ワークシェアリングB 議論の発展―余暇について―
スマさんとアイさんの討論―余暇について―(メールマガジン教育問題・個人として生きる19にて)
○スマさんの提案
ワークシェアリングについて対話しましょう。
まず、アイさんはワークシェアリング実現に向け五つの壁を提起していました。つまり、
1.賃金と時短の兼ね合い
2.根本からの経済システムの再構築
3.職業意識の向上と職能・技能の養成
4.ワーク シェアリング導入に向けての環境整備
5.社会保障の充実など です。
しかし、最も重要な壁が一つ抜け落ちているので指摘したいと思います。それは、余暇が十分に生じた時に「打ち込むべき何か」を
日本人が持てるのかどうかという点です。もしかしたら、3番目の「職業意識の向上と職能・技能の養成」に含まれるかもしれませんが、
そうだとしたら補足して下さい。
例えば、海外旅行一つにしてみても旅行自体を楽しむというよりもむしろ、帰ってきて「へ〜どこどこに行って来たの。」と近所の
人達に思われたいがために旅行に行くという悲しい性が日本人にはあると思います。これを、克服するためには教育や学習に対するとい
うかもっと言ってしまえば『哲学』に関わる根本的思想が必要だと考えます。マホメットが、イスラム革命を起こした時のようにです。
今の日本にこの役割を担える思想家がいるでしょうか?
というかそもそも、思想家を受け入れる土壌があるでしょうか? 思想が必要だという事を認識している人がどれくらいいるでしょう
か? この点を忘れると時短では単なる抜け殻になる人が多くなると思います。
ちなみに、時短の後に受け入れるべきなのは、『思想』ではなく『趣味』であるという考え方もあるかもしれませんが、これに対して
は懐疑的というか真っ向から反対したいと思います。
つまり、働く時間を減らして「盆栽」とか「能」とか「短歌」に興じる時間に費やすというならばむしろ、働いていた方が良いと思い
ます。(盆栽や短歌がいけないという意味では無く、それが人生の核になるのがまずいのではないかという意味です。)ローマ帝国が、
パンとサーカスを要求して滅びた事例は有名ですがこれを危惧します。とは言え、ワークシェアリングに反対するわけではありません。
『思想』の必要性を認識すべきであるという条件の下、ワークシェアリングを実行すべきだと思いました。
ちょっと突飛よしも無いはずですが、21世紀ではなく22世紀や23世紀はどういう世界になると思いますか?
日本の歴史を大雑把に、明治以前の封建社会、明治以後から最近までの中央集権・製造業的社会、そして21世紀の知価・ソフト社会
と3つに分類した次に来る世界・社会です。まあ、僕等は死んでますが(笑)
まさか、知価・ソフト社会が永久に続くわけはないしその前に地球が滅べば意味無いですが、やはり人類は宇宙や海洋開発に乗りだす
のではないでしょうか? 宇宙・海洋開発なんてトンデモナイ「知」の集積が求められるわけでその時に、「盆栽」や「短歌」に興じて
いた国民・民族は生きる術が無いでしょう。つまり、次の世代ではなく次の次もしくはその次くらいを考えたとき「趣味」に興じるのは
まずいですね。
誤解しないで欲しいのは、これは現行の教育制度を擁護するものではないという事です。何か、「一生懸命勉強しろ!!」という論調
に聞こえるかもしれませんがそうではなくて、そもそも勉強とは何か?学問とは何か?という事に対する根本的思想が要求されていると
いう事です。その他、外国人労働者との係わり合いが重要なキーになるかもしれませんが、詳しくないし考えがまとまらいのでまたの機
会に譲ります。
○アイさんの意見
『余暇が十分に生じた時に「打ち込むべき何か」』とのスマさんのご意見ですが、正直言って、確かにその観点は、なおざりにしてい
ました。何故かというとその理由は、指針となるようなものは大切だと思いますが、各個の余暇に「打ち込むべき何か」まで、提案する
必要性はないと考えるからで、そこまで範囲を拡大してしまったら、逆に、個人化の後退に成り兼ねないと感じるためです。
また、スマさんのお考えの意味も把握しています。それは、ある程度の思想的素地を備えている、或いは養うといったことを前提とし
た上で、余暇をどのように過ごすか、ということをおっしゃっているのだと解釈して良いでしょうか。
ですので、その前提となる部分に関しては、充分な考察と議論が不可欠だと考えますが、その前に、歴史的背景について整理しようと
思います。
日本において一般庶民に勤労・勤勉思想を根付かせた大きなきっかけ・要因を、ここでは2つ挙げたいと思います。
1つは、明治維新以後、工業・産業の近代化に伴った実質上の資本制への移行と、
1つに第二次世界大戦中・後と言えるでしょう。
それでは、それ以前はどうだったのでしょうか。
例えば、江戸時代中期は、幕藩体制の安定により、町人の台頭、学問文化の興隆など清新な気風がみなぎったといいますが、その、
特に江戸においては、実際の労働期間を一ヶ月単位でみると月の1/4くらいで、(この時代は太陽暦ではありませんが、目安として)
要するに、生活に必要な収入だけを稼いでいたそうです。そして、元禄文化といわれる享楽的一大文化が湧き起こり、また、上方(
現関西地方)を中心に元禄文学といわれる町人文学が、一つの頂点に達しました。
これらのことから、様々なことが考えられると思いますが、いかがでしょう・・・
現在の日本も、不況の最中であることは間違いありませんが、国家が傾くほどまでにはいっていませんし、世界的には安定しているう
ちに入ると見ていいでしょう。
よって、まさに「何かに打ち込む時間」があれば、可能性は未知数なのではないでしょうか。
スマさんは、歴史的に古代ローマの例えを挙げられていますが、私は危惧することはないと思っています。古代ローマに限らず、史実
というものは、その時代のその人間であったゆえに起こり得たとも言えるからです。繰り返しますが、歴史から学ぶことは極めて意義が
あります。しかし、生物も環境も刻々と変化しているのです。なので、この時代の我々に置き換えた場合、符号が一致するとは考え難い
からです。
話を戻しますが、実際に、仕事以外の時間という余暇が出来て、時間を持て余してしまうという人は、今後、かなり少なくなるのでは
ないでしょうか。前述のように、ある世代以前は、「勤労・勤勉でなければ、人間ではない」という教育を受けて育ちました。しかし、
団塊の世代以降は、(団塊世代の方、全てということではありません)むしろ、「やりたいことが多すぎて、時間が足りない」という
言葉をよく耳にします。
それと、趣味に関してですが・・・ 趣味は無数にあり、定義などいらないものと、私個人としては考えています。
スポーツ・芸術・文化・旅行・動物の飼育など、一般的なものを挙げても切りがありませんが、それぞれ興味の赴くままに、あまり
既成概念にとらわれずに、楽しめばそれで良いのではないでしょうか。 本来、趣味は、熱中できるもの、リラックスできるものなどで
あるのです。よって、「思想的素地の育成」と「趣味」のポジションは別物で、切り離して進めるべきです。
趣味とは、“気分転換”とも言われるように、スイッチの切り換えであり、生きていく上での「潤滑油」でもあるのです。思考すべき
時は思考し、脱力するときは存分に脱力して、また英気を養う。人間の精神・肉体構造上、これは非常に大切な代謝なのです。
それから、スマさんも「盆栽や短歌がいけないという意味では無く、それが人生の核になるのがまずいのではないかという意味です。」
とおっしゃっていますし、私も別段、「盆栽」や「能」、「短歌」を嗜んでいる訳ではありませんが、少し説明させてください・・・
短歌や俳句などは、あの短い文中に、知性と五感を集約させる高度なテクニックを要するものです。この四季の移り変わりが美しい国
に生まれた、日本人の元来鋭敏な感性によるものです。(ご承知のように、短歌と俳句では、形式や決まり事など異なってきますが)
また、聞くところによると、盆栽や能などは「精神世界」をも表現したものだそうです。盆栽、ひいては日本庭園などは造形美に留まら
ず、宇宙にも通じる思想を抱いているとも。そして、近代ヨーロッパにおいては、個性的かつどこか神秘的な日本様式を模写した、ジャ
ポニスムというブームさえ巻き起こり、芸術家は創作に取り入れ、ブルジョアはこぞって、日本庭園から日本様式の美術・工芸品に至る
までを造らせたということです。
こうして歴史的に見ると、日本は、諸外国に引けを取らないばかりか、影響すら与えるほどの文化を所持しているのです。“している”
と現在形で言ったのは、今でも持ち得ているからです。ただ、これら日本の伝統文化・芸術は宣伝媒体に乗っていないので、その他情報
過多に押され、その素晴らしさを現代日本人は忘却しているだけなのです。(歌舞伎など乗っているものは、現在でも輝きを保っています
ね) かといって、日本の芸術文化だけを素晴らしいと言っているのでもありません。このように気付いていないだけで、『眠っている
文化価値もある』ということを伝えたいのです。
文化も言語も、時の流れともに淘汰という波に洗われます。しかし、文化などを比較しても、簡単に優劣を決めるものではないでしょ
う。1つのものさしで測るのは無意味なことです。いずれも、角度を変えれば違った良さがあるのですから。
地球規模で交流される昨今、諸地域の文化や慣習、経済活動に至るまで、決められた重りで天秤に掛け、一方的なランク付けをしてい
るように感じます。多様な価値観のもとでは、そのような画一的なランク付けは戯事です。するのであれば、細部に渡った要素まで分析
し、その要素ごとにすべきです。それぞれの特徴を持った、多彩な文化を継承し、私たちの味付けも加えて、より、開花させようでは
ありませんか・・・
次に「21世紀ではなく22世紀や23世紀はどういう世界になると思いますか?」との問いですが、やはり、SF的な世界に思いを
馳せてしまいますね。スマさんもおっしゃっているように、宇宙、海洋、空中・地下開発などは、ちょっと想像しただけでもワクワクし
てしまいますね。それから、道具や物、住環境関連に至っては、想像も及ばないほど利便性を極めているでしょうし・・・
20世紀も残り10ヶ月足らずという今日において、議論の中心となっている政治、経済、労働、思想、教育や食糧、環境、エネルギ
ー、通信分野・・・等も、将来的には、その概念を大きく様変わりさせる可能性は充分ありますし、概念すら存在していないものもある
かもしれないという推測はできます。また、状況が変われば、新たな問題も生じるでしょうね・・・
ここでは、人間関係の見地から述べたいと思います。
今や、加速をつけて継続的進化を果たしているので、100年、200年後というと、いろんなことが考えられますが、人類が存続し
ていたと仮定して、前に、オフレコでスマさんと人類の進化について話を(*1参照)したことがありましたが、あの時に述べたように、
社会構造がさらなる合理的な進化を遂げていると考えられます。
ご存知の方も多いと思いますが、「エニアグラム」という心理的人間学がありますね。以前にも記述しましたが、「複雑で多様な人間
の気質と、その個性の意義を説いた体系的な人間学」です。また、詳しい内容については機会を設ける予定です。
最近では、この人間学を日本でも活用している所があるという話を聞きます。
2000年の歴史を持つエニアグラムは、周知のように、アメリカのスタンフォード大学の心理学者らにより、現代的に体系化されたもの
なので、アメリカではさらに取り入れられ、実施も進んでいるそうです。
企業の人事など、これをもとにした性格分析を参考にして、適材適所および、相性の組み合わせなどを考慮した上で人事配置したこと
によって、仕事の能率アップ、ひいては業績向上にまで効果が現れているということです。
そこで、労働社会に(会社という形態に拘らず)これを反映させたとしたら、前述した役割分担的社会の未来図が描けるのではないで
しょうか。
しかし、こうした考えを万能とも思いませんし、まして強要するものではありません。自然の摂理に委ねれば人為的に操作しなくても、
長期的にはそのような方向にむかうとも考えられますし、あくまで、いち選択肢として捉えています。また、時代に対応させて、この
人間学の体系も変化していくと予想できます。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
(*1) これは、メルマガ上での対談を始める前に進行していた、スマさんとアイさんのメールによる対話を指します。その内容の
一部を以下に記載いたします。
(前文省略)〜私は、多様な人生観の人が共生できる社会の在り方として、新たな経済構造を模索中です。これまでの様々な経験を通
して、今に至っていますが、もちろん一本道だった訳ではありません。しかし、そんな中、自分の考えをまとめるにあたって、節目節目
には、その確証となるものにいくつか出会っています。 その一例を挙げると、以前に何かの対談もので、医科系大学のある教授が述べ
ていた、「既に、人間として生物の進化の必然性は薄まりつつあると言えるので、これからは生物本体ではなく、社会構造の進化を遂げ
る時代である。」という言葉です。ひとつにこれが、私の考えを裏打ちしてくれました。 (中略)
それは、数万年をかけて進化を刻むわけですから、そう考えると、種が存続していく限り、緩やかな変化を永遠に続けるのでしょう。
(突然変異でも起こさなければ・・・)
そして、将来に渡り、人類が存続していくと仮定した場合、その進化度は、生命体としては充分な域に達しつつあるので、今後は、
その人間一個一個が組織している、社会構造の向上に目を向ける地点に来ていると考えられないでしょうか。
これだけの人間がいるのですから、皆が一様に同じ役目を担うというのは、むしろ不自然ですし、建設的でもありません。端的にいう
と、個性を生かし、向き、不向きなどに配慮した、役割分担的な社会形態の誕生を視野に入れましょうというものです。 (以下省略)