〔フランチェスコ・クレメンテ展〕1994.8.17
1970年代にあらわれた新表現主義という流れの旗手、フランチェスコ・クレメンテの初期から現在にいたる120点の作品による、日本初の回顧展。
極めて強烈な絵である。
しかし、そこには、画家の思想というか価値感の混迷状態とそのことに起因する魂の不安とでもいうべきものが、そのまま裸の姿で投影されている。
この画家はいったい何を求めているのであろうか。
作品の中で、不思議な静けさを持っているものは、全て「神・天使」を描いたものであり、ここでは色彩は淡く、画家の感情は抑えぎみである。
ところが全体としてこの画家の作品傾向は、これとは逆の、肉体の燃えたぎるような激情そのものとでもいって良いものが多い。
ここでは、生命の根源を求めているのであろうか。エロチックというか、性のあまりに露骨な表現がめだち、性器そのものが誇大に描かれ、まるで、性衝動そのものが人間存在そのものであるかのような表現である。
それは、インドのヒンズーの神々を飾るレリーフ群のおおらかな性表現の直接の影響が見られるとともに、20世紀後半という、よるべき価値の全てが崩壊したかのような時代状況そのものの象徴と言える。
この画家の魂はある意味では分裂しているのであろう。
印象的な作品が二つある。
一つは「108の煩悩」と題する、109枚の小作品の集合体。
全て、絵具を紙に塗りたくった時の偶発的に出来た形そのものなのだが、色彩が強烈かつ鮮やかなので、画家自身の魂のエネルギーのほとばしりを見る思いである。
もう一つは、「自画像」である。
これは、墨絵と言ってよいのであろうか。竹で編んだ椅子に画家が一人座っている様を描いたのであるが、椅子もそばにある草も画家自身も、淡い墨の濃淡でのみ描かれ、昔の文人画のような、精神のきわめて落ち着いた、自然の中に一体となって流れているかのような雰囲気を漂わせるものである。
この「自画像」はごく最近のもののようであり、画家の魂の行き着く先を暗示しているようである。
とにかく雑多なイメージが画面に浮遊し、ただ画家の燃えるような情念のほとばしりのみがみられ、時には、そのあまりの猥雑さに辟易とするほどの作品ばかりである。その中にあって、前者の作品は、原色の組み合わせによる幾何学文様で、不思議な美しさを漂わせている。おそらくは、「煩悩」というように、自身の内部に潜む情念を、仏教的な概念で表現したところに、画家の思想の変化が現れているのではないか。
そして最近の自画像にみられるような、不思議な静けさは、この行き着く先としての、宗教的な覚りの世界とでも言えよう。
1952年に生まれ、現在42才のこの画家の魂は、たぎるような前半生から、静かな宗教的な世界へと、入っているのであろう。