▼主な登場人物 ●徳大寺実定:1139-1192.2.1 右大臣藤原公能と権中納言藤原俊忠の娘豪子の子。白河朝以来代々の皇妃・国母を出した閑院流藤原氏の流れで、同母姉妹に忻子(後白河天皇中宮)、多子(近衛・二条両天皇の后)がいる。永治1(1141)年3歳で叙爵。応保2(1162)年従二位、長寛2(1164)年権大納言になるが、翌年永万元年(1165)藤原実長の位階を超えるために大納言を辞して代わりに正二位に上ったが、以後12年間、官につくことはなかった。安元3(1177)年3月権大納言に還任し、同年12月に辞任した平重盛に代り左大将となる。寿永2(1183)年内大臣。同年11月義仲と結託した関白藤原基房の子の師家に内大臣職を貸して辞したが、翌年1月義仲の失脚とともに内大臣に還任。文治1(1185)年平家滅亡後、源頼朝の奏請で議奏公卿のひとりとなり、翌年右大臣。同5年左大臣。建久1(1190)年辞任した。歌人として優れ『千載和歌集』以下の勅撰集に76首入集。また,笛,神楽,今様などにも通じる。
<物語のあらすじ> 清盛の次男平宗盛に大将を先んじられた徳大寺実定は、籠居して出家を決意したが、ある夜月見をしているところに諸大夫の藤蔵人大夫重兼が参ったので出家の気持ちを話したところ、重兼は「平家の敬う安芸厳島を御参詣あれ。7日程も参籠すれば、かの社の内侍どもが何事とて歓待しよう。そして参籠の理由をありのままに申し述べれば、お帰りの際に名残を惜しむ内侍たちを召し具して都まで帰り上られよ。さすれば内侍たちは西八条に参るはずだ。そこで入道相国が徳大寺参詣の理由を問えば、内侍たちはありのままに申し上げるであろう。入道相国は感激しやすい人だから、厳島参詣を悦んで、きっと良きように計らってくれましょう」と申し述べた。徳大寺は「ありがたき謀かな」とて厳島参詣を実行。ことは重兼の謀のままに進み、入道相国は、内大臣重盛に左大将を辞めさせ、右大将の宗盛を越えさせて、徳大寺を左大将に成された。新大納言成親も、かように振舞って居れば、吾身を滅ぼすには至らなかったであろう。
<聞きどころ>
「徳大寺厳島詣」は二つの段に別れる。 最初は実定が出家の意思を重兼に述べ、重兼が厳島詣という解決策を提示する段。 月見をしている実定を重兼がおとずれる様は「口説」で淡々と語られるが、出家の決意を述べる段は「折声」で切々と語り、重兼の対応の当初は「指声」で少低い音域ながら切々と出家を思いとどまるよう説き、その後厳島詣という解決策を提示する際には、「素声」⇒「口説」でさらっと語り、徳大寺が納得して厳島詣に出立する次第を「強下」で強調して語り終える。 二段目の実際に厳島詣の次第は、まず冒頭に「中音」で厳島の内侍どもが徳大寺を歓待する様を朗々と語り、徳大寺が参詣の理由を内侍どもに語る段は「口説」でさらっと語り、徳大寺の帰洛に際して内侍どもが付き従い徳大寺の邸まで至り、内侍どもを歓待する様は「下げ」⇒「指声」で印象的にさらっと語り終える。続いて内侍共が西八条の清盛邸に参じ、徳大寺厳島参詣の次第を語る段は、「素声」⇒「口説」でさらっと語り、徳大寺の行為に感激し徳大寺を左大将にと抜擢する清盛の行動を、「強下」⇒「折声」⇒「中音」と次々の節を替えて、印象的に朗々と語って終える。
<参考>
この話は、徳大寺実定が、永万元年(1165)に権大納言を辞してから安元3年(1177)3月に権大納言に還任し12月に左大将に着くまで12年間官に着かなかったという事実と、安元3年(1177)6月に平重盛が左大将を辞任し、代わって12月に徳大寺実定が左大将についたという事実を元に、さらに、この左大将交代劇の背後には「重盛辞任の跡を期待して実定が所願成就の際には厳島を参詣すると願を建てたところ、その願いが叶ったので、治承3年(1179)3月に厳島に参詣した」という「古今著聞集」の所伝を参考にして、「平家物語」作者が創作した物。 徳大寺実定が平宗盛に大将を先んじられたので権大納言を辞したというのも、「平家物語」の創作であり、実定が厳島詣でをしたと聞いた清盛が嫡子重盛に左大将を辞めさせ、代わりに徳大寺実定を任じたというのも「平家物語」の創作。 徳大寺実定が永万元(1165)年に同職藤原実長に位階を越えられたことを恨んで権大納言を辞して正二位に昇ったあと、安元3年(1177)3月に権大納言に還任し、治承元年(1177)12 月に左大将に戻るまで官に着かなかった理由は、この徳大寺家と平家とが競合関係にあったために、実定が復権することを平清盛が阻止したためだ。 これは、徳大寺家が、鳥羽―近衛―二条と続く「鳥羽王朝」を支える最有力な公卿であり、永万元(1165)年に二条院の跡を受けて即位した六条天皇を支える最有力な公卿だったからだ。
実定が権大納言を辞任した永万元年(1165)は二条院死去と六条帝即位の直後、ある意味清盛にとって、後白河−高倉王朝確立の障害物出会った邪魔者が自ら朝廷の最高決定機関である陣定(公卿会議)から消えてくれた。 したがって清盛は実定が官に着くことを阻止すると同時に、高倉天皇の大嘗会に奉仕する女御代に実定の娘が選ばれながら突如清盛の娘に差し替えられた事(『兵範記』仁安3年7月30日・8月28日条など)、実定が清盛の側近である藤原邦綱の娘(母親は実定の妹)と縁組しようとした際に清盛が阻止に動いた事(『玉葉』治承元年11月11日条・『愚昧記』同年11月15日条)など、実定の政治的復権につながりうる動きには掣肘を加えている。 実定が大納言に還任した安元3年(1177)3月は前年高倉が成人して親政を志向し、後白河院政との対立を深めたとき(6月が清盛によって院近臣団粛清となる)。実定が左大将となった背景は、この事件で平重盛が左大将を辞したことがある(物語のように清盛が辞めさせたのではなく、抗議の辞任)。院政を制誅しようとした清盛は、高倉親政を確立するために、鳥羽派重鎮の実定をも味方につけようとしたのではないか。この大納言還任を「平清盛の同情を乞うために厳島神社に参詣したためと」した「平家物語」の記述は「古今著聞集」所伝の話を元にした作り事。実際に実定が厳島に参詣したのはこの2年後の治承3年(1179年)3月のことだ。 ※徳大寺実定の厳島参りの実態については、水原一校注の新潮社刊「平家物語」上のp198の注などを参考に考察した。
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