〔木村忠太展〕1994.7.1
30年以上、フランスにて作品を作り続けた画家、木村忠太の回顧展。
色彩がとても強烈である。
原色のしかも、澄んだ色彩がとても鮮やかである。しかし、事物の形はほとんどその原形をとどめず、わずかに淡い線によってその輪郭をとどめるのみである。
全ての作品が風景画であるが、事物は色の塊と化し、その色が、画家がその情景から受けた印象をあらわしているようである。
解説によると、「光をとらえる」「それを自然と画家との交感の場とする」のが、木村忠太の画業の意味だという。しかし、その作品は、見る者に、その印象がどのような事物から発しているのかについての手掛りすら与えてくれない。
作品によっては、淡い線と色の塊の形と標題とが相互にからんで、画家の印象を具体的に示してくれる場合もある。でもこれは、ほんのわずかな例にすぎない。ほとんどの作品は、色彩が画面に氾濫するのみである。
事物の形をここまで捨象してしまって良いのであろうか。
色彩が感情表現にとって命であることは確かだ。しかし、それがそれとして作品を見る者に伝わるのは、具体的に物を示唆する形と結びついた時のみである。形を捨象した時、絵から伝わってくるのは、事物から遊離した、画家の感情のみである。風景から物の形を捨象してしまう意味がわからない。
人に見せるための絵は、画家と観賞者との間に、共感を引き起こすためにあると思う。ほとんど形を捨象した木村の絵からは、共感ではなく、感情の氾濫しか伝わってこない。
この作品群を見た時、抽象絵画とは何のために描かれたのかという疑問が、ふつふつとわきあがってきた。