ワークシェアリングD−再論・ワークシェアリングとは?−


ジムさんの意見
 皆様、はじめまして。ジム、Justiceネットワーク参加者です。
 ワークシェアリングについて今までの対談を読んできましたが、個人の生き方を模索していくための契機にするという点には賛成でき
ます。働き方の1つの選択肢としては有効なのではないかと考えます。
 ただ、対談を読んでいるとどうも経営者対労働者という図式からしか語られていないような気がします。疑問なのですが、このワーク
シェアリングという概念は、雇用されている人(給与所得者)に対してだけのものなのでしょうか?
 企業内で所謂ブルーカラーの人たちの仕事の分割、時短は原理的には可能だと思います。(賃金確保の話はとりあえず保留としたとき)
 しかし、研究開発のような仕事の成果物によって対価が決まるような場合、この場合はその人が持っている個人的な能力・知識が重要
となるわけで、単純な仕事の分かち合いは難しいと思います。(*ただし、現在でも成果物に対して賃金が決まるということは少なく、
就業時間で賃金が決まる方が多いですが、将来的に成果主義、能力主義に移行していくと考えられます。)
 また、一般の自営業者、個人事業主、農林業関係者のワークシェアリングは可能でしょうか?
 これもある意味特殊技能を必要とするため、単純な”分かち合い”は難しいと思うのですが・・。
 ということで、労働時間を減らして個人の時間を増やすということには大賛成です。ただ、それを全ての労働者に適用できるかという
と疑問が残ります。その意味で働き方の1つの選択肢という捉え方が有効なのかなと・・。

 

 私見なのですが、これからは個人の能力ということがクローズアップされていくのではないかと感じます。単純な時短・賃金アップで
個人の充実を図るのではなく、個人が自分の能力を伸ばして、いかに充実した仕事・生活が送れるかということです。
 これは経済的に充実しているということではなくて、自分が打ち込める好きなことをやって、その結果を、うまく社会に還元できれば
充実した生活できるのでは、という考えです。
 JMMの”IT革命”の対談では、ITによって貨幣という価値が崩壊して、非経済的な別の価値が生み出される可能性が示されてい
たと思います。そのような新しい価値を生み出す能力がこれからは必要とされるのではないでしょうか?
 しかし当然、そういう価値のあるアウトプットを出すためには才能・能力が必要で、そういう訓練を積まない人達は単純労働に従事す
るようになるかもしれません。それも、1つの選択肢ということです。と、こんな感じですが・・。

ジムさんの意見に対するコアラのコメント
 ワークシェアリングは全ての労働者に適用できるものではないと思います。あくまでも不況化での失業を減らすために、可能な部分で
労働を分割し労働時間を短縮する考え方だと思います。基本的には単純作業の分野が第一の適用範囲だと思います。研究開発のような分
野では時短をするには別の考え方が必要ではないでしょうか。というよりそもそもこの部分は成果に対する報酬になって行くと思います
からそもそも拘束される労働時間という考え方がなじまない分野です。
 自営業者の場合はどうなのでしょう。これは社会的な剰余労働の取り分の問題になってくるのかな?。
 巨大企業と中小企業との利益の分配の問題でしょうか。

ジムさんの意見に対するアイさんのコメント
>経営者対労働者という図式からしか語られていないような気がします。
>疑問なのですが、このワークシェアリングという概念は、雇用されている人
>(給与所得者)に対してだけのものなのでしょうか?
>
>仕事の成果物によって対価が決まるような場合、この場合はその人が持っている
>個人的な能力・知識が重要となるわけで、単純な仕事の分かち合いは難しいと
>思います。(*ただし、現在でも成果物に対して賃金が決まるということは少なく、
>就業時間で賃金が決まる方が多いですが、将来的に成果主義、能力主義に移行
>していくと考えられます。)
> また、一般の自営業者、個人事業主、農林業関係者のワークシェアリングは
>可能でしょうか?これもある意味特殊技能を必要とするため、単純な”分かち合い”
>は難しいと思うのですが・・。
 メルマガでは問題提起として、一部紹介的な内容に留めています。
 No17の問題点のところで、「研究、サービス部門など職種により、時間で働く概念はなじまない」と、また文中でも、職種・業種は
無数にあるということにも触れていますように、それぞれについては、さらに掘り下げていく必要があります。
 “概念”という定義は、状況に伴って変化していくものであると言えるでしょう。よって、現在、ワーク シェアリングは、ある程度
限られた範囲での議論がなされていますが、今後は、段階を経て、その業種に即した形態で浸透していくと予想できます。
 職種・業種の垣根を越えて、人生の中の、生きていく上での“仕事”について、各人様々に考えていると思います。そうした人々が、
自分が携わる仕事の全体像を、より踏み込んで捉えるようになってくれば、自ずと前進するでしょう。
>ただ、それを全ての労働者に適用できるかというと疑問が残ります。その意味で
>働き方の1つの選択肢という捉え方が有効なのかなと・・。
 そうですね。何事においても一括りに纏めてしまうというのは不可能でしょう。ワーク シェアリングに関しても同様で、もちろん、
そういう視点から述べています。
>自分が打ち込める好きなことをやって、その結果を、うまく社会に還元できれば充実
>した生活できるのでは、という考えです。
 こちらは、私がメルマガでも繰り返し述べていますが、「向き、不向きなど、適性に配慮した役割分担的社会構造」の考え方に近いと
感じるのですが、ジムさん、いかがでしょうか・・・

コアラ・アイのコメントに対するジムさんの返事
 コアラ様、アイ様、ワークシェアリングに関しての返信ありがとうございます。
 現段階でのワークシェアリングの概念は、やはりまだ限定的なものなのですね。労働時間を減らして個人の時間を持つということにと
ても魅力を感じたので、それが全ての労働者に適用できたらと考えてあのようなコメントをしてみました。
 研究開発分野のワークシェアリングについて少し考えてみたのですが、アウトソーシングとの兼ね合いで実現の可能性が出てくるのか
なぁ、なんて考えてみました。アウトソーシング(業務の外部委託)によれば、あるプロジェクト単位で受注して、その成果に対して対
価が決定されるため、特定の決められた仕事を分かち合うことが可能なのかな、と。
 もちろん、まだそれを実現しているところはほとんどないですが。
 なんか、”個人を考える”というテーマから外れてしまいました。政策論じゃないですからね。
 それから、アイさんの、「向き、不向きなど、適性に配慮した役割分担的社会構造」についてですが、私はそれに関しては否定的です。
役割分担というからには、社会全体を見渡した上での自分の向き、不向き、適性を見極める必要がありますが、そのように見つけた自分
の適性というものは、本当に自分のものとなるのでしょうか?
 自分の本当の適性というのは、社会との兼ね合いとは隔絶したところにあると思います。社会の中での自分の役割ということを考えて
しまうと常識や、世間体に縛られて何もできなくなるのではないでしょうか。
 つまり、「他人の事は気にせず、自分の好きなことをやりましょう」(標語風)ということです。ちょっと語弊があるかもしれません
が・・。

ジムさんの返事に対するアイさんのコメント
>それから、岩永さんの、「向き、不向きなど、適性に配慮した役割分担
>的社会構造」についてですが、私はそれに関しては否定的です。
>役割分担というからには、社会全体を見渡した上での自分の向き、
>不向き、適性を見極める必要がありますが、そのように見つけた自分の
>適性というものは、本当に自分のものとなるのでしょうか?
> 自分の本当の適性というのは、社会との兼ね合いとは隔絶したところに
>あると思います。社会の中での自分の役割ということを考えてしまうと
>常識や、世間体に縛られて何もできなくなるのではないでしょうか。
>
> つまり、「他人の事は気にせず、自分の好きなことをやりましょう」(標語風)
>ということです。ちょっと語弊があるかもしれませんが・・。
 そうなんです。「役割分担」という言葉使いではおそらく、押しつけがましいという解釈がなされ、私が意図するものとは別の意味合
いで伝わる可能性があると思っています。それで、他に適した言葉を探しているのですが・・・
 ですので、メルマガでも述べましたが、これはあくまで強要とは異なるものです。
 「自分の本当の適性というのは、社会との兼ね合いとは隔絶したところにあると思います。」との、ジムさんがおっしゃりたいことは
分かる気がいたします。ただ、それは、これまでの制約だらけの社会に対してではないでしょうか。
 今後、さらに個人化が展開されてからの社会に置き換えて、考えてみてはいただけないでしょうか・・・
 また、以前にも触れましたが、「人はやはり、ひとりで生きていくことは困難だということ、ゆえに社会形成が発生する」ということ
とも一度、考え合わせていただけたらと思います。

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