御産
25.7.21改定
▼主な登場人物 ◆平徳子:1155〜1213 太政大臣平清盛と従二位平時子の娘。高倉天皇の元服に伴い、承安1(1171)年12月26日、後白河法王と平重盛の猶子として高倉天皇の女御となる。翌年2月10日中宮。治承2(1178)年言仁親王(安徳天皇)誕生、同4年皇子の即位により国母となる。文治1(1185)年3月24日壇の浦での一門滅亡時に入水するが助けられて京都に戻り剃髪。法名真如覚。その秋に大原寂光院に移り、一門の菩提を祈る。徳子の没年は所説あり。『平家物語』(覚一本)は建久2年(1191年)2月に没したとするが,『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとするのが通説。 ◆高倉天皇:1161―1181 後白河天皇と建春門院平滋子の皇子。諱は憲仁。母滋子の異母姉は平清盛の妻時子。仁安1(1166)年10月10日、6歳で立太子。同3(1168)年2月19日即位。承安2(1172)年清盛の娘徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎える。治承2(1178)年、生後間もない言仁親王(のちの安徳天皇)を皇太子とする。翌年2月譲位し院政を敷く。養和元(1181)年1月病死。藤原殖子(七条院) 坊門信隆女との間に、第二皇子:守貞親王(後高倉院)(1179-1223と第四皇子:尊成親王(後鳥羽天皇)(1180-1239)があり、平範子(少将内侍)平義輔女との間に、第三皇子:惟明親王(1179-1221)がある。
<物語のあらすじ>
【承安1(1171)年12月26日に高倉女御として入内した徳子であったが、高倉の他の后は次々と皇女を生むが徳子には何年も懐妊の兆しさえなく周囲が気をもむ。ようやく入内6年を経て懐妊。】治承2(1178)年11月12日の寅の刻(午前4時頃)から中宮が産気づいたとのことで、産所である六波羅池殿には、後白河法王を始めとして、関白・太政大臣以下の公卿・殿上人のほとんどが押しかけ、先例に従って非例の大赦があるとの専らの噂であった。小松の内大臣重盛は落ち着いたもので、すこし時を置いてから産所に御衣40領・銀剣7つ・御馬12疋などの祝いの品を持参して参上。安産・皇子誕生を祈願して、多くの高僧貴僧が様々な術法を駆使し、護摩の煙が御所に満ち打ち鳴らす鈴の音や修法の声が満ちて、いかなる怨霊も退散すると見えたが、一向に安産の気はなく中宮は陣痛に苦しむ。なすすべのない清盛・二位尼はただおろおろするばかり。しまいには法王までが自身で千手経を寝所の際で読み上げて怨霊退散を祈りだす。しかし法王の祈りの甲斐あってか、目出度く安産となり皇子誕生となった。皇子ご誕生との中宮亮重衡の声を聴いて、産所に集まる一同はどっと安堵の声をあげ、清盛はただただ嬉し泣き。小松内大臣重盛は落ち着き払って、皇子の枕元に金で鋳た銭99文を置いて長寿を祈り、災禍を払うために桑の弓・ヨモギの矢にて四方を射た。
<聞きどころ>
「御産」は「拾物」と呼ばれる句の一つで、御産に伴う緊迫した場面が「拾」を中心とした節で語られるもの。
続いて治承2年11月12日の中宮御産の場面に入るが、御産所の六波羅池殿に法皇が御幸されただけではなく、関白以下の公卿殿上人の多くが参集する緊迫する場面を「拾」でさっと語り、続いて「口説」に節を替えて、御産に当たって非常の大赦が行われたことと、諸寺諸社へ祈祷が命じられたことをさらっと語って、「強下」の節で東大寺・興福寺以下16寺とおどろおどろしく始めたあと、「拾」に移ってお使いの者の煌びやかな衣装や様々な祈祷のための道具が運び入れられる様をサッと語って、冒頭の導入部分を終える。
続いて祈祷にも関わらず陣痛が来るも生まれない中での清盛夫妻と法皇の様子の描写に移り、まず「下げ」で陣痛が来るも御産が始まらないことと告げ、「素声」で清盛夫妻のうろたえる様を「素声」でさらっと描写し、続いて多くの験者の祈りの様と、祈祷が効果がないことを知った法皇自らが千手経を挙げて祈祷し怨霊を鎮めたことを「口説」でさっと描写し、その法皇の祈りの言葉が響くさまを「強下げ」⇒「折声」⇒「呂」⇒「下音」⇒「上音」と節を次々と替えて緊迫感を出しながら、法皇の祈祷のおかげで御産が無事に終わり皇子誕生なったことを「下げ」で重々しく語って終わる。
この中宮御産の場面の描写の多くは、実際を記した公卿の日記に基づいたものであると思われる。それは中山忠親の日記「山槐記」で、冒頭寅刻から陣痛が始まったこと、さらに安産祈願のため非常の赦が行われたこと、そして内大臣と五条大納言が先例によって馬を献上したこと、また、なかなか御産が終わらない中で法皇自らが祈祷を行ったところ、無事御産も終わり皇子誕生となったこと。さらにはその皇子の枕元に内大臣重盛が金銭を置き「天をもっては父とし、地をもっては母と定め・・・」と奉賛の言葉を述べたことなど、「平家物語」の描く御産の場面は、かなり実際に起きたことを踏まえて記述されていることがわかる。しかし二点実際とは異なる所がある。 一つは皇子誕生を告げた人物。 「平家物語」ではなぜか中宮亮平重衡となっているが、当時右大臣で六波羅での御産に立ち会った九条兼実の日記「玉葉」では、中宮大夫平時忠となっており、権中納言中山忠親の日記「山槐記」でも、大夫が告げたとなっている。 たしかに当日重衡も御産に立ち会い、その最後の場面で、それまで祈祷を行う僧などの世話をしていた重衡と維盛が、産所の御簾の中に入ったことまでは「山槐記」で確かめることができる。しかしその御簾の中から出てきて、御産が終わったことと皇子誕生を人々に告げた人物名は、「山槐記」でも「玉葉」でも中宮大夫時忠とはっきり述べているのだ。 なぜ重衡なのか? 「平家物語」作者は、ここは中年の時忠よりも、光る君だと呼ばれていた美丈夫である重衡の方が、場面の映像としては美しいと考えたのだろうか。 実際このあと内裏で人々に皇子誕生を告げたのは、同じく光る君だと呼ばれていた美丈夫である維盛であることは、「玉葉」でも「山槐記」でも確認できる。産所と内裏と場所は異なれども、人々に皇子誕生を告げたのは、絵になる人物に、「平家物語」作者はしたかったのかもしれない。
また二つ目に事実と異なるのは内大臣平重盛の行動である。 しかしこれは、平相国清盛と内大臣重盛の行動を対照的に描き、うろたえる清盛に対して冷静な重盛という図式に当てはめた描写と思われる。 なぜならば、「玉葉」では、兼実が自分が六波羅の産所に参ったときに既に多くの人が参上していたことを記した中に、清盛や重盛などの平家一党の名前はなかったからだ。それなのに御産所から現れて皇子誕生を告げたのは、中宮の叔父にあたる中宮大夫平時忠。つまり清盛や重盛などの平氏一党は中宮の親族であるから、六波羅の産所となった寝殿の中宮の寝屋の側に、おそらく几帳一つ隔てた場所に控えていたものと思われる。 産所となったのは平家一党の拠点である六波羅第。清盛の京での常の居所は離れたところにある西八条第だが、産所となった池殿は大納言頼盛の居所であり、重盛の居所である小松殿もすぐそばにあったわけだから、中宮が産気づく前から、平家一党は産所に控えていたとみるべきである。 そして、御産成就・皇子御降誕が告げられて、太政大臣以下の公卿たちが庇や中門の廊から出て、産所たる寝殿の前の中庭にそろって祝意を述べたさいにも、入道相国や内大臣重盛らの中宮近親らの姿はなく、依然寝殿の几帳の前に控えていたことがわかるのだ。 中宮の近親である平家一党は、中宮が産気づいた時から、寝殿の几帳の前に控えていたに違いない。 したがって祝うために産所に多くの公卿が参ったあとになって、内大臣重盛らがおっとりと参ったいう「平家物語」の描写は、内大臣重盛の冷静さと、ただただおろおろする入道相国の感情に任せた行動を対比させ、やがて重盛亡き後の入道相国の暴走を予感させるための記述と言わざるを得ない。 なお「玉葉」でも「山槐記」でも、中宮御産に際して、安産祈願の大赦が行われたことを確かめることができ、ここは「平家物語」の記述を裏付けている。 だが従来研究者たちは、中宮御産に際しての大赦を確かめる記述は、公卿らの日記には見られないとしてきた。この齟齬は何を意味しているのだろうか。 「玉葉」でも「山槐記」でも非常の大赦に際して「重罪人」は、大赦候補者名簿に入っていたが検討の結果除外されたと記していた。 このことから、鬼界が島に流された三人が「重罪人」と研究者が認識していた場合には、かれらを御産に際して許した根拠は見つからないとした可能性はある。 また実際には彼らの遠流の処罰は正式な宣旨によるものではなく、清盛の私的な処罰であったので、彼らは形式的には重罪人ではなく、単に官を解かれた咎人に過ぎない。ならば中宮御産に際しての大赦に際して許された重罪人以外の人々に、鬼界が島の人々が入っていた可能性もある。 この場合には、「平家物語」がその大赦令が出されたのが治承2年7月としていたことが、鬼界が島の流人を許した大赦令が見当たらないと研究者がしてきた理由であろうと思われる。なぜならこの御産に際しての大赦令は治承2年11月12日であり、その前の天文異常を宥める大赦令が出されたのも治承2年10月7日であるから、どちらも「平家物語」の記述に合わないからだ。 だがここは、「平家物語」は安産祈願の大赦令を中宮御着帯の直後としてしまったために、実際に鬼界が島の流人を許した大赦令の発令時期とずれてしまったと考える以外にないと思う。
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