亀井城の謎(その3)
亀井六郎重清と佐々木六郎厳秀は同一人物?
顧問 川瀬 健一
資料1)紀伊名草郡藤白浦の鈴木氏の家伝。(『姓氏家系大辞典』太田 亨著) 鈴木三郎重国というものがいた。南方八荘司の旗頭で、鈴木治郎重治(或いは、重国の三男 ともいう)と、先祖代々から藤白を領地としている。縁あって源家に属して義朝の近くに仕えてい た。義経がまだ舎那王といっていた時に熊野詣でをして、鈴木の館に逗留した。この時に、義経 に仕えていた武士で、佐々木秀義の六男、亀井六郎重清を、重国の一子三郎重家と兄弟の誓 いを結ばせ、重家は家に留まって父を養い、重清は義経の軍中に従わせた。・・・・・ |
この資料によると、亀井六郎は佐々木秀義の六男ということになるが、佐々木氏の系図には、秀義の六男として「厳秀」とあり、「重清」ではない。
では、鈴木氏の家伝は全くのつくりごとなのであろうか?
亀井六郎の生年
資料2)亀井六郎の死(義経記巻8による) 音にも聞くらん、目にも見よ、鈴木三郎が弟に亀井六郎生年23、弓矢の手並日頃人に知られ たれども、東方の奴原はいまだ知らじ・・・・・・ |
亀井六郎の年齢を知る、唯一の手掛りである。
義経記は、事件のずっと後の室町時代につくられたものであり、これをそのまま信用はできないのであるが、仮にこれを根拠としてみると、この衣
川の戦い1189年(文治5年)に23才なのであるから、その生まれた年は、1167年(仁安2)となる。
1167年といえば、平治の乱(1159年)以後の事であり、義経より8才年下である。この1167年に、佐々木秀義は何をしていたのかとみると、彼
は相模国渋谷荘において、荘司渋谷重国の娘をめとり、この地に住んでいたのである。そして、興味深いことに、この渋谷重国の娘との間に、五郎
義清をもうけているのである。この義清と亀井六郎重清とは、その名に共通して「清」の字を持っている。
もし亀井六郎重清が佐々木秀義の息子であるという鈴木氏の家伝に根拠があるとするならば、義経記の年齢と合わせると、重清は義清と母を同
じくする兄弟と考える以外にないのである。(秀義には3人の妻が知られている)
この関係を系図にしてみると、次のようになる。
図1:佐々木・渋谷系図
この系図を見て気がつくことは、亀井六郎重清の名の「重」の字は、渋谷氏に代々受け継がれた名であるということである。そして彼の兄弟と考え
られる義清の「義」の字は、父佐々木秀義が源為義の養子となったことからもらった字である。さらに、もう一つ気がつくことは、兄弟(少なくとも母を
同じくする兄弟)は、名前に共通の字を持つということである。
当時の武士のどこの家においても、このような事が言えるのかどうか分からないが、親から子へと家代々の名が受け継がれていくとすると、亀井
六郎重清を、佐々木秀義と渋谷重国の娘との間の子と考えても良いと思う。
亀井の名の由来は?
では、亀井六郎重清を佐々木秀義と渋谷重国の娘との間の子と仮定すると、その名乗りである「亀井」とは、どこから来たのであろうか。
これを考えるには、その祖父渋谷重国のことを考えてみることが必要である。
渋谷重国は畠山氏と同族の秩父氏の流れであり、彼の祖父基家は橘樹郡の河崎荘を開墾して、「河崎冠者」と呼ばれ、父重家の代まで、河崎荘
に住んでいた。そして、重国の代になって、河崎荘に隣接する都筑郡から高座郡へと移り、後に渋谷荘と言われる地帯を開墾・支配下に置き、渋谷
氏を名乗ったとされている。そして渋谷荘の開拓・拡大に伴い、新たに開拓した地域の名を、その子や孫たちは名乗っているのである。
この渋谷荘の南端近く、南に隣接する大庭御厨との境界近くに、亀井野という土地がある。現在藤沢市六会の中心部となるが、ここには、亀井神
社があり、これは、亀井六郎が不動堂を建てたことに由来するとの伝説がある。
亀井六郎の名「亀井」は、ちょうどこの頃、渋谷荘の一部となった亀井野を、その祖父渋谷重国から譲り受けたことに由来するのではないか。
○注:大庭御厨の境界は はっきりしないが、東は 玉輪荘との間の俣野川 (現在の境川)、西は寒 川神社神領の神郷との 境、南は海、北は大物 崎(現在の小出川沿い の藤沢市遠藤から東は 亀井野あたりか)と推定 されている。また、大庭 御厨の郷名としては、大 庭・鵠沼・殿原・香川・俣 野・酒戸(尺席)・菱沼・ 堤などが知られている。 〔神奈川県史通史編1 P381より〕 |
図2:渋谷庄園・大庭御厨境域図〔藤沢市史より〕
亀井六郎と義経との出会いは?
さて、亀井六郎を佐々木秀義の子と考えてみると、六郎と義経との出会いは、どのようなものであったろうか。
先に示した鈴木家の家伝によると、「義経がまだ舎那王と名乗っていた当時、熊野詣でをした時」すでに、六郎は義経に付従っていたという。これ
はいつのことであろうか。
義経記などの伝記物には、義経が幼い頃熊野詣でをしたという記事はない。では、この言い伝えは、全くの嘘であろうか。
興味深い説がある。それは、
舎那王が京都の鞍馬を逃れて、奥州藤原氏を頼っていったのは、母常磐とその夫藤原長成と が、僧侶になろうとしない舎那王の身の安全を考えて、長成の従兄弟の子であり、当時陸奥守 の藤原基成を通じて、その娘婿藤原秀衡に、舎那王の保護を頼み、その依頼を承諾した藤原 秀衡が、その京における出先機関である平泉第の頭領の一人である橘次郎末春(通称金売り 吉次)を使って、海路太平洋沿岸航路を使って、平泉へと義経を匿った」(角田文衞著『平泉と 平安京−藤原三代の外交政策』−『奥州平泉黄金の世紀』新潮社刊とんぼの本 所収) |
というものである。
図3:奥州藤原氏と義経との関係
この角田氏の説によると、奥州藤原氏が使用した太平洋航路は、摂津の渡辺を発して、途中紀伊の和歌浦を中継地としているとの事である。(下
の地図を参照)
図4:平泉と京を結ぶ陸路・海路想定図〔前掲「平泉と平安京」より〕
そしてこの和歌浦は、鈴木氏の居る藤白浦の北5q程の所にあり、当時の紀の国国府に上る入口である紀ノ川河口にあり、同時に当時盛んに
なっていた、熊野詣の街道にも近い所にあった。
また、藤白浦には、熊野5体王子の一つ藤白王子(藤白神社)があり、熊野参詣者は、かならずここに宿泊したという。そしてこの藤白王子は、平
安時代末期にこの藤白を含む地域が、三上庄〔皇室領であり、後には大覚寺統系に伝えられた八条院領の一部で、熊野の別当の管理下にあっ
た。1155年には、三上庄は確実に存在していた〕として開発された時、熊野から移ってきた鈴木氏によって奉拝されたものといい、鈴木氏の館は、
藤白王子の東熊野街道に面した所にあった〔角川書店刊『日本地名辞典』および、平凡社刊『日本歴史地名体系』による〕。
図5:熊野九十九王子参詣道図〔日本地名辞典より〕
図6:和歌の浦・藤白浦・熊野街道関係図
義経が熊野詣でをしたのは、海路平泉に赴く途中のことであったのではなかろうか。それは、1174年(永安4)の3月のことであったという(平治
物語による)。
当時の航海は沿岸航行であり、途中何日も湊や泊に停泊して日和を待機していた。無風で波のない日か、穏やかな順風の日した航行しなかった
のである。おそらく和歌の浦に寄港して日和を待つ間に、舎那王は熊野詣をしたのではないか。
また、『鎌倉実記』に舎那王が鞍馬にいた時、鈴木重行〔鈴木氏の伝えでは重次〕が鞍馬を訪れ、主従の約束をしたとあるので、もしこの話しに根
拠があるとすれば、熊野詣の途中、鈴木氏の館を訪れたのも、故あるものと言えよう。
角田氏の説によれば、義経一行は、約80日の日数で、平泉に着いたそうである。
ところで1174年といえば、亀井六郎重清はまだ8才の時である。8才の子供が、自らの意志で、義経の元に行くはずもない。
ここで、思い出す事は、この当時、佐々木秀義の四男高綱が京にいたことである。
高綱の生年は不明であるが、その同腹の兄盛綱が1151年の生まれであるから、それに近いと見て、当時20才ぐらいのものか。高綱は、父秀義
が平氏との戦いに敗れて、奥州へ落ちる時、その姨(おば、母の姉妹)と共に、京の吉田の辺りに潜んだという。おそらくまだ幼かったからであろう
が、母の姉妹といえば源為義の娘である。縁者を頼ってのことであろうが、同時に、京において、平氏の動向を探ることも任務の一つであったであ
ろう。そして、吉田と言えば、京の北にあたり、鞍馬にも近く、さらに、平泉第にも近い(平泉第とは、角田氏の説によれば、平安宮のすぐ北側にあっ
たという。そして、これは平泉政権の京都出先機関であり、政治情勢の情報収集・都の公卿たちへの付け届けなどの政治工作・京での物資の買い
つけと運搬などの任務を持っていたという)。
その上、佐々木秀義と藤原秀衡とが縁戚関係(藤原秀衡は佐々木秀義の母の姉妹の夫であったという)にあった事を考慮すれば、平泉第とも関
係があったに違いない。
全て想像になるが、佐々木秀義は、幼い息子の一人(これが六郎重清)を京に送り、鞍馬の義経の元にやったか、奥州に下向する義経に付けた
かしたのであろう。
亀井六郎がなぜ佐々木系図にないのか?
では、亀井六郎が佐々木秀義の六男だとして、なぜこの名が佐々木系図にはないのであろうか。これについては全く資料がない。全て推測に頼る
しかなかろう。
しかし、もし六郎を佐々木秀義が義経に付けたとしたら、その目的は何であろうか。
それは、源氏の流れに自分の子を付けることで、将来源氏の旗上げ、平氏打倒という事態になった時の布石としか考えようがない。
佐々木秀義は相模国渋谷に落ち着いてからも、しばしば伊豆の頼朝の下にわが子たちを赴かせたという。そして、頼朝の蜂起に、長子定綱以下
4人の息子を参加させると同時に、五男の義清はその反対に、祖父渋谷重国と共に、頼朝追討の命を受けた大庭景親の軍に参加させ、頼朝を石
橋山の戦いに破っているのである。この五郎義清は、大庭景親の妹婿でもあったのである。
さらに、頼朝が石橋山の戦いに敗れ、安房に逃亡した時、佐々木四兄弟は、父が身をよせる渋谷重国のもとを頼った。それを知った大庭景親が
四兄弟とその妻子の引き渡しを要求したが、重国は自身と孫佐々木義清の平氏方への参戦を楯にして、四兄弟とその妻子を引き渡さなかった。
そして、その後、安房で再起し、下総・上総・武蔵の武士団を味方とした頼朝が、大庭野において大庭景親率いる平氏方の軍勢を破って、関東に
おける実権を確立したあと、かっては平氏方に味方した渋谷重国と佐々木義清は、佐々木四兄弟の勲功により、許されて頼朝傘下に入ったのであ
る。
その後頼朝の全国的規模での軍事警察権の行使を都の朝廷が認めた時、佐々木一族は旧来の近江の佐々木庄の領有を保障され、近江守護
にも任命され、秀義および四人の兄弟は近江に帰還している。
この源氏旗上げの時の佐々木秀義の息子たちの行動を見ると、敵味方に分かれており、その背後には、佐々木家再興をかけて、平氏・源氏の
双方に担保をかけるという秀義の策があったのではないかと思われるし、それは見事に効をそうしているのである。
この観点からいうと、佐々木秀義が1159年の平治の戦いに敗れたあと、相模渋谷に身をよせながら、四男高綱を京に残したのは、京の情報を
知ると共に、京に残された、義朝の一子舎那王を守るという意味もあったのではなかろうか。源氏再興の全ての可能性に力を貸し、自家の再興をも
図ろうという戦略である。
そしてこの同じ観点からすると、1184年に義経が頼朝の許可も得ずに後白河法皇から検非違使の五位の判官という位官をもらった事に端を発
する、兄弟の対立の時にも、佐々木秀義は、わが子を双方に付けて、佐々木家存続の担保をかけていたと思う。
なぜならこの対立は、単なる兄弟の対立ではなく、王朝国家権力から独立しようとする頼朝−東国武士政権と、全国支配権を維持し、頼朝政権を
瓦解させようとする王朝国家との死活を賭けた争いであり、頼朝政権に対立する勢力として、義経そしてその背後にある藤原秀衡(奥州藤原政権)
を利用しようとする後白河法皇の策謀に由来するものであったのである。義経の勝利はすなわち、頼朝政権−東国武士政権の崩壊を意味し、それ
はそのまま、近江守護としての佐々木家の没落に直結する。この当時の状況としては、どちらが勝利するか分からず、しかも、頼朝政権は王朝国
家の攻勢によって、一旦は認められた全国に対する軍事警察権の行使を、関東・東海・東山の地方に制限されており、まだ、決定的な力を持って
はいなかったのである。
藤原秀衡とも縁戚関係を持つ佐々木秀義としては、家存続の担保として、義経に自分の息子を付けておく必要があったはずである。亀井六郎重
清はそのための布石であったであろう。
このような風見鳥のような佐々木氏の動き方には、根拠がある。
その所領佐々木庄の領主は比叡山延暦寺であり、佐々木氏はその荘官にすぎなかった。近江一帯は比叡山延暦寺の政治的支配力が強く、武士
層の自立は非常に困難な地域だったのである。だからこそ、秀義は力をつけつつある源氏の家人になったのである。
しかし、それでも、自己の支配権を確立するのは大変である。後に父の跡を継いで近江守護となった佐々木定綱は、年貢納入のことにからんで、
比叡山延暦寺に朝廷・幕府に訴えられ、次子定重は乱暴狼藉を働いた罪で流罪、自身は近江守護の職を奪われて蟄居という処罰すら受けている
のである(後に両者とも許され、もとの地位についているが)。
朝廷と寺社権力の強い畿内の武士としての佐々木氏、この佐々木氏の置かれた環境が、佐々木氏の風見鳥的行動を生み、逆にするどい政治的
平衡感覚をも生み出すのである。そしてそれは、北条氏との縁戚関係を梃にして、自己の所領と地位を守った承久の乱における佐々木信綱(秀義
の孫)の行動や、さらに下って、鎌倉幕府滅亡・室町幕府創設時における佐々木高氏(道誉、彼は信綱の曾孫の子にあたる)の行動にもつながって
いる。
では、重清はどうなったであろうか。
義経による西国武士の組織化が失敗し、彼が奥州へ藤原秀衡を頼んで逃げ込んでしまい、しかも秀衡の死後、その子泰衡らが、頼朝政権と和解
を図ってくれば、もはや、頼朝の勝利は目に見えた形をとって来たと言えよう。事ここにいたっては、重清が義経の下にいる必要性は何もないので
ある。
亀井六郎の最後には諸説がある。義経記は衣川の戦いで、兄鈴木三郎重家とともに討ち死にしたとしているが、源平盛衰記などでは「その終わ
るところを知らず」となる。むしろ、後者の方が真実に近いのではないか。
後世に成立した義経記は、義経を美化し、その家来たちの行動も美化した書物である。それよりは、事件の直後の鎌倉時代にその原形ができて
いる源平盛衰記の記述の方が真実に近いであろう。
亀井六郎重清は、衣川の戦いの最中、義経の下を去ったのに違いない。では、その後どうしたのか。亀井六郎は義経の重要な家臣の一人であ
る。そして、頼朝に弓を引いた者でもある。それがそのまま、歴史の表舞台で活躍できたわけがなかろう。
佐々木系図による秀義の六男厳秀についての資料は少ない。
それは「山門の僧となり、佐々貴社の別当となる」というものでしかない。
もし、亀井六郎が幼くして鞍馬の舎那王の下にいたとしたら、比叡山延暦寺の傘下の稚児として、僧侶になるための修行を行っていたに違いな
い。義経の下を去った六郎重清は、父や兄たちの勲功を背景として命だけは許され、厳秀と名を替えて、山門(比叡山延暦寺)で再度修行を積み、
僧となって氏神佐々貴社を管理する立場になったのではなかろうか。
そして、厳秀がかっての亀井六郎重清であった事実は忘れさられ、佐々木系図には、厳秀の名のみ残されたのであろう。
このように考えてくると、亀井六郎の城が麻生にあったという伝説はどのように考えられるであろうか。 佐々木秀義の母が安部宗任の娘という所伝を信じれば、彼の父は前九年の役か後三年の役に参加していることになる。その恩賞 として麻生の地を授けられたと推測できないこともない。だが資料がない。 また、渋谷重国の父は河崎荘の荘官であり、河崎荘は渋谷氏の没落後、佐々木氏のものとなっている。そして麻生は渋谷氏の同 族、小山田氏の所領の近郊である。あるいはこの関係で、渋谷氏の血を引く亀井六郎が麻生を受け継いだものか。しかしこれにも 資料がない。 さらに麻生のとなり、現在の川崎市菅生・土橋・長尾の地は佐々木氏に相伝された太田・渋子郷である。河崎といい、さらには、高 綱の館があったとされる横浜の烏山といい、全て、鎌倉を守る地であり、交通の要衝である。佐々木氏がその幕府創設の勲功によ り、このような重要な地を得たと考えられる。 この観点から言うと、同じく交通の要衝であり、軍事的な要衝でもある麻生が、佐々木の一族たる亀井六郎に与えられたと推測で きないこともない。しかしこれもまた、根拠となる資料がないのである。 亀井六郎が麻生の領主であったとしても、それはわずか数年間のことに過ぎない。頼朝の基盤が確立した1180年から、六郎の 死〔六郎としての死〕の1189年までのことである。その遺跡がどこまで後の世に伝えられたのか。 あるいはこの麻生の地には、鈴木を姓とする人々が多い。後に此の地を開拓した鈴木の一族が、亀井という地名を見つけ、彼等 の祖先の一人と伝承されていた亀井六郎にそれを仮託したとも考えられるのである。 とにかく確固とした資料がなく、全て可能性 の段階なのである。 |
(1993年8月30日 記す)