大納言死去(新大納言死去)
▼主な登場人物 ●俊寛僧都:生没年不詳 後白河院の近習僧、法勝寺執行。村上源氏権大納言源雅俊の孫で木寺法印寛雅の子。父寛雅のあとを襲い仁安(1166〜69)ごろから法勝寺執行としてその名がみえ、膨大な法勝寺領を管掌し、院関係の仏事を勤めた。安元3年の清盛による院近臣粛清事件で解官され、流罪となり、配流地で死去したものと見られる。 ●平判官康頼:生没年不詳 明法道の家柄である中原氏に生まれる。10代で平保盛(清盛の甥)の家人となり応保3(1163)年正月に保盛が越前守となると主人と共に赴任。このころ平姓を許されたとみられる。仁安元(1167)年12月に保盛が尾張守となると康頼は目代として派遣され、尾張国知多郡野間の荘にあった故源義朝の荒れ果てた墓を修復し御堂を建て、この保護のために水田30町歩を寄進。康頼は目代ながらも武士道の礼節をわきまえた者と評判になり、噂を聞きつけた後白河院に召され北面の武士に。また後白河院から今様を習い上手となるとともに院近臣となり検非違使左衛門尉にも抜擢された。安元3年の清盛による院近臣粛清で解官され配流。配流の途次で出家し性照と名乗る。後に許されて治承3(1179)年に帰洛。帰洛後の消息は定かでないが、「平家物語」によれば東山双林寺あたりに住み、『宝物集』と著したとされる。文治2(1186)年、義朝の墓を整備した功により源頼朝から阿波国麻殖保の保司に任ぜられる。 ●藤原成親:保延4(1138)〜安元3.7.9(1177.8.4)。中納言藤原家成の息子。父の中納言家成が富裕な受領であり、鳥羽院の寵臣であった関係から、若くして後白河近臣となる。また父家成の下に平清盛が通って出世した関係で、平氏とも関係が深く、成親の妹は清盛嫡男の重盛に嫁ぐ。『愚管抄』に「フヤウノ若殿上人ニテ有ケル」と評される美貌を持ち、後白河院の寵愛を受けて昇進を重ね、頭中将を経て仁安1(1166)年公卿に列せられ、安元1(1175)年正二位権大納言に至る。しかし出世欲が強く、平治の乱(1159年)では藤原信頼に与同し解官され、妹婿平重盛のとりなしで許され、応保1(1161)年には平時忠らが謀った憲仁親王(のちの高倉天皇)立太子事件に関わり解官された後許され、また嘉応1(1169)年成親の知行国尾張の目代藤原政友が山門(延暦寺)領美濃国平野荘の神人を凌轢するという事件を起こし、延暦寺の訴えにより解官、備中国に配流されたが、これも後白河院の強力な保護により復任されるなど、浮き沈みが激しい人物である。安元3年6月清盛に捕縛され備前国へ配流後解官。7月配流先で死去。
<物語のあらすじ> その後俊寛僧都・平判官康頼・丹波少将の三人は薩摩の鬼界が島に流された。このことを聞いた大納言は出家を志し、その意思を小松殿に伝え、これは法王にも達してその許しも得、やがて出家された。大納言の北の方は京の北山に忍んでおわしたが、大納言が備前児島から有木の別所に移されたと聞き、身近に使える源左衛門尉信俊に命じて、有木に自分の手紙を届け大納言の返書を貰ってくるようにと命じた。有木に着いた信俊は難波次郎の許しを得て大納言に見参、四五日過ぎて「このまま近侍して御最期を見届けたい」と談じたが許されず、大納言の形見の文をもって北山の北の方の元に戻っていった。大納言の文には形見の一房の頭髪が添えられており、北の方や幼子を始め一同は泣き暮らした。8月19日大納言は備前・備中の境なる庭瀬の吉備の中山にて亡くなられた。御最期の様子はさまざまに伝えられ、酒に毒を入れたが死なず、約2丈(6m)の崖の下に菱を植えたところに上から突き落とされて菱に貫かれて死んだとも伝えられている。これを伝え聞いた北の方は菩提院にて出家し、かたの如く仏事を営み、大納言の後世を弔った。
<聞きどころ>
「大納言死去」。この句も三つの段に別れる。 最初は息子丹波少将ら三人が薩摩潟鬼界が島に流されたことと、その地の様子を語った部分。 三人が流されたことは 「口説」で淡々と語った後、その地が僻遠の地であり京とはまったく異なる不毛の地であることを「三重」⇒「初重」で美しく語り上げる。 第二段は、大納言の出家と北の方の使い源左衛門尉信俊が庭瀬を訪れ、北の方への形見の品を京に持ち帰る場面。 冒頭大納言出家の次第を「口説」で淡々と語った後、北の方が密かに大納言のいる庭瀬に使いを送ろうと決意する様を「中音」⇒「初重」で美しく語り上げ、続いて身近に使える信俊が使者となるまでを、「口説」⇒「折声」⇒「口説」と節を替えながら印象的に語り、大納言と信俊の再会の場面は「素声」、その後信俊と大納言面談の場面は基本「口説」でさらっと語るも、北の方の書状を大納言が見る場面だけは「中音」で涙を誘うように美しく語る。最後に信俊と大納言との別れと、信俊が大納言の手紙を北の方の元に持ち帰り、それを読んだ北の方と若君姫君が悲歎に暮れる場面は、「中音」⇒「初重」の美しい節で朗々と語り終える。 第三段が大納言死去の場面。 冒頭「素声」で大納言死去を伝え、その凄惨な最期を淡々と語り終える。その後大納言の死を伝え聞いた北の方が出家し仏事を行うさまは「中音」だけで朗々と悲し気に歌い上げて終わる。
<参考>
成親の死去の様子は「平家物語覚一本」では、「いろいろに伝えられた」としながらも、8月19日に「酒に毒を入れて進めたけれど死ななかったので、二丈(6m)ほどの崖の下に菱を植えておいて突き落として殺した」説を採用して記述している。 他の平家本では、「源平盛衰記」がいろいろの伝を伝えていて、「二三日食事を断ち、酒に毒を入れて殺し奉る」や「谷底に菱を殖えて、高きところより突き懸けて失い奉る」や「船に乗せ奉り、燠(おき)に漕ぎ出でてふしづけに為したり」との説を伝えている。「覚一本」はこの最初の二つの伝を採用したわけだ。 さらに慈円の『愚管抄』では、「7日ばかり物を食わせで後、さうなきよき酒を飲ませなどしてやがて死亡してけり」と、食事を絶たせて体を弱らせた上で毒殺したとの伝を採用している。 かように「大納言死去」の様子はいろいろ伝えられているが、確実性の高い史料では、当時右大臣の九条兼実の日記「玉葉」は大納言死去の伝を全く伝えず、伝えているのは、当時神祇伯であった顕広王の日記「顕広王記」だけ。安元3年7月9日の条に「入道大納言成親卿、備前国にて薨。年30云々。艱難の責めによって飲水増気云々。実は飲水を飲まずか。条々の迫責その命堪えず、薨去しおわんぬ。」と記されていただけ。さまざまに拷問を加えたために水も飲めなくなって死んだということだ。死去の日は「平家物語」とは異なり7月9日と伝えている。 この「顕広王記」の記述と、前記の「平家物語諸本」や「愚管抄」の記述を比べてみると、前者では「殺害された」とし、しかもかなり凄惨な殺され方だったとしていることが見て取れる。 事実は拷問に耐えられずに病死したのであって、物語類は清盛の横暴を強調するために凄惨な殺され方をしたと記述したということであろう。 なお「顕広王記」で確認される大納言成親死去の地は「備前国」とあるだけで詳らかではない。そもそもこの「流罪」が公的なものではないので、公記録には一切配流先が記されていないのだ。 したがってここは物語類の記述によるしかない。 それらによれば、大納言死去の地は、備中国の庭瀬郷の有木の別所であり、そこは吉備中山の山中であったということだ。 地図で確認できるように、ここ庭瀬は備前国府近傍の地で、備前備中両国の境近くにある吉備中山の山麓の地であり、吉備津彦の墓が山頂にある吉備中山の東北の山麓に備前一宮吉備津彦神社があり、西麓には備中一宮吉備神社がある。有木はこの二つの一宮の中間の地である。また別所とは一般には寺院の隠居所や修行場を指すが、国境近くに置かれた別所の多くは、古代において蝦夷俘囚を配置して鉱山開発や金属加工をした役所の地をさす場合が多い。有木別所は備前備中の国境なので後者を指すのではなかろうか。 ということは大納言成親が配流された先は、備前国府にほど近く、鉱山開発のための役所が置かれた場であって、「山中」の語が示すような、人里離れた辺鄙な場所という意味ではない。 罪を侵した貴族である流人を置く場であるから、それは当然役所の監視の目が行き届く場であり、役所や国内有力者の館があった場で無ければならないはずだ。 したがって鉱山開発のための役所が置かれた国府近傍の地という有木別所は、罪を侵した貴族である流人を置くに相応しい場所であったといえる。
この点では大納言の嫡子丹波少将成経と俊寛僧都・平判官康頼が流された地は、確実な史料では『公卿補任』の「遠き島」が確実で、どこの島であるかは不明である。 「平家物語」諸本は「鬼界島」とし、「愚管抄」ではそれは薩摩の国の南方の硫黄島としており、これが定説化している。 しかし、ここは屋久島や種子島の西方にある海底火山鬼界カルデラの西北にある中央火口丘で、今でも噴火が続く地である。現在では69世帯123人の人口を数える畜産と漁業の島であるが、1000年ほど前にはどうであったのだろうか。貴族で流人である人を置きかつ監視できる場であったのだろうか。 気象庁のサイトの噴火記録によると、 https://www.data.jma.go.jp/vois/data/fukuoka/508_Satsuma-Iojima/508_history.html 鬼界カルデラは7300年前の完新世では国内最大規模の噴火(アホヤ噴火)で生成されたが、硫黄島はそのカルデラの縁にできた成層火山で、6000年前以後に海面に姿を現し、以後現在に至るまで活発な火山活動を続けている。成層火山である硫黄岳では500〜 600 年前(15〜16世紀)にも、火砕流を伴うマグマ噴火が発生しているという。近年では1934年から35年(昭和9から10年)に硫黄島の東の近海の海底で大規模な噴火が起こり硫黄島新島(昭和硫黄島)が生成され今も噴気が絶えない。また硫黄岳でも、噴火は絶えず起こり、2019年以降は毎年のように小規模な噴火が続いている。 たしかにこの島は過去において噴火口周辺で取れる硫黄の採取が行われ続けた場所であり、そのための役所もあったやもしれないが、常に噴火が起こる地は、場合によっては都に呼び返される貴人でもある流人を置く場として相応しいものであったろうか。 流人の地として使われたのは、江戸時代の薩摩藩の時代である。 この活火山である薩摩硫黄島よりも、伝俊寛僧都墓のある、さらに南方奄美諸島との境界の地である喜界島の方が貴人配流の地に相応しい。ここは石灰岩の島であり平地も多く農業にも適地である。この地は古来太宰府との繋がりが強く、ここには朝廷の大規模な役所が置かれ、しばしばこの海域を荒らす海賊(奄美大島の人々)追討の命が出たことが史書に記録されている。また近隣の奄美群島は夜光貝の産地で、この貝は螺鈿装飾の素材として使われるので、古来喜界島は、この夜光貝を奈良や京都に運ぶための中継地として重んじられ、鎌倉時代には北条得宗家の代官が統治する重要な地であった(室町時代の混乱の中で琉球王国の統治下に入る)。 俊寛の墓では墓石の下から人骨と木片が見つかり、地元自治体は1975年、中尊寺の奥州藤原氏のミイラや徳川歴代将軍墓の調査などにもたずさわった国立科学博物館人類研究部長の鈴木尚氏に鑑定を依頼。鑑定の結果、かなり古い時代のもので、島外の相当身分の高い人物だとされた。島外の人物というのは、木片が木棺の一部で、本州の木曽地方のクロベ(ネズコとも呼ばれる)材だったことから判断された。この鑑定結果により、地元では俊寛が最後を迎えた島は喜界島であると考えている。 これらのことから丹波少将成経・法勝寺執行俊寛僧都・検非違使左衛門尉平康頼という貴人の流刑地としては喜界島が相応しいと思われる。 「平家物語」の鬼界が島の記述が火山島に相応しい荒々しいものになっているわけは、「愚管抄」がこの火山島である薩摩硫黄島が三人の流刑地だと断定したことに依拠した創作と思われる。
※資料:庭瀬の有木の別所については、新潮日本古典集成「平家物語上」水原一校注 p172・189・192の注を参照した。
|