亀井城の謎(その3)
はじめに(今までの研究の流れと今号の概要)
考古学研究部では、麻生区上麻生の亀井地区に残る「亀井住宅の丘にはかつて城があり、その城を築いたのは源義経の家臣亀井六郎である」
という伝承に基づいて、1985年の4月からこの「亀井城の謎」について研究しています。
今号に掲載した内容は1988-89年(今号作成スタッフが柿生中の2〜3年生だった頃)の研究と、中学卒業後に引き続き行われた研究をまとめたも
のにあたります。
先号(第3号)を発行したのが1990年の8月。それからなぜ3年以上もの歳月がかかったのかというと、当時の部員が高校進学で各々別の進路を選
び、それぞれ新しい環境にあったことと、長年指導していただいた顧問の川瀬先生が既に他中学に転任されていたことにあります。
しかし中学卒業後すでに4年が経過しているにもかかわらず、このように機関誌『あしあと』第4号が刊行でき、その喜びもひとしおです。
先号までにわかっている内容は以下のとおりです。
@亀井六郎とは
亀井六郎重清という人は、紀伊国名草郡の豪族鈴木氏の一族の出で、源義経の家臣として源平の戦いで戦功があり、また後に義経の都落ちに
従って、最期は兄の鈴木三郎重家とともに奥州平泉の衣川の戦いで戦死した、と多くの歴史人名辞典などに書かれています。
しかし、この亀井六郎の出目には近江国の佐々木氏の出とする異説があります。
この異説は鈴木氏の家伝に拠るもので、その言い伝えでは「鈴木三郎重國というものがいた。縁あって源家に属して義朝の近くに仕えていた。義
経が舎郡王といっていた時に熊野詣でをして鈴木の家に逗留した。この時に義経に仕えていた武士で佐々木秀義の六男、亀井六郎重清を、重國
の一子三郎重家と兄弟の誓いを結ばせた」と述べています[『姓氏家系大辞典』太田亮著・角川書店刊による]。
このように、亀井六郎は名前が多くの文献に記されているにもかかわらず、その生涯の全貌についてはほとんど謎につつまれたままです。
先号までの研究でわかっている亀井六郎の出目に関する二説の内容は、次のとおりです。
1)紀伊熊野の豪族,鈴木氏
鈴木氏は熊野大社を護る豪族の血筋で、榎本・宇井と並ぶ紀州三大豪族のーつです。鈴木氏は名草郡藤白浦を代々所領とし、亀井六郎の兄の
鈴木三郎重家はこのー族の惣領です。
前出の家伝によると、鈴木三郎の父・三郎車図が源義朝の家臣、また家譜によると、祖父・左近将監重邦は源為義の家臣としています。したがっ
て、鈴木氏と源氏の関係が亀井六郎の生まれる前からあったことがわかります。
源平の戦いにおいては、鈴木三郎重家は義経に従軍せず、弟の亀井六郎重清が従軍しました。また、熊野の別当湛増率いる熊野水軍が壇の浦
の戦いに参戦し、源平合戦の勝利をみちびいています。これは、鈴木氏が紀州屈指の大豪族であったことと、中世以降鈴木氏が海上交易で名をな
したように、古くから紀州の海上交通を握っていたことにあります。つまり、源氏が鈴木氏と以前から関わりがあったから、熊野水軍を義経の味方に
付けることができた、と推測できます。
さて、鈴木三郎・亀井六郎の兄弟のその後ですが、前出の家伝によると、亀井六郎は源頼朝に追われた義経とともに奥州平泉に逃れ、高館にて
安住の地を得たとの手紙を兄鈴木三郎に出し、鈴木三郎は山伏の姿をして奥州に下り、最期は衣川の戦いで兄弟共に戦死を遂げました。その後
鈴木氏の家系は重家の弟の治郎重治が継いだといわれています(前掲『姓氏家系大辞典』)。
2)近江国の佐々木氏
佐々木氏は宇多天皇の末裔(宇多源氏)で、近江国佐々木庄の豪族でした。宇多天皇から8代目の子孫が、鈴木氏の家伝で亀井六郎の父とされ
る佐々木源三秀義です。
秀義は源為義の娘婿となり、保元・平治の乱(1156・1159年)では為義の子、源義朝に従って大活躍しました。しかし源氏が戦いに敗れたので、秀
義は本領の佐々木庄に戻りました。しかし、平清盛が天下を握ってからも平氏の家臣になることを拒絶したので、領地の佐々木庄を没収されてしま
いました。
そこで秀義は、伯母が奥州平泉の藤原秀衡の室になっていたので、秀衡を頼って奥州へ向かいましたがその途中、相模国の渋谷庄の渋谷庄司
重国に見込まれ、渋谷重国の娘をめとり、渋谷庄に住み着きました。
やがて源頼朝が源氏再興の挙兵をした時には、秀義は上の4人の息子を頼朝の下に送り、この息子達は平氏追討の原動力となりました。その結
果、秀義の息子達は幕府創設後諸国の守護に任命され、また幕政の中枢にも参画しました。
しかし、源氏の側近中の側近であったことが頼朝の死後に台頭してきた北条一族との対立につながり、承久の乱(1221年)では北条氏と姻戚関係
のあった四郎信綱以外の佐々木一族の多くが後鳥羽上皇方につき、佐々木氏の所領は近江国守護職のみとなりました。
このように佐々木氏は源氏とかなり深い関係にあり、かつ鎌倉幕府草創期において重要なポストにあり、諸国に所領を得ていたことがわかりま
す。
3)亀井六郎の出目は鈴木氏?、それとも佐々木氏か?
以上の内容から、鈴木氏・佐々木氏とも源氏に関わりがあることが分かりました。しかし、佐々木氏は源氏と姻戚関係があり、より源氏と密接な関
係にあります。また、源平の戦功に対する恩賞も、鈴木氏が紀伊国藤白浦の本領以外の場所に得たという記録は全くないのに対し、佐々木氏は諸
国に守護職と所額を得ています。また、幕府開幕後の処遇も、鈴木氏が紀伊の一豪族として過ごしたのに対し、佐々木氏は幕政の中枢に参画して
います。
この亀井城研究で鈴木氏と佐々木氏が問題となるのは、亀井六郎の出自に関してでした。そして、そのどちらの出自にしても、両氏の本貫地であ
る近畿地方から遠隔の地である麻生に亀井六郎が所領を得たという点については、地元の伝承のみが根拠であり、疑問です。
しかし、佐々木氏が幕府の有力御家人であり、源平の戦いで東国にも領地を得ていること【武蔵国橘樹都鳥山村が四郎高綱の所領(『新編武蔵風
土記稿』)、川崎が佐々木氏の領地として推測されている(『川崎市史』)】などから考えて、亀井六郎を佐々木氏の出と考える方が、より麻生を所領
に得た可能性があるといえます。
ただ、亀井六郎が佐々木氏の出であるという確固たる証拠は発見されていません。しかし、興味深いことに佐々木氏の系図には六男の存在があ
ります。その六男は六郎厳秀といい、資料によると「出家して山門(比叡山延暦寺)の僧となり、佐々貴社の別当となり吉田氏を称した」とあります。
はたして、この佐々木六郎厳秀が亀井六郎なのでしょうか?。先号までの研究では明らかになっていません。
A亀井城の城跡は?
亀井城のあったといわれる亀井住宅の丘の南側の斜面に、「大手門に至るらしい坂道がある」ということが『柿生・岡上村誌』に記述されていまし
た。そこで、地形班では1987年に詳しく実地調査を行い、その「大手門に至るらしい坂道」の全容を測量しました。その結果が先号所収の地形班の
ルポ『亀井住宅の謎の平地』およびその実測図です。
その結果、亀井住宅南斜面の地形は戦国時代中期の城の道構「腰曲輪」と酷似した、明かに人工的な複雑なものだったのです。そして、亀井住
宅南斜面の地形は、地主の人のお話でも使い用のない土地なので全く手を加えてなく、昔のままの地形ではないかとのことでした。
そこで、先号ではこの地形班の調査結果に基づいて、戦国時代中期の城の形態を持つ小机城と茅ケ崎城(ともに横浜市港北区)へ赴いてその特
徴を研究し(先号所収『多摩丘陵の城の特徴の変遷』)、亀井城の遺構と比較してみました。その結果、亀井住宅南斜面の遺構が戦国時代中期に
築かれたものであるらしい、との見解が強まったのです。
そして、この亀井城の遺構が戦国時代中期のものらしいということに依拠して、この城の遺構を築いたのは同時代に麻生の在地領主であった小
嶋佐渡守ではないか、との推論を立てたのが先号所収の『「亀井城」は誰の城か』です。
この推論も、亀井城の遺構のさらなる調査と、小嶋佐渡守と亀井城の関連性についての調査が必要です。
以上の内容が、先号までの研究の流れと、引き続き残された疑問点(研究課題)です。
そこで、今号では以下の事について調査・研究をしてみました。
@ 亀井城の遣構と小嶋佐渡守の関連性と、戦国時代中期の城としての亀井城の役割についての研究。 A 亀井城が築かれた背景を探り、麻生という場所が歴史的にどのような存在であったかを考察した研究。 B 亀井六郎重清と佐々木厳秀は同一人物であるか?についての研究。 C 柿生の鈴木氏と亀井六郎との関連性についての研究。 D 亀井六郎は本当に鈴木氏の出目であるか、についての研究。 |
上記の内容のうち、@は先号所収の『「亀井城」は誰の城か』の続編にあたります。
この推論は、「亀井住宅南斜面の遺構」という動かぬ証拠と小嶋佐渡守という実在し素性の明らかな人物を論拠としており、今号の中で立証する
ことができた論文といえます。
Aは7世紀から17世紀にかけての麻生の歴史約1000年の動静をまとめ、麻生という場所が歴史的にどのような位置にあるかを考察したもので、
従来の亀井城研究に加えて、87年以前に行われた『王禅寺伝説の解読』と『麻生不動尊の謎の解読』をべースとし、85年以降の考古学研究部の研
究テーマの総まとめ的なものになります。
Bは先号までの亀井六郎の出自に関する研究で、佐々木氏出自説が有力になったことをうけ、新しく発見された資料をもとに展開され、推測なが
ら綿密な裏付けがなされています。今まで謎であった亀井六郎の出自に関して、一つの結論を出したものといえます。
Cは亀井六郎の出自が鈴木氏であるとの説の一つの根拠である、現在も柿生一帯に住んでいる地主の鈴木一族が、はたして鈴木三郎・亀井六
郎兄弟に関係があるのかを調査したものです。
Dは上記のBCの研究結果をふまえて、亀井六郎の鈴木氏出自説の可能性を佐々木氏出自説と比較して、亀井六郎の出自の今号の段階での
結論を出したものです。
以上が今号所収の論文の概要です。 (部員 佐藤記す)