大塔建立

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▼主な登場人物

 

◆平清盛:1118-1181 平忠盛の子、母は不明。院近臣の息子として出世し、大治4(1129)年、12歳で従五位下、左兵衛佐となったのを最初として、保延31137)年、20歳で肥後守を兼任。久安21146)年、29歳で、肥後守の替えとして安芸守に補任され、保元元(1156)年までこの任に着く。この年の7月に播磨守に転任し、保元の乱後の保元3(1158)年8月には大宰大弐、平治の乱後の永暦元(1160)年には、43歳にして、大宰大弐のまま参議となり、さらに右衛門督まで兼任し、12月に大宰大弐を辞任した後には、翌年検非違使の別当・近江権守を兼ね、この年の内には権中納言にまで出世し、着々と公卿トップの座に向かって昇任。永万2(1166)年には49歳にして、正二位内大臣となり、翌年仁安2(1167)年2月には、従一位太政大臣と、位人臣を極めた(ただし5月辞任)。

<物語のあらすじ>

 

御修法の結願に褒賞が行われ、やがて中宮は六波羅より内裏(五条大納言の東洞院殿)へ移られた。この娘を后に立てたならば、皇子誕生あるべしとて、入道相国夫妻は、あがめ奉る安芸の厳島に月詣でして祈ったので、やがて中宮ご懐妊・皇子誕生となったことこそめでたけれ。そもそも平家が安芸の厳島を信仰したはじめは、清盛が安芸国司だった折に、安芸国の税をもって高野山の大塔を修理せよとの命によって、六か年を要して竣工した。清盛が高野に上って大塔を拝み、奥の院に参った折、眉毛の白い老僧が現れ、「安芸の厳島と越前の気比とは共に金剛界・胎蔵界の如来の垂迹であるが、気比は栄えて居るが厳島は無きが如くに荒れ果てている。この際さらに奏聞して厳島を修理させたまえ。そうしてくれれば、官加階は並ぶべき人もなくなるであろう」と言って立ち去った。跡を付けさせてみると三町ばかり後にかき消えてしまった。これは弘法大師であろうと清盛は尊く想い、金堂に曼荼羅を書かせて奉納した。都に戻って院参して申し上げると鳥羽上皇も賛同し清盛の安芸守の任を延長したので、厳島を修理した。鳥居を建て替え、社を作り替え、180間の回廊造られた。その後厳島に参った清盛が通夜する折に、夢に御宝殿より童子がい出来て、「これは大明神のお使いなり、汝この剣を持って、一天四海を鎮め朝家の御守りたるべし」とご託宣し、柄に銀の帯を巻き付けた小長刀を賜った。夢から覚めると枕元にその小長刀があり、大明神のご託宣として「かの老僧を持って言わしめたことは、悪行があったならば子孫にまでは及ばぬことだ」とあった。

 

 

<聞きどころ>

 

「大塔建立」は、冒頭、「口説」で褒賞の次第と中宮内裏帰参、そして皇子誕生の陰には入道相国夫妻が厚く厳島を信仰したことがあったと語った後、一転「素声」⇒「口説」に移って、清盛が安芸守として高野山大塔を修理し、修理なった後に高野に上った折に、どこからともなく白髪の老僧が現れたことを淡々と語り、その僧のご託宣の言を「折声」⇒「口説」で印象的に語った後、一転「中音」⇒「初重」⇒「初重中音」の美しい節に移って、僧のいる所から芳香が漂い、人とも思えないので跡を付けさせたところ急に姿を消し、弘法大師ではと感激した清盛が金堂に曼荼羅を寄進し、自らの血を持って描いたことを美しく語り終える。その後「口説」に移って清盛が京に戻り厳島修理の許可を得て立派に立て直し、修造なった後に参詣し通夜した折の夢に、宝殿から天童出でて清盛に剣を与え朝家の固めたるべしとのご託宣を残したことを淡々と語り、一転「強下げ」⇒「折声」⇒「初重」に移して夢覚めた後も枕元にこの小長刀があり、大明神のご託宣として、悪行あれば官加階人臣を極める褒賞は子孫には適用されない旨を、おどろおどろしく語って終える。

 

<参考>

 なぜここに「親王誕生は厳島明神に入道相国夫妻が願を立てたから」として、平家の厳島信仰の由来を述べる必要があったのだろうか。

 これは清盛の前に現れた弘法大師の化身たる老僧の言葉、「厳島修造をなせば官加階は他の人に並びないものとなる」という予言について、厳島修造なって後に清盛が厳島に通夜した折の厳島明神の言葉が、後に予言となって実現するとの暗示を示すためのものであったと思われる。
 その言葉とは、「悪行あれば官加階は他の人に並びないものとなるとのお告げは子孫までは及ばない」というもの。清盛の悪行によって平家が滅亡することを暗示したものだ。

 そしてまたこの句の次に、白河天皇の願によって皇子誕生を祈願し見事果たしたのに、三井寺に戒壇設置をとの願いを無視された頼豪阿闍梨が、「自らが祈り出だした皇子だからともに魔道に落ちん」といって自死し、やがて皇子も道ずれのように病死した例をあげた「頼豪」の句とも、この厳島明神のご託宣は一体のものと考えるべきだろう。

 そのヒントは、頼豪の死=皇子の死に直面した白河天皇が、今度は比叡山の円融坊の僧都に皇子誕生の祈祷を依頼した時の円融坊の言葉にある。

 それは「いつも我山の力にてかようの御願は成就する(=他に祈祷をさせたのが間違い)」との言葉だ。「平家物語」作者は、比叡山延暦寺・日枝大社に祈祷を依頼せず、厳島明神などに皇子誕生を依頼したということは、厳島明神のご託宣どおりに悪行によって平家は滅びるとともに、厳島明神が祈りだした皇子(安徳天皇)もまた、この明神の力によって海に引きずり込まれて死ぬという、後に実際にあった不吉な出来事を、ここで暗示することに、その目的はあったものと思われる。

 ただし、平氏が高野の根本中堂を修造したことは事実だ。それは清盛の父忠盛の時代に始まり、清盛が安芸の守に就任して10年を経て、播磨守に転任するその年に完成したことは史実と確認できる。

 だが高野大塔修造をなした清盛が安芸の守の任期を通常の四年からさらに四年延ばされ、その間に、今度は安芸厳島明神を修造したというのは、「平家物語」の脚色である。

 実際には清盛は高野大塔修造がなったその年に播磨守に転任している。

 そして清盛が安芸厳島明神の修造を完成させたのは、平家一族が法華経を書写して厳島明神に奉納した長寛2(1164)年ごろと考えられているので、高野大塔修造からは8年後のことである。

 「平家物語」は、高野大塔修造完成の時に弘法大師のご託宣により安芸厳島修造を清盛が祈願し、安芸厳島の修造を成し遂げたという筋書きを立てたため、以上のような史実とは異なる年次を設定したものと思われる。