して成就させてきた叡山の高僧に祈祷を願うのではなく安芸厳島明神に祈願したことに由来すると、悲劇を予言しかつその淵源を「清盛の横暴」に帰するためのものである。 また、そのように叡山の高僧以外に皇子誕生を祈祷させて失敗した例として、夭折した白河天皇第一皇子の敦文親王の例を持ち出したのは、この白河天皇が、当時権力を争った二人、後白河法皇からすれば曾祖父にあたり、前太政大臣平清盛からすれば実父と見られたからだ。
そして、実は白河天皇と後白河天皇とは、皇室における立場が同じであった。 白河天皇は本来皇位を継承する立場にはなく、父後三条天皇の跡を継ぐのは、後三条天皇と同じく三条天皇の血筋を母方で継ぐ第二皇子実仁親王もしくは第三皇子輔仁親王であり、白河天皇は彼らが成人するまでの一時的な仮の天皇に過ぎないという不安定な立場にあった。だからこそ自身の立場を安定させるために白河天皇は一刻も早く皇子が欲しかったのだ。 また、後白河天皇自身も皇位についたのは、近衛天皇の跡継ぎとして鳥羽上皇夫妻が定めたのが、後白河の第一皇子守仁親王(のちの二条)であったがまだ子供であったので、守仁が成人して皇位を継ぐまでの一時的な仮の天皇に過ぎないという、同じく不安定な立場にあった。だからこそ後白河は、父鳥羽の息がかかった第一皇子守仁や第二皇子以仁以外に、自分の意のままに動く皇子を儲けようとし、即位後に后とした平滋子との間に第六皇子憲仁が生まれると、即位した守仁(二条)に代わって憲仁を皇位につけようと動き、二条が幼い子を残して若くして薨去したことで、夢を実現した。 白河と後白河とは皇位継承において立場が同じであったということ。そして二人とも自分の血統が皇統を継げるように、生涯をかけて政治闘争に明け暮れたという共通点が、「平家物語」作者がここで、白河天皇の場合を挿入した背景にはあったものと思われる。 また言仁親王誕生のまさにその時は、後白河法皇と息子の高倉天皇との間で激しい政治闘争が起きていたその時であった。 それゆえ、高倉自身は彼を支える平清盛の娘との間に皇子誕生を望んでおり、対立する後白河法皇にとっては、高倉の力を削ぐためには、平徳子以外の高倉の后との間に皇子が誕生することこそが大事であった。 実際このとき高倉には、平徳子以外に、坊門信隆の娘の藤原殖子や近衛基実の娘の近衛通子など多数の后がおり、事実として言仁誕生の翌年1179年(治承3)藤原殖子が第二皇子守貞親王を生み、同じ年に平範子が第三皇子惟明親王を生み、さらに翌年1180年(治承4)には再び藤原殖子が、第四皇子尊成親王を生みというように、次々と平家の血を受け継がない皇子が誕生しているわけだから、高倉のあとを継ぐ皇子を誰が生むかとこと自体が、皇位継承とそれをめぐる権力闘争の焦眉の課題となっていたのだ。 この不安定な政治状況の最中に、言仁親王(のちの安徳)は生まれたのであり、このことから生まれる将来の悲劇が、「御産」「公卿揃」「大塔建立」「頼豪」と四つの句で暗示されていたのだ。
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