〔国立歴史民族博物館〕 1994.1.9


 千葉県佐倉市の佐倉城跡にたてられた博物館。豊富な模型や展示資料によって、昔の様子を立体的かつ具体的にわかるように展示してある博 物館として注目を浴びているものである。

 内部は5つの展示室に分かれている。3時間ほどしかいられなかったので、ついに第1展示室しか見られなかった。

 この展示室は、1)日本文化のあけぼの2)稲と日本人3)前方後円墳の時代4)律令国家5)沖の島の5つのテーマに沿って展示がなされている。

 たしかに、前評判どおりの素晴らしい展示である。模型や写真や図面をたくさん駆使し、その中に出土遺物をはめこんで、遺跡を、その遺跡をとりまく環境(自然環境・文化的環境・政治的環境)の中において、とてもわかりやすく展示してあった。

 しかし、展示と説明を見ていて、だんだんむなくそが悪くなってきた。

 その理由は、3)のテーマあたりから、急激に強くなる「大和中心」史観である。埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣の文字の解読だけではなく、全国の古墳の状況から、大和地方が、ずっと日本の中心であったと、繰り返し繰り返し、たたみこむようにしてくるのであった。

 なぜ、これほど、「大和中心」にこだわるのか。

 疑問に思って、詳しい説明書の、第一展示室の設立準備委員の名を調べてみた。そしてすぐに納得がいった。

 その準備委員の名は、東大教授井上光貞。有名な皇国史観の学者である。しかもそれを、考古学的な出土遺物によって補強することにより、大和が日本の中心であったということが、科学的に実証されたかのように粉飾した張本人。この人が設立準備委員では、展示の内容が歪められるのも、いたしかたない。

 しかし、さすがに、総合的に遺跡・遺物をして語らせる博物館だけのことはある。詳細に展示を見ていくと、「大和中心」というこの主張が、ボロボロと崩れさっていくのであるから面白い。

 沖の島の出土遺物が明白にその事を示していた。

 沖の島の祭祀を掌ってきたのは、大和の「天皇家」ではない。北九州の大豪族、宗像の君であった。その宗像の君の宗教的権威の中枢たる沖の島の出土遺物。これは、海の正倉院とでも呼ばれている。つまり、古墳時代の出土遺物の中で、ここにしかないというものが、数多くあり、また、各地にたくさん出土していても、その中で最も優れたものが、ここ沖の島にあるのである。

 王の旗を飾った、金銅製の龍の竿頭。これとほとんど違わないものが、朝鮮の百済の首都の遺跡から出土している。もちろん、日本で唯一つの出土である。

 また、きわめて細工の精妙な純金製の指輪。日本全国で出土した指輪の中で、もっとも優れたものである。九州王朝「倭国王」の祖先祭祀の場としての沖の島の面目躍如たるものがある。

 もっとも博物館の解説は、この点を誤魔化し、大和朝廷が朝鮮征服の過程で手に入れた宝物を、航海の安全を祈って、奉納したと説明しているのである。それでも、同様なものが、大和地方からは全く出土しないという事実は説明できないのであるが。

 もう一つ展示で面白かったのは、各地の国府の建物の模型である。

 通常の国府は単に塀で囲まれた中に、国府の役所の建物が建っているだけ。しかし、ただひとつ、陸奥の国の国府だけは、周りを砦が取り囲み、谷や川という天然の防御施設をも内部に取り込んだ「城」としての体をなしていることである。陸奥国府が「多賀城」と呼ばれている所以である。このことは明白に、陸奥の国以北が大和朝廷の支配下にはなく、別の国であること。そして、陸奥国府は、大和朝廷の侵略のための最前線拠点であることを示しており、この点については、博物館の展示も隠してはいない。

 さらにもうひとつ面白いのは、筑前の国府でもあった「太宰府」の政庁である。

 他の国府の政庁は平屋づくりである。しかし、太宰府だけは、二階建てで、しかも、規模が通常の国府の物の倍はあり、これに匹敵するのは、大和の都である平城京の太極殿だけであり、その太極殿そっくりな建物であるということである。

 このことは、太宰府が都であり、その政庁の建物は、まさに太極殿であり、ここに大和とは別の国家があったことを示している。

 しかし、ここでも展示企画者は姑息な手段を使って、この明白な事実を誤魔化している。それはこの太宰府の太極殿の模型は展示せず、一枚の写真で済ませてしまっていることである。模型を展示してしまえば、それが平城京の太極殿とほぼ同じ規模のものであり、しかも年代が約100年は前に遡るという事実が誰の目にも明らかになってしまうからであろう。

 遺物・遺跡をして語らしめるという、考古学の基本的な手法に忠実に作られたこの博物館の展示は、もしその手法をあらゆる所に、妥協することなく貫徹すれば、古代史学会の定説を完膚なきまでに否定しさってしまうものであることは明白である。あらためてこの定説が、事実の上に組み立てられたのではなく、「天皇家」を至上のものとするイデオロギーの上に建てられた、砂上の楼閣であることを改めて痛感した次第であった。

 3時間のうちの後半2時間は、同僚の平田さんを連れ歩いて、解説してあげるという状態になった。つまり、よく知っている人でないと、内容がよくわからないという、「専門家ぶったえばった」説明からは、この博物館でさえも脱却していないのである。日本の博物館は大衆教育の場ではないことも、改めて痛感した。


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