善光寺炎上

平家物語topへ 琵琶topへ

<物語のあらすじ> 

 そのころ善光寺炎上の由が伝えられた。百済からもたらされた日本最古の弥陀三尊像を頂く霊山。幾星霜すでに580余歳を数える霊山までが炎上とは初めてのこと。「やんごとなき霊寺・霊山が亡び失せることは、 王法が末になる前触れであろう」と噂された。

 

<聞きどころ>

 

「善光寺炎上」。この句はとても短い。

 冒頭で、善光寺炎上の事実と、善光寺如来の由来を「口説」でさらっと語ったあと、その天竺由来の釈迦三尊像が天竺⇒百済⇒倭国へと渡来し、さらに難波⇒信濃へと移って安置された次第を、「中音」⇒「初重」⇒「中音」と節を替えつつ朗々と語ったのち、「初重」にて、霊寺・霊山が次々と亡びる様は、王法が末になる先表だと淡々と語って終える。

 

  <参考> 

 

 この事件も実際に起きたのは治承3(11793月のこと。

 これも王法と一体である「仏法衰微」の事件として、「平家物語」作者によって、実際に起きた時期とはずらされて、清盛による後白河院近臣団粛清事件の直後に置かれたもの。

 善光寺は創建年代不詳。

「善光寺縁起」では、本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、仏教が生まれた天竺(インド)の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済経由で聖王(聖明王)から日本に献呈された最古の仏像とされる。廃仏派の物部氏によって難波の堀江に捨てられるが、本田善光(若麻續東人とも言う)に拾われ(一説に和光寺)、南信濃の元善光寺(現在の長野県飯田市)へ、次いで現在地に遷座したと伝えられる。

★「日本書紀」の成り立ちと性格を示す貴重な史料

 「平家物語」がその縁起から詳しく引用しているように、この仏像が日本にもたらされた時金色に輝いていたので、年号を「金光」と改めたとの故事が引かれている。 この「金光」は私年号とされる「九州年号」の一つで、実際には、近畿大和などを拠点とする現天皇家以前に列島を統治していた倭国・九州王朝の年号であり、「善光寺縁起」の記述は、この百済から仏像などが送られた事件は、「日本書紀」が記すのとは異なり、実際には大和の王朝に対してではなく、北九州を都とする倭国王朝への遣使であったことを反映した、興味深い史料である。つまり「日本書紀」は、倭国九州王朝に対する百済国の遣使の記事を、大和の当時は大王国である国への遣使に書き換えたとこいうもので、このことから「日本書紀」編纂の目的と方法とが明らかとなる。

 

★「平家物語」成立の年代を示す貴重な史料

 なお治承3(1179)年324日の善光寺大火(原因は落雷)が史料に残った理由は、善光寺信仰が平安末期には関東地方に広がり、その火災からの再建が急がれていたが、信濃国が頼朝の関東御分国となったことをきっかけとして、文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護兼目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ(『吾妻鏡』同年728日条)、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣したからである。

 

 従来ほとんど注目されこなかったことであるが、「平家物語」に「吾妻鑑」所収の「善光寺炎上」の話が詳しい年代とともに引用されているという事実は、「平家物語」成立が「吾妻鑑」成立の後である可能性を示している。

 

 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃と見られている。

 

 ということは少なくとも「善光寺炎上」を引用している「平家物語」諸本の成立は、最も古態を示していると考えられる「延慶本平家物語」や「源平盛衰記」だけではなく、語りの原本であり最も新しい状態を示していると考えられている「覚一本平家物語」も、すべて鎌倉時代末期の14世紀初頭以後の成立となり、従来承久の乱直後の13世紀初頭成立と考えられてきた通説とは、一世紀も後の成立という新説が生まれてくることとなる。さらに「善光寺炎上」を含まない、八坂系の語りの原本と考えられている、灌頂巻を最後とせず、「六代の死」という平家嫡流の終焉の形で物語を終えている「120句本」平家に、もっとも古い形の「平家物語」の形態が伝承されているという可能性も生まれてくることになるのだ。