〔加曽利貝塚博物館〕 1994.1.9
大型貝塚で知られる、千葉県の加曽利貝塚を全面保存した遺跡の一角に建てられた、博物館である。
興味深かったのは、この貝塚の立地条件を示すパネルと、貝塚の近くで発見された大規模な竪穴住居の資料だった。
この遺跡の東側には、東京湾からの入り組んだ入江が伸びており、そして、その入江を見下ろす丘の斜面上に、長径19m短径16mの巨大な建物があり、その背後の丘の北側に大規模な貝塚が2基、その南側に大きな村が存在していた。
この資料を見て、すぐに感じたことは、「貝塚とはごみ捨て場であり、村の周囲に形成されたもの」という、考古学の常識では、この遺跡は理解できないということであった。
その理由の一つは、貝塚が村落の外側にあるということ。貝塚の内側にも建物があるが、これは、南側の村落よりはるかに小規模であり、「村」とは考えにくいこと。
その理由の二つは、おそらく船着き場を見下ろすようにして建っていたであろう、巨大な建物の存在。解説では、祭祀器具が発見されているので「集会場」となっていたが、むしろ、「宮殿」または「神殿」と考えてもよいのではないか。
こういう疑問がすぐにわいてきた。
もしかしたら、この遺跡は、宝物としての加工した貝を広い範囲に販売していた集団の、加工工場と、その集団を束ねる首長(王)の都市の跡ではなかったのか。博物館に展示されている、この遺跡から発見された土器類の見事さとあわせ、以上のように感じた。
博物館の外に出てみると、南北二つの巨大な貝塚が広がっている。しかも、その貝の積み上げかたを見てみると、地表面に次々と貝を積み上げ、内部にある建物よりも高いくらいに貝殻が堆積している。これを見て、先程の疑問と、貝を加工して販売している「国」の中心都市との仮説が、にわかに現実味を帯びてきたのであった。
貝層を見学できる施設に行くと、詳しい説明があった。この遺跡を調査した学者達も、この貝塚を工場として見ているようであった。しかし、そこで加工して販売していたのは干し貝であった。塩を海水から抽出する技術のなかった当時、塩をとるための食品であり、保存食糧としての貴重な蛋白源としての干し貝。これを加工した工場と考えられていたのである。
私の推測とは少し違ったわけであるが、販売していたものが違っていただけで、大筋はおなじである。改めて、遺跡をその周囲の環境ごと保存し、そこに遺跡を観察できる施設を造り、さらに、その遺跡について考える資料を展示した博物館をつくる。このような作り方のもつ意義の高さに感心したしだいである。