「王禅寺伝説」の解読
考古学研究部王禅寺班
一 . はじめに
皆さんは、「王禅寺」という寺をご存知ですか?。昔は川崎一を誇る寺でした。現在は王禅寺地区の外れに位置しています。
この寺を調べてみると、有名なわりに、「いつ?(何世紀・何時代に)だれが?(寺を建てた人は誰か)どこに?(最初から現在の場所に建てら
れたのか)」という事についての多くの言い伝えがあって、はっきりとは解明されていない事がわかりました。
このレポートは、王禅寺についての言い伝えを解くカギと、そこから考えた私たちの説が書いてあります。
二 . 「王禅寺伝説」
では最初に、王禅寺についての言い伝えを紹介しましょう。
@夢のお告げ伝説(新編武蔵風土記稿より)
孝謙天皇(在位749〜757)が「武蔵国麻生郷光ケ谷の土中に一寸八分(約6cm)の観音あり」との夢を見て、家来に探させたところ、本当
にそれが発見されたので「ほこら」を建て、それを祭った。これが王禅寺の始まりであるという伝説です。(光ケ谷は、地図のD)
A四つの塚伝説(聞き込みによる)
いつの時代だかは知らないが、王禅寺は東柿生小の所(地図のE)にあった。そして火事で王禅寺は焼け、ガラクタを領地の四すみに
集めて塚のようにした。これが東柿生小のまわりにあった四つの塚であるという伝説です。(塚は地図の16・17・18・19)
そしてこの伝説によると、王禅寺は昔は弘法の松(地図のC)のところにあり、その後に東柿生小の所にうつったとも言われています。
B弘法大師伝説
弘法大師がこの地に来て、100谷あれば寺を建てようとしたが、99谷しかなかったので寺の建造を断念した。この時弘法大師が腰かけ
た松を「弘法の松」とよんでいるという伝説です。
以上が「王禅寺伝説」ですが、まとめてみると次のようになります。
@王禅寺は、奈良時代に孝謙天皇が光ケ谷に創建した。 A時代や建てた人は不明だが、王禅寺は東柿生小の所にあった。 B王禅寺は、最初弘法の松の所にあったが、後に東柿生小の所に 移り、その後現在の所(地図のA)にうつった。 |
これが王禅寺について言い伝えられている事です。
ここで見る限り、@の「夢のお告げ伝説」がー番はっきりとしているようですが私達はこの話を信用していません。なぜなら、話が
SFじみている事と、このような事をすれば大事業になるから、もっといろいろな書物に載っていてもよいと思うからです。
ではこの「王禅寺伝説」は全くつくり話なのでしょうか。私達はそうは考えませんでした。次にその証拠となる資料をいくつかあげ
てみましょうo
三 . 古墳〜平安時代の麻生のようす
まず考古学上の資料から、むかしの麻生地区の様子と、仏教と麻生地区との関わりを調べてみましょう。
@横穴古墳
鶴見川沿いには、崖に穴を掘って作った横穴古墳が数多くあります。この地区の横穴古墳は、7世紀前半〜8世紀前半にかけて作られ
たものと考えられています。古墳は当時勢力を強めていた上層農民か豪族層に属する人々であることは確実だと思います。また、この地
区の多くの横穴古墳からは火葬された人骨が発見されることから、この時代にはすでに、仏教が広まっていたと考えられます。(火葬は
仏教に伴うものです)
A東柿生小の周辺
東柿生小周辺には、ちょうど小学校を囲むように四つの塚がかっては存在していました。この塚は四つともきちんとした考古学的な
調査もされずに破壊され、今では一部が残されているにすぎません。
これは、古墳(豪族の墓)か、経塚(お経を埋めて子孫の繁栄を願ったもの)であろうと考えられています。
また東柿生小は、校舎の拡張工事中に古墳時代の高坏(たかつき=御供え物を載せる器)と椀(わん)が発見されています。そして特
に高坏が多かったので「神か何かが祭られていた」と判断されています。
以上の事から東柿生小付近は、古墳時代から豪族の住む、村の中心部であったのではないかと思われます。
B弘法の松付近の「蔵骨器」
弘法の松の付近からは「蔵骨器」が発見されています(地図のB)。これは、火葬骨を納めた士器で、普通はこの土器を木製の箱など
に入れて土中に埋納した塚状の墓のことです。その形やつくりから、9世紀前半頃(平安時代初)と推定されています。また、埋納された
人は、当時の国府における官人層(豪族層)と考えられています。
この事から、弘法の松のある光ケ谷の付近は、平安時代の初めには仏教を信じる豪族の墓がつくられた地帯であり、人里離れた土地
であったと考えられます。
四 . 仏教はいつ関東に伝わったか
次に仏教がいつ関東に伝わったのかという事について調べてみましょう。この事を予想させる資料としては、次の3つの資料があげら
れます。
@百済の僧の渡国の記録
日本最古の歴史書と云われる「日本書紀」に、「天智五年(666年)にそれまでは大和で官食を給していた百済の僧俗二千余人を東国(武
蔵の国)へ移した」とあります。
A祭人埴輪
群馬県の観音山古墳(6世紀後半〜7世紀前半築造)から出土した”祭人埴輪”の一群の中に、「合掌する男子」があります。合掌する埴
輪はその姿から、すでにこの時期に仏教が伝わっていた可能性がある事を示しています。
B仏像鏡
千葉県の木更津市で、5世紀後半から6世紀前半にかけての古墳から”仏像鏡”が出土しました。仏像鏡とは、鏡の裏に仏像の他、仏教
関係の装飾を施した鏡のことです。
以上3つの資料の年代をみると、7世紀後半、6世紀後半〜7世紀前半、5世紀後半〜6世紀前半となっています。したがって、早
くても5世紀のおわり、確実な所では6〜7世紀には、仏教が関東に伝わっていると考えられます。それ故、麻生を含むこの地は、比
較的早くから仏教文化が栄えていた事が予想されます。
五 . 小さい仏像について
三・四の資料から、麻生地区には奈良時代(8世紀)以前から仏教文化が栄え、寺がつくられる基盤があった事がわかりました。
では、一寸八分(約6cm)という、小さい仏像が当時つくられていたのでしょうか。次に資料をあげて考えてみましょう。
@全国各地の伝説
各地に小さな仏像についての伝説が数多くあります。例えば、
(1)立江寺(徳島県)
光明皇后(701〜760)が娘の安産祈願のために、一寸二分の尊像を納めた。のちに弘法大師が丈六(一丈六尺=約5m)の地蔵像を刻
み、その中にこの小尊像を納めた。これが現在安置されている本尊といわれています。
(2)浅草寺(東京都)
推古二年(594年)に、一寸八分の観音像が拾い上げられ、これを祭ったのが浅草寺の始まりだといわれています。
(3)連城寺(大分県)
欽明天皇四年(543年)に百済の竜伯という船乗りから伝えられた一寸八分の観音を祭ったのが始まりといいます。
A小型の仏像について
一寸八分ではありませんが、国宝や法隆寺に伝わる仏像を調べてみるとたくさんの小型の仏像があります。そしてその中には個人の
家に祭られた事のはっきりしている仏像もあり、また多くが、後の世につくられた大きな仏像の中に納められていた事もわかります。
以上から、王禅寺の最初の本尊が 一寸八分の観音である可能性がないわけではない事がわかります。
六 . 弘法大師について
弘法大師は諸国を歩き回ったとされていますが本当のところはどうなのでしょうか。
西 暦 | 年齢 | 主 な 出 来 事 |
七七四 | 一 | 讃岐国(香川県)多度郡に誕生。父は佐伯田公 |
七九八 | 二五 | 槙尾山寺(京都府)に於て沙弥(小僧)となる |
八0四 | 三一 | 5月、遺唐使船に乗り、12月に長安に着く |
八0六 | 三三 | 帰国し太宰府につく |
八0九 | 三六 | 京都に入る |
八一 一 | 三八 | 10月、乙訓寺(京都府)の別当となる。 |
八一五 | 四二 | 書を送り、真言密教流布の協力を求む(関東) |
八二一 | 四八 | 讃岐国(香川県)万濃池の修築にたづさわる。 |
八二九 | 五六 | 大安寺(奈良県)の別当となる |
八三五 | 六二 | 3月入定(死す)。5月埋葬 |
九二一 | 空海に弘法大師の名をおくる |
上の年表でわかるように、弘法大師は日本諸国を歩き回っていません。したがって「弘法の松」の伝説はうそであることがわかりま
す。
七 . 考古学部の考え
最後に、私達の考えをのべておきましょうo(現在まだ統一した意見は持ってはいないので、個人の考えを述べます)
@ 讃岐説 2年8組 讃岐 賢一
私は、奈良時代にこの辺りの豪族が東柿生小の所に寺をたてたと考えます。その理由は二つあります。一 つは、奈良時代には仏教好
きの豪族が東柿生小周辺に住んでいたと考えられることです。二つめは、東柿生小周辺は栄えた地であったという事が、「奈良時代の
寺は栄えた所で発達する」という立地条件に合うことです。しかも新編武蔵風土記稿に、王禅寺が真言宗だけではなく、「律宗(奈良時
代、唐の鑑真が広めた仏教)も兼ねていたことや、”高坏”が出土した事から、ここに奈良時代の寺があっても不思議ではありません。
またこの頃は、観音信仰により「小さい観音」のブームの時期でもあり、この私の考える「王禅寺」 に、豪族か渡来人などが一寸
八分の観音を寄進したことも充分考えられます。
これらを総合すると、「王禅寺は奈良時代に豪族が東柿生小の所に建てた寺で、そこに一寸八分の観音は実在した」となります。
A 鶴井説 二年八組 鶴井 和
まず、孝謙天皇の伝説と弘法大師の伝説が50年余離れていることを頭に入れておいていただきたい。
「夢のお告げ」については前にのべたので(二の後半)、「光ヶ谷」の方について述べよう。
これについては「光ケ谷は奈良〜平安時代にはあまり人が入らない山奥であった」「奈良時代に山奥に寺を造ったというのは(宗派の
理由から)ありそうもない」という事実がある。
一寸八分の観音については、私は存在しただろうと考える(その理由は資料より説明できる)。おそらく一寸八分の観音像が(詳細は定か
ではないが)このあたりにあっただろう。たぶん渡来人ではないかと思われる人物がこの地になんらかの形で一寸八分の観音像を残した
のではないか。そして後世、観音像に伝説かついたのではないかと思う。
弘法大師は記録では、唐から帰ってからは京都周辺からは出ていない。ただし空海は京都から地方の豪族へ寺を造るようすすめた手紙
を出している。つまり手紙を受けとった豪族が寺を建てようと思い、この地で真言宗にみあう地(=山奥)である光ケ谷に寺を建てた。
そして本尊をこの地になんらかの形で残っていたー寸八分の観音像とした。これが王禅寺の始まりではないだろうか。
最初の王禅寺は、真言宗の寺として光ケ谷にたてられ、本尊は一寸八分の観音であったと私は考えています。
柿生中刊「うれ柿第38号」1984.3所収