〔20世紀美術の巨匠たち展〕 1994.8.6
抽象絵画の展開の歴史としての20世紀絵画。その流れを、その時々の巨匠たちの代表作54点でふりかえろうという展示。先に見た「変貌する20世紀絵画」展と同様な視点による企画展である。
クプカ展を見て、抽象絵画の本質は、画家の捉えた内面世界の表現にあるという考えを裏付けるために、その観点から、巨匠たちの作品を一つ一つ見ていった。
1) 抽象絵画の先駆けとしての流れ
フォービズムやドイツ表現主義の流れがこれにあたる。
フォービズムは、解説によると、「対象の色からの画家の色彩の解放」にその本質があったという。
作品を見てみると、対象から受けた印象を、画家の心というフィルターを通して、いくつかの色彩として表現しているようである。いうならば、画家の感情を色彩で表現しているといえる。
ドイツ表現主義の流れは、「世界にたいする画家のイメージの表現」だという。
ブリュケ派や青騎士派の作品は、色彩の自由な表現が特徴的であると共に、対象の形が画家のイメージに従って、自由に変形させられていることもその特徴である。
両者に共通していることは、「画家のイメージ」の表現である。イメージとは、画家の内面世界のことであり、クプカにおける抽象絵画への道程と、これらの画家が同じ路を辿っていることがわかる。
その中の一人、のちに抽象絵画の一方の大家となったカンディンスキーの絵を見た。
この展示では、まだ初期の作品だが、すでに風景は、いくつかの色彩の塊と、原形を止めないまでに変形された形となり、後の幾何学文様による彼の抽象絵画の姿が、すでに青騎士派といわれた、1910年代初頭の作品にもうかがえる。
それにしても彼の作品は、色彩がすばらしい。澄んだ透明な明るい色彩である。
2) 抽象絵画の発生
1910年代に、ヨーロッパ各地で抽象絵画が出現している。その流れの中に、ピカソに代表されるキュビズムの流れも入れられよう。対象を多面的に描くことにより、その形も色彩も変形され、対象を捉えた画家のイメージ自身が画布に描かれている。
しかし、多くの抽象絵画の作品が展示されているが、やはりその中で異彩を放っているのは、クプカの作品である。
なんといっても美しいのである。詩的とする表現できるだろう。他の多くの作家は、ストレートに幾何学文様や抽象的な記号による表現となっており、見る者にとって、その絵は難解である。しかしクプカの作品は、同じ幾何学文様をとっていても、どこか違う。違いは色彩にあるようだ。
カンディンスキーにもいえることだが、色彩が透明で輝いているのである。彼の絵は、その内側から光を発しているかのような色彩による強烈な印象によって特徴づけられ、この色彩に命がこめられているかのような、強いメッセージが伝わってくる。やはり、彼の色彩は、事物の魂の光として表現されているからなのだろうか。
さらに、20世紀前半期の抽象絵画とはいえない巨匠たちの絵を、抽象絵画と比較してみると、そこにも共通した思いが流れていることがわかる。
例えばルオー。
この人の作品はキリスト教的な批判精神によって、世の中の腐敗をえぐりだし、そこに深い悲しみを持って接する作品が多い。しかし、その表現には、ドイツのブリュケ派に、極めて酷似していると思う。
濃く太い輪郭線。強烈な色彩とゆがんた形。特に、その色彩は内面から光輝くばかりである。
ルオーの絵は具象的な形をとってはいるが、彼の現実にたいする心を表現している点で多くの抽象絵画と共通しているのである。
総じていえば、20世紀初頭の画家たちで巨匠といわれる人達は、どの人も、自身の内面世界を描いており、そしてもうひとつ共通していることは、現実への批判的精神を強くもち、その歪みと腐敗と戦い、そこからの解放を強く求めているという共通点がある。その解放が、政治とのかかわりや宗教とのかかわりという違いはあるが、皆、現実に生き生きと関わっている。
3) 抽象絵画の展開
20世紀後半期は、まさに抽象絵画のオンパレードである。しかしそれは、前半期のそれとは違う。
いわば画家の魂の輝きとでもいうものがないのである。色彩や形から受けるイメージ。それ自身の追及が自己目的と化しているような感がある。50〜60年代のアメリカ美術などその感が強いし、その後に出てきたポップアートなども、同様である。
その中で一人だけ異質の画家がいた。アメリカの画家、ジョージア・オキーフである。
彼女のニューメキシコの砂漠の事物を描いた作品には、強烈な魂の輝きがある。
極限状態の中の花のクローズアップ。花の生命が生き生きと息づいている。空の色や死んだ動物の骨。どれをとっても色彩が透明で輝いている。彼女が都会を去って、この砂漠の中に居を定め、砂漠の事物を描こうとした事の意味が強烈に蘇ってくる。
無機質的な事物の集積と化し、人間がますますおしつぶされそうな現代文明を否定し、原初的な生命の営みにこそ、より人間的なものを求めた、というのが、彼女の絵画だったのではないだろうか。