赦文(許文)
▼主な登場人物 ●建礼門院徳子:1155−1214 高倉天皇の中宮。平清盛の次女。母は平時子。承安元年(1171)女御、2年中宮となり、治承2年(1178)11月12日に言仁親王(後の安徳天皇)を生む。養和元年院号宣下。 ●平教盛:1128―1185 清盛の異母弟。兄弟のなかで、清盛から最も慈しまれ、身近くあって栄達し、その側近に終始し、清盛の意向で六波羅の総門の脇に居館を構え、世に門脇中納言と称された。仁安3(1168)年高倉天皇(憲仁親王)即位のとき、正三位参議。寿永1(1182)年従二位、翌2年に中納言となった。つまり後白河院政を支える側近の一人でもあり、後白河側近の一人藤原成経を娘婿とした。
<物語のあらすじ> 治承2年正月に彗星が現れ光を増す中で、入道相国の娘・中宮の容体が悪化。様々に加持祈祷を行うも回復せず、ご懐妊と判明。平家の人々はここで皇子御誕生とならば平氏の繁盛極まりなしと喜び、様々に加持祈祷を尽くして皇子誕生を祈った。中宮は月が重なるにつれてつわりが厳しくこれは様々な怨霊死霊悪霊生霊の為と考えられ、讃岐院に御追号なって崇徳院とされ、宇治の悪左府にも贈位増官とて太政大臣正一位が贈られた。門脇宰相はこのようなことを伝え聞いて、小松殿に「中宮の御産の祈りとて、非常の赦に過ぎたるはなし」とて鬼界が島の流人たちを召し返すことを申し入れた。これを聞いた小松殿は父の禅門の前に参って、「大納言の死霊を宥めるには、生きている少将を召し返すことが必要。さすれば皇子御誕生となって一門の栄華もいよいよ盛んになる」と申し入れた。入道相国が「康頼入道や俊寛僧都はどうする」と聞くので「それも同じく召し返すべし」と申し上げると、「康頼は良いが、俊寛は入道の口利きで偉くなったのに、その山荘鹿の谷に城郭を構え、事あるごとにけしからぬ振る舞いが多いので俊寛を召し返すことは思いもよらず」と答えた。鬼界が島の流人の召し返しが定まり、入道相国の許文も下され、お使いもすでに都を発つ。門脇宰相は余りの嬉しさにお使いに添えて私の使いをつけて下した。7月下旬に都を出でたお使いは、9月20日頃に鬼界が島についた。
<聞きどころ> 「赦文(許文)」は鬼界が島の流人の扱いの転換点となる重要な句だが、比較的淡々とした節で語られる。 冒頭で、治承2年正月の有様に始まって、中宮の御悩⇒懐妊がわかって平家の人々は皇子誕生を祈って様々に加持祈祷を行うさまを、「口説」⇒「素声」⇒「口説」の淡々とした語りでサラッと語り終える。途中一か所大きく節を替えるのは、中宮の御悩を収めるためあらゆる秘法が修せられたとの部分を「強下」のおどろおどろしい節で語る部分のみ。 その後中宮ご懐妊がわかり月を経るにしたがって中宮がつわりに悩まされる様を「中音」で朗々と語って場面転換を図ったあと、このつわりは様々な怨霊死霊生霊のなせるわざと捉えられて、まず保元の乱で讃岐に流され死した故院に崇徳院の追号を贈られ、同じくこの乱で死した故悪左府にも太政大臣正一位が贈られたことを「口説」でさらっと語った後、悪左府への贈官贈位の様を「三重」⇒「初重」で美しく朗々と語った後、「素声」に節を一転させて昔から恐ろしい怨霊を宥めるために行った諸例をあげて、語りの前半を終える。 後半はそのまま「素声」の節で門脇宰相が小松内大臣に、皇子御誕生を祈願するには非常の赦こそ必要であり、そのためには鬼界が島の流人どもを召しかえすことこそ大切と切々と訴える様を、冒頭さらっと語り、小松内大臣が入道相国にかけあって鬼界が島の流人のうち康頼入道と丹波少将の召し返しを承諾させて門脇宰相に伝えるまでを「口説」でさらっと語り終える。 最後はこの報せに喜ぶ宰相と小松内大臣のやりとりを、「折声」⇒「指声」で特徴的に語った後、そのまま「指声」で続けて、鬼界が島の流人の召し返しが決まり入道相国の許文が出されたことをさらっと語る。 この句の締めは、赦文を持った使いが京から鬼界が島に達するまでを「中音」で朗々と語って終える。
<参考> 康頼・成経の帰洛の時期については公的文書および公家の日記には記載はない。康頼入道の著「宝物集」の冒頭に「治承元年秋薩摩の国の島を出でて、同じき2年の春、再び旧里にかえり」とあるのが唯一の史料。だが、この書のその直ぐあとの、「3か年の夢」との記述に矛盾する。この記述では、安元三年の6月に解官されて島流しになり、8月に治承に改元後すぐに島を出て、翌年春に都に戻ったことになり、旧里を離れたのはわずか1年、あしかけ2年になってしまうからだ。この記述は誤写か、康頼本人の勘違いと考えられ、この3年を足かけ3年と考えれば、安元三年の6月に解官されて島流しになり、(8月に治承に改元)翌年治承2年の秋に島を出て、その翌治承3年春に旧里に戻ったと考えれば、ちょうど足掛け3年となる。これだと平家物語の記述と時期は一致する。 では「平家物語」が描くように、清盛の娘徳子の懐妊によって赦免されたのだろうか? 実はこれも史料がない。大勢の中の一人として赦免されたということは、康頼入道の著「宝物集」の末尾に、清盛に歌集が届いたことを記したあと「あはれとやおぼしけん、余多(あまた)の人の中に、一人めしかへされたりしかば」と記していることから、多人数の中の一人として赦免されたことを伝えるのみで、ここでは「中宮御産」に伴う赦であるとは記していない。 右大臣九条兼実の日記「玉葉集」の治承2年の記述を精査して見ても、「中宮御産」に伴い、非常の赦が行われたという記述はなく、さらに言えば、「平家物語」が記すようにつわりが酷くて様々な術法を行ったという様子はなく、6月6日に中宮の懐妊を兼実が知らされたあと、6月28日に御着帯があってこの日に仁和寺宮の加持と三井寺憲覚僧正の加持行われたと記したあと、御産に伴う通常の加持祈祷が続く中で兼実は何度も中宮のもとをお見舞いに訪れ面会している。それも面会できなかったのは10月5日だけで、これは乳の上に腫物が出来て治療中のためだと日記に記されている。そして10月27日には中宮が産気づいたので御所(六波羅)に公卿らが大勢集まり様々な祈祷が行われたが、出産は11月12日だと淡々と日記には記されている。 どうも徳子の御産は「平家物語」が記すような難産ではなく、普通の御産だったようだ。 だから安産を願っての非常の赦も行われない。 では「宝物集」が記す大勢の赦免が行われたというのはどういう事情であろうか。 「玉葉」の10月8日の条に、昨夜公事が行われ、権律師範玄が孔雀経修した褒賞として律師に還任(天変御祈りのため)、蔵人所で刃傷沙汰を起こしたものを解官 流人召し返しとして伊豆の多々良盛保・常陸の多々良盛房・下野の多々良弘盛・安房の多々良忠遠が召し返されたとある(すべて周防の住人)。他に天変御祈りのための免物事ありと記されている。 これが「宝物集」が記す大勢の赦免ではないか。 康頼や成経の正式の処分は、それぞれの官を解いただけなので、元の官に戻すとの宣旨がだされれば、島を出て都に戻すことが可能になる。だから先の公事の最後の「他の免物事」に一括されたのではないだろうか。 ここに記す「天変」の一つが「平家物語」の「赦文」冒頭に記される、昨年12月24日に続く1月7日の彗星出現である。彗星出現は乱代の始まりと認識されていた。そして「玉葉」には「天変」記事が続く。5月5日の条には、去る4月5日に、歳星が牽牛星を犯したと。歳星とは木星のこと。そして天文書には「五星」(惑星)が牽牛星を犯すことは、二年以内に、諸侯が君に対して淫乱の謀をなすことだと記し、危機感を露わにしている。さらに9月16日の条にも、この暁に、焚惑太微の右執法星を犯すと記す。焚惑とは火星のことであり、太微とは獅子座の西端近くの10星をあつめていう区域で、この中の二つの星、左執法星と右執法星が天全体の星の動きを取り締まっていると考えられ、この星を五星の一つ火星が犯したということはまた、兵乱が近いことをしめし、しかも同じ現象が、去年も一昨年も続いていると危機感を露わにしている。 まさに治承2年はその前年治承元年=安元3年、さらにその前年の安元2年と三年続いて天の星の配置に異常が生じた年であり、しかも現実世界では、後白河院政が暴走して比叡山延暦寺と荘園争いを演じ、その対立を解消しようと平氏の兵力を動員しようとしたりして、高倉天皇の命を受けた清盛が後白河法皇近臣団を粛清するなど、争いの絶えない年であった。 そこで治承2年の10月7日までに世の中を鎮める孔雀経の読経がなされ、さらに10月7日に非常の赦が行われたということだ。 鬼界が島の流人の赦免は、この天変地異を鎮める行為の中で行われたのだが、ちょうど時期が、中宮懐妊―出産の時期とも重なっていたので、「平家物語」作者は鬼界が島の流人の赦免を中宮懐妊・安産祈願に結び付けて物語を作ったということだろう。この方が物語としてはおもしろい。
だがこう解釈すると、「宝物集」での康頼入道の回想「治承元年(2年の誤りか?)秋に島を出た」と大きくずれてしまう。これをどう考えたら良いのか。 康頼の回想は、「宝物集」が流罪事件のほぼ10年後あたりに書かれたものと考えられている。
年次を一年勘違いしているのなら、治承2年の秋は島を出たのではなく、島を出て帰郷することを許す赦免状が出たことの勘違いと考えることもできる。ただし秋と言っても10月だからすでに晩秋である。そこからすぐに赦免状を持った使いが船で鬼界が島に出かけ、「平家物語」によると、およそ二か月の行程だから12月に島に着く。ただちに赦免船に乗って都に戻れば、都に戻れるのは、翌年治承3年春となり、「宝物集」での回想にほぼ時期的には一致する。
それは「平家物語」での不思議な記述だ。「御産」の巻の冒頭に、治承2年の秋に赦免船で島を出て肥前嘉瀬荘に着いた一行はそのまま年内は加瀬に止まった。理由は都の門脇宰相から手紙がきて「年のうちは浪風はげしう、道の間もおぼつかのう候に」嘉瀬の荘で体を労わって春になって都に上れと言ってきたからとする。 この物語での設定の背景は、赦免を中宮懐妊に伴う安産祈願としたために、赦免状発給が7月と前倒しになり、9月に島について戻れば、年内に都に戻ってしまって、「宝物集」での康頼の回想と齟齬をきたす。そこで作者が考えたことが、「年内は嘉瀬で過ごす」だったのではないか。 こう考えれば、赦免が天変回避のための10月7日であったとの解釈の蓋然性の高さが証される。 ※参考:●平家物語内裏炎上の深層 : 日吉神火と熒惑入太微 谷口 廣之著 同志社大学国文学第38号掲載 1993年3月刊
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