▼主な登場人物 ●平判官康頼:生没年不詳 明法道の家柄である中原氏に生まれる。10代で平保盛(清盛の甥)の家人となり応保3(1163)年正月に保盛が越前守となると主人と共に赴任。このころ平姓を許されたとみられる。仁安元(1167)年12月に保盛が尾張守となると康頼は目代として派遣され、尾張国知多郡野間の荘にあった故源義朝の荒れ果てた墓を修復し御堂を建て、この保護のために水田30町歩を寄進。康頼は目代ながらも武士道の礼節をわきまえた者と評判になり、噂を聞きつけた後白河院に召され北面の武士に。また後白河院から今様を習い上手となるとともに院近臣となり検非違使左衛門尉にも抜擢された。安元3年の清盛による院近臣粛清で解官され配流。配流の途次で出家し性照と名乗る。後に許されて治承3(1179)年に帰洛。帰洛後の消息は定かでないが、「平家物語」によれば東山双林寺あたりに住み、『宝物集』と著したとされる。文治2(1186)年、義朝の墓を整備した功により源頼朝から阿波国麻殖保の保司に任ぜられる。 ●藤原成経:1155−1202 大納言藤原成親の長男。父が後白河法皇の寵臣であるため出世も早く、嘉応3(1171)年9月に16歳にして右少将、さらに丹波守を重任し、丹波少将と通称される。安元3年(1177)6月、22歳のとき、父に連座して解官。遠き島に赴く(「公卿補任」)。翌々年(1179)平徳子ご懐妊の大赦で都に上り、1182(寿永1)年には従四位上、1183(寿永2)年には右少将に還任。平家滅亡後の1189(文治5)年には34歳で蔵人頭、翌1190(建久1)年には参議に経上がり、さらに翌1191(建久2)年には近江守を兼任するとともに従三位と出世し、1193(建久3)年に正三位となったが、1192(建久3)年3月の後白河院逝去によりここが極官となる。典型的な院近臣。
<物語のあらすじ> 康頼入道と丹波少将は三所権現に参ってしばしば通夜する折もあった。ある夜は白い帆かけた小舟が一艘漕ぎ寄せ紅の袴を着た女房達30人ほどが上陸し千手観音を讃える歌を歌った夢を見た。入道は、三所権現の西の御前は千手観音におわす。これは我らが願が納受された証と悦んだ。またある夜は、沖からの風が二人の袂に木の葉を二つ吹きかけたのでふっと木の葉を見ると、虫食いの穴で一首の歌が刻まれており、その歌は「そなたたちの神への祈願は懇ろなので、そなたたちの願いは必ず叶う。必ず都に帰れる」との意味だったという夢を見た。そこで康頼入道は千本の卒塔婆を作り、そこに二首の歌などを書いて、これを浦に持っていき、祈りながら海に流した。その中の一本が安芸の厳島大明神の渚に打ち上げられた。そこに康頼所縁の僧がかの島に渡らんと西国修行の道すがら立ち寄ったおりに、この卒塔婆を見つけ、都の一条の北に忍ぶ、康頼の母や妻子に見せたところ嘆き悲しみ、この話はやがて法皇にも達した。法皇はこの卒塔婆をご覧になって、流人たちが生きていることに感涙した。そしてこの卒塔婆を小松内大臣の元に送りつけ、内大臣はこれを入道相国にも見せた。入道の心も岩木ではないので、憐みの言葉を吐かれた。
<聞きどころ>
この句は三つの段に別れるとても美しい句だ。 最初は康頼入道と少将が三所権現に通夜して見た二つの夢と、その夢に誘われて卒塔婆を千本作って海に流す場面。 ここは、「口説」にて 一つ目の夢を見た話を語りだし、夢の中で大勢の女房が今様を歌う場面を「中音」で美しく歌い上げ、この夢を入道が解釈する場面は「折声」⇒「素声」で印象的に語って終える。そして続けて二つ目の夢も、「口説」で導入したあと、なぎの葉に彫られた歌を「上歌」で美しく語った後、節を一転させて「指声」に替えて康頼入道が卒塔婆を作くる場面に替え、卒塔婆に掘られた二首の歌を「上歌」⇒「下歌」で読み上げ、さらに「折声」に節を替えて、祈りながら卒塔婆を海に流す場面を印象的に語る。 そして最後に「中音」にてその中の一本が安芸の厳島に流れついたことを印象的に語って前段を語り終える。 二つ目の段は、その卒塔婆を入道所縁の僧が見つける場面。 「口説」で康頼所縁の僧が厳島に到着したことを語り、その後この僧が宮人から厳島明神のありがたい由来を聞かされる場面を「折声」⇒「指声」⇒「中音」と次々と節を替えて印象的に語り上げる。そして感激した僧が波間に卒塔婆を見つける場面を「素声」でさらっと語り終える。 最後の段は、僧が卒塔婆を都の康頼の家族に見せ、さらにこの話が法皇に届き、卒塔婆が法皇⇒内大臣⇒入道相国と渡ってゆく不思議を語るところ。 僧が卒塔婆を家族に見せる場面は「口説」でサラッと語り、家族が悲しむ場面を「初重」で重々しく印象的に提示し、さらに法皇⇒内大臣⇒入道相国と卒塔婆が渡される場面を「口説」でさらっと語った後、入道相国が感動する場面を、「三重」⇒「初重」と高らかに美しく語って、この句を終える。
<参考>
この話は、熊野権現と厳島明神の神の導きによって、熊野権現に帰洛を祈った康頼と成経は救われ、信心の心のない俊寛は救われず、島で死んだという、物語の設定そのものが表現されたもの。 康頼入道が熊野権現に通夜したときに見た夢を、神が願をご納受くださったと理解して、さらに都にいる縁者たちに自分が鬼界ケ島で無事にいると知らせるために千本の卒塔婆を作ってそこに自らの姓名や月日と共に帰洛を願う歌を二首彫り込んだ。その千本のうちの一本の卒塔婆がなんと安芸厳島明神前の渚に流れ着き、なんとちょうどその時渚に康頼入道の縁者の僧が居たために拾い上げ都に持ち帰った。この卒塔婆の話が後白河院に達し、さらに内大臣重盛から清盛入道に伝えられたことで、清盛の心を動かして鬼界が島の流人たちの赦免へと繋がった。 なんと不思議な話だろう。これは神(熊野権現と厳島明神)の御導きである。 物語の作者はこのように話を作り上げ、当時のこの話を聞いたものたちも、それを信じた。 神の存在を深く信じた中世の人々の心を良く示した話だ。 だがここで終わらないのが「平家物語」作者の心に宿る合理精神。 作者は続けて、このような不思議なことの例が「唐土にもある」と漢代の武将蘇武の例を挙げる、続いて「許し文」で実際の赦免状が出された経緯を語る。
★「康頼祝詞」「卒塔婆流」の補足
解説を書き終えたあと、流された場所も帰洛の後のことも不明な康頼について、何か詳しい史料がないかと調べたところ、彼の著書である「宝物集」に流された場所やそこでの生活、そして帰洛の経緯に関わる記述があり、これこそこの時期の康頼の経歴を示す一次史料であるとする論文を見つけた。 それは山田昭全著「平康頼伝記研究(その二)」昭和50年11月刊 豊山教学大会紀要第3号所収。である(この論考は後に、山田昭全著作集第二巻「宝物集研究」おうふう2015年刊に収められる)。 この論文によると康頼自身の手になる第二種七巻本宝物集には、流された場所が「鬼界が島」であることが銘記されていて、これによって彼の配流先が確定する。 また配流時代のことを記した箇所の記述は、彼の島での暮らしの様子や、帰洛がかなった経緯が記されており、その記述をもとに「平家物語」作者が「康頼祝詞」と「卒塔婆流」の話を作ったことがわかるという。 すなわち ◎1:出家時のこと 検非違使左衛門尉平康頼、罪もなくて鬼界が島へ流され、出家の後、かくぞよみ侍りける ついにかくそむきはてける世の中をとくすてざりし事ぞくやしき 是皆、今生は一旦の歎き也といえども、善智識と申すべきなり。 ◎2:島でのくらし A:母に便りを送ったこと きかいが島にはべりける頃、いまだいきたるよしを母のもとへ申しつかはしける さつまがたおきの小島に我有りと親には告げよ八重の塩風 B:歌集をあんだこと 俄に人の国へまかりにしかば、又することもなきままに、をこないのひまに、そさのをのみそじ あまり知らざりしをしあつめたりしを、風のつてにや、都のかたへふきつたえて、おそろしき人見給いて、哀とやおぼしけん、余多の人の中に一人めしかえされたりしかば・・・
である。 この1の史料の歌が「康頼祝詞」冒頭の出家時の典拠であり、2のAの史料が「卒塔婆流」の卒塔婆に刻んだ歌の典拠であり、厳島に流れ着いた卒塔婆が所縁の僧の手を経て康頼の母に渡ったというはなしの典拠である。さらに2のBの史料は、康頼の歌が人づてに清盛にまで渡ったという「卒塔婆流」の話の典拠である。 「平家物語」作者は康頼の「宝物集」での記述をもとに、それを熊野権現と厳島明神のご加護で彼らの帰洛に繋がったという仏教説話に仕立て上げたということだ。 またこの2のBの史料は、ひまだったので島であまり人に知られない歌をあつめて歌集にしたということは、この島には多数の和歌集が存在していたということであり(康頼自身が都の家族に手紙をやって歌集を多数送らせたということもありうるが)、都から多くの官人が和歌集を持って赴任してくる役所のある島であることを示している。きかいが島は、薩摩硫黄島ではなく、その南の琉球との境で役所のある、喜界島であることを示す史料だ。
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