公卿揃
25.7.21改定
<物語のあらすじ> 親王の乳母には平時忠の妻・師佐殿が選ばれた。しかしこのお産にはいくつも異例のことがあった。まず法王自ら怨霊退散の加持祈祷を行ったこと。さらに皇子誕生の際には御殿の棟から甑(こしき)を南に落とす手はずになっていたのに間違って北に落とし、再度やり直したこと。さらに難産に直面して途方に暮れた入道相国のありさま(と一転して皇子誕生と聞いて嬉し泣きし、御所に戻る法王に砂金千両・富士の真綿二千両も進上する)。立派な振る舞いをしたのは小松の内大臣重盛で、不本意であったのは、妻を亡くしたばかりで大納言も右大将も辞していたために乳母にもなれなかった平宗盛。さらに不思議なことには親王の穢れを払うために宮中に呼ばれた陰陽師の一人が、雑踏の中を通ろうとして途中で靴を踏み抜かれ、さらに冠まで落として立ち往生したことがあった。だが皇子誕生を祝って六波羅を関白・太政大臣以下の公卿殿上人がこぞって駆けつけた(その名前を列挙)。 <聞きどころ> この句の中心は後半の産所六波羅に参じた朝廷の主な人々の名を列挙するところだ。参じた人々の名を読み上げることで、如何に皇子誕生と高倉―清盛政権が多くの公卿に支持されていたかを示す目的の句であるからだ。
冒頭で「口説」⇒「強下げ」⇒「素声」⇒「口説」と比較的淡々とした節を使用して、乳母には大納言時忠の妻が任じられたことや、御産に際して異例のことがあったことを列挙し、この前置きをさらっと語り終える。 <参考> 後白河王統を引き継ぐ高倉に第一皇子が生まれた場面。これで後白河―高倉―言仁(安徳)と続く直系皇統が成立し、高倉・言仁(安徳)は平氏の血を引くこともあって、この皇統を、武家最大の勢力である平氏と関白・太政大臣以下の公卿殿上人がこぞって支える構造が生まれた。政局の安定した様が「御産」と「公卿揃」で描かれている。だがこの背後にはきな臭い流れも存在した。すでに成人した高倉と後白河との間には意見の齟齬が生じて、それが政治的対立に至っていた。しかも後白河と平氏を結びつけた絆である後白河后平滋子(建春門院)はすでに安元2年7月8日(1176年8月14日)に死去している。そして両者の対立は、延暦寺との間の荘園争いで法王とその側近らが武力を行使してでも座主を追い落としてその荘園を奪おうとしたのに対し、高倉の意を受けた平清盛が強権を発動して、院近臣の多くを捕縛して流罪(死罪)とした事件(1177年・治承元年「座主流」「西光被流」)に既に現れていた。しかも高倉には、言仁誕生以後に、相次いで平氏の血をひかない皇子が三人も誕生していた。坊門信隆の娘・藤原殖子を母に持つ第二皇子・守貞親王(後高倉院)(1179-1223)が言仁誕生の翌年に。同じ年には、平義輔の娘を母に持つ第三皇子・惟明親王(1179-1221)が、さらにその翌年には、藤原殖子を母にもつ第四皇子・尊成親王(後鳥羽天皇)(1180-1239)が次々と誕生していた。高倉と後白河の対立がさらに激化すれば、高倉(もしくは言仁)を引きずり降ろし、高倉の他の皇子に皇位を挿げ替える政治的激動すら生まれかねない状況だった。「公卿揃」の冒頭に記された異例の事態はそれを暗示する。
※25.7.21追記 この句の前半は、御産にさいして人々を驚かせることが多々あったと数え上げ、これらの例は「その時は何とも思われなかったが、後になって、あの不思議なことどもは、今度の異例の出来事の前兆だったのだと気が付く」ことであったと、御産の後に起こる異例を匂わせる仕掛けになっている。 その異例な出来事とは、中宮御産の翌年、治承3年になって起きたことどもで、清盛の長女で摂関家当主未亡人として幼い当主を後見していた盛子の死と、これに伴い盛子が管理していた(つまり事実上清盛が管理していた)摂関家領の法皇収公、内大臣重盛の死とその家領ともいうべき越前國の知行国守を院近臣への変更という、法皇による平家勢力削減の企てと、これに対する反動としての、清盛による院近臣団粛清と法皇押し込め、安徳即位と高倉院政の挙行という、一連の大事件である。 だが「平家物語」が挙げた不思議な人を驚かす出来事のすべてが事実であったわけではない。 法皇自らが祈祷を行ったこと、そして皇子誕生に際して御殿の棟より甑を落とすまじないの際に皇子誕生なのに誤って皇女誕生を示す北に落としてしまい、あらためてやり直して南に落としたこと、さらには小松内大臣の落ち着いた振舞と御台所を無くしたばかりで御産に伴う式事を欠席した権大納言宗盛という四つの出来事は、「玉葉」や「山槐記」で確かめることができる。 しかし入道相国が途方に暮れたという話と、祈祷に訪れた掃部守時晴が群集にもまれて衣冠を乱されたという二つの話は確かめることはできず、ここは「平家物語」作者の脚色と思われる。
ただ不思議なことに、後半の参じた公卿名列挙の箇所に「間違い」がある。 右兵衛督光能。そして新宰相中将通親。公卿は従三位以上の位階を有するものか、参議以上の官に付いている者をさす。 右兵衛督光能はこの当時は正四位下の位階で、官は蔵人頭であった。彼が右兵衛督になったのはこの翌年の治承3年3月19日であり、正四位下のままであったが参議に任ぜられて公卿の仲間入りを果たしたのは同じく治承3年10月10日の事である。 また源通親もこの当時は正四位下の位階で、官は権中将兼加賀権介。源通親は翌年治承3年1月に蔵人頭となり、そのまま治承4年正月に参議となり公卿の仲間入りを果たした。 実際にこの治承2年11月12日に光能と通親が六波羅第にいたことは確かだ。 だがこれは皇子誕生を寿ぐためではない。
光能は彼の職務である蔵人頭として、産所に来ることのできない天皇に代わって、あつまった公卿たちに天皇の意志を伝えたり、様々な決め事の仲介をする職務を果たすために六波羅に来ていたのだ。実際大赦令を出す際に、人名録を作って関白以下に計ったのは光能であり、関白や検非違使別当らの意見を入れて重罪人4・5人を削除して大赦令を出すように指示したのは光能であった。
では当時公卿でもなく皇子誕生を寿ぐためでもなく六波羅にいた光能と通親とを、皇子誕生を寿ぐために参集した公卿33人の中に「平家物語」は、なぜ入れたのか? 藤原光能は清盛による院近臣粛清の時の蔵人頭であり、天皇の意志に逆らって腹心の官を解く宣旨を出すことを渋ったにも関わらず蔵人頭のまま残留。そして翌治承3年には、右兵衛督と参議とに任じられた。院の腹心の部下であった所以だ。 源通親は清盛による院近臣粛清や皇子誕生時は、蔵人所の一員であり、高倉天皇の腹心として行動していた。そして翌年治承3年の正月に光能に代わって蔵人頭に着くと、この年の11月の二度目の清盛による院近臣団粛清(このとき光能も院近臣として右兵衛督と参議を解官されている)に際しては天皇の宣旨を戴いて院近臣粛清に奔走し、翌治承4年正月には参議にも任じられている。この時期の通親は高倉天皇の腹心であり、平家の側にたつ人物であった。 だが高倉上皇が死去し幽閉されていた後白河法皇が復帰して院政を再び行うや通親は院近臣の立場にその位置を移行させ、平家が源義仲軍に押されて安徳天皇を奉じたまま都落ちして西海に逃れるや、通親は院の腹心として行動し、以後源義仲、さらには台頭してきた源頼朝と朝廷との仲介役として頭角を現し、後白河院の晩年においては、頼朝と接近した左大臣九条兼実に対して、院を守護する近臣として行動したのだ。 藤原光能は、清盛−高倉天皇とぶつかりつつあった時期の後白河法皇の腹心であり、源通親は、清盛と高倉天皇の死後復権し、源氏勢と繋がりつつあった後白河法皇の腹心であった。
「平家物語」作者は清盛=高倉天皇の行動には否定的であり、後白河法皇支持の立場でものがたりを叙述している。だから「公卿揃」に法皇側近のかれを加えたものと思われる。
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