阿古屋之松
▼主な登場人物 ●近江入道蓮浄:生没年不詳。源成雅。村上源氏陸奥守源信雅の四男。鳥羽院政期中期から後期にかけて武官を歴任する。左大臣藤原頼長に近侍し、保元の乱では上皇方に参加。乱に敗れて出家し蓮浄と名乗るも越後へ流罪となる。応保年間(1161−63)に帰洛を許されその後は後白河院の近習となる。僧形であったことから近江中将入道と呼ばれた。安元3(1177)年6月の清盛による院近臣粛清で解官され、「平家物語」では佐渡国へ配流とある。 ●山城守基兼:中原基兼。生没年不詳。北面下臈として後白河院に仕え、承安1(1171)年に山城守となる。安元3(1177)年6月に清盛により解官、「平家物語」では伯耆国へ配流とある。その後いつしか復権して再び院近臣に。治承3(1179)年11月の政変で再び解官され、奥州に入る。その後は藤原秀衡に属し,内乱期を通じて活発に行動したものと思われる。平氏滅亡後の文治3(1187)年には基兼の再上洛について源頼朝がとりなしをしていることから、基兼が各方面との連絡を維持していたことがうかがわれる。九条兼実の日記玉葉では「元法皇近臣,凶悪之人」と評されている。 ●式部大輔正綱:藤原章綱(のりつな)。生没年不詳。阿波守経尹の子。母は源義親の子宗清の娘。越前齋藤氏の一員となったことにより後白河院北面下臈となり、以後院近臣として活動。正六位下式部大夫であった安元3年に清盛により解官。「平家物語」では播磨配流とある。治承3(1179)年許されて帰洛。寿永2(1183)年11月29日木曽義仲による後白河側近団の処断の中に兵庫頭藤原章綱の名がある。従四位下までなる。建久3年(1192)の後白河崩御まで近臣として仕える。 ●宗判官信房:正しくは、惟宗信房。生没年不詳。惟宗氏は讃岐在庁官人であったが9世紀半ばに本貫を京に移し、明法博士などで活躍したが、以後は検非違使などの下級役人に名がみえるにとどまる。惟宗信房は左衛門尉で北面下臈として上皇の高野山参詣の随兵として嘉応元年(1169)3月13に従ったと記録にあるが、詳細は不明。 ●平資行:生没年・経歴共に不詳。治承3(1179)年11月の清盛の院政停止のクーデターで解官された者の中に、検非違使・左衛門尉平資行があるので、安元3(1177)年6月に解官⇒配流され、後に許されて帰京したのちに元の官に戻り、再び北面下臈・院近臣として活動したものか。 ●藤原成経:1155−1202 大納言藤原成親の長男。父が後白河法皇の寵臣であるため出世も早く、嘉応3(1171)年9月に16歳にして右少将、さらに丹波守を重任し、丹波少将と通称される。安元3年(1177)6月、22歳のとき、父に連座して解官。遠き島に赴く(「公卿補任」)。翌々年(1179)平徳子ご懐妊の大赦で都に上り、1182(寿永1)年には従四位上、1183(寿永2)年には右少将に還任。平家滅亡後の1189(文治5)年には34歳で蔵人頭、翌1190(建久1)年には参議に経上がり、さらに翌1191(建久2)年には近江守を兼任するとともに従三位と出世し、1193(建久3)年に正三位となったが、1192(建久3)年3月の後白河院逝去によりここが極官となる。典型的な院近臣。
<物語のあらすじ> 安元3年6月20日。福原にいた清盛は門脇宰相の元に使者を送り丹波少将成経を福原に送れと命令。成経は3歳の我が子や妻などとの別れを惜しみつつ22日に福原に。清盛は瀬尾兼康に命じて少将を備中の国に送り兼康の拠点瀬尾に置いた。そのころ大納言成親は備前児島から備中庭瀬の有木の別所に移されていたが、これを聞いた少将は警固の武士に「有木の別所まではいかほどの道のり」と聞いたが、警固の武士瀬尾兼康は、有木と瀬尾の実際の距離はわずか50町(5.6q)に満たないのだが「片道十・二三日」と答えた。少将は「備前・備中・備後はかつて一つの国であった(から近いはず)。昔実方中将が陸奥に赴きその名所阿古屋の松を訪ねたが見つからず、途中行き合った老翁から、阿古屋の松の歌が歌われたのは出羽と陸奥がまだ一つの国であった時分。今ではその松は出羽の国にあると教えられたという故事がある。筑紫の太宰府から都までは片道15日と定められており、12・3日ということはここから鎮西(九州)までの行程となってしまう。」と答え、実際は往復3日ほどの行程だがこれは大納言と自分とを 会わせないためかと得心し、以後二度と問うことはなかった。
<聞きどころ> 「阿古屋之松」は三つの段に別れる。 最初は丹波少将に清盛から福原に参れと命令され、妻子と涙の別れをする場面。冒頭 「口説」にて、大納言成親以外の院近臣がそれぞれ流罪となったことと、福原の清盛が門脇宰相に使いを送り丹波少将を福原によこせと命じた場面を淡々と語り、「素声」に移って少将と3歳の幼子との別れの場面に移る。 そして少将と幼子との別れの場面は、「口説」⇒「折声」⇒「中音」で悲し気に語り上げる。 第二段は少将が備中へ流されたことと大納言が庭瀬へ移された事が告げられる場面。ここは「口説」⇒「素声」でさらっと語り、場面転換を図っている。 第三段は備中瀬尾で少将が、大納言のいる庭瀬までの道のりを問うた場面だ。ここがこの句の中心。ここの冒頭、 少将が瀬尾兼康に「瀬尾と庭瀬」の道のりを問い兼康が13日行程と遠いと嘘をつく場面は「口説」でさらっと語られ、その後兼康の嘘を少将が見抜き、その心の内を思案して悲しみに暮れる場面は、「折声」⇒「口説」⇒「上歌」⇒「指声」⇒「中音」と次々と節を替えながら、古の実方中将と陸奥の阿古屋の松の故事を美しく語り、最後に「初重」⇒「中音」で瀬尾と庭瀬が近いことを報せなかった瀬尾の心情を少将がおもんばかる場面を朗々と語って終わる。
<参考>
句の冒頭に安元3(1177)年6月の清盛による院近臣団粛清により流罪となった主なものの配流先が列記される。これらの人々がどのように処罰されたかは記録になく、また処罰そのものが正規のものではなく、清盛による私の処断であったため、「平家物語」が伝える配流先が事実か確認できない。 この配流者一覧をみて興味深いことは、近江中将蓮浄以外の4人のすべてが院御所を警固した北面の武士、それも歴代の朝廷武者がつく北面上臈ではなく、下臈という成り上がり者がつく部署出身で院近臣となった者たちだということだ。これは次の「大納言死去」の冒頭で成経や俊寛僧都とともに鬼界が嶋に流された平康頼入道も同様な経歴であり、これに首謀者として処刑された西光法師を合わせれば、処罰された院近臣の多くが北面下臈出身であり、「平家物語」が「西光被切」で清盛が西光を尋問したさいの言として「本よりおのれらがようなる下臈のはてを、君の召しつかわせ給いて、なさるまじき官職をなしたび」を挙げ、北面下臈の卑しき身分の武人を、本来朝廷伝来の武人らが世襲して来た衛門府の尉官や検非違使にまで任じたことを非難したが、まさにこの清盛の言は院政の真実の姿を現していたと言えよう。 また丹波少将が配所の瀬尾で、父成親の配所である有木までの距離を聞いたという話は真実かどうかは確かめることはできないが、この際瀬尾兼康が実際の距離はわずか50町(5.6q)に満たないのだが「片道十・二三日」と答えたことに対して、少将が古の実方中将と陸奥の阿古屋の松の故事を想起したとの物語を挿入したことは、この有木の地が大納言成親の終焉の地となるに違いないと少将が確信していたことを示すとともに、後の大納言死去を暗示するものとして物語に挿入されたものと思われる。
★藤原実方:960?−998 左大臣師尹の孫。父は侍従定時、母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか叔父済時の養子となった。侍従、左近衛中将などを歴任したのち、長徳1(995)年に陸奥守となって赴任し、任地で没した。歌人や舞人として優れ、清少納言など多くの女性と恋愛関係を持った。良き家柄に比して父早世のためか出世が遅れ、不遇であった。
従四位下の実方中将が陸奥守に赴任したことは、五位相当の陸奥守への赴任が格下げであることから、当時から不審とされていたのであろう。「平家物語」の少し前に成立した説話集「故事談」ではこの事件は、実方中将が蔵人頭の藤原行成と殿上で争い行成の冠を投げ落としたことから一条天皇の勅勘を被った事件と記し、正四位下へ昇進を伴う体の良い流罪との認識を示していたので、「平家物語」作者は、配流の後に配流地備中有木で死去した大納言成親と配流の後に配流地陸奥で死去した実方中将を重ね合わせて、物語を叙述したものと思われる。
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