〔近藤弘明展〕1993.9.23
月館さんの絵の先生である近藤弘明氏の画業の歩みをたどる作品展。
この人の作品は3つの時期にわけることができるそうである。
一つは49〜52年頃までの模索の時代。次は53年から59年頃までの幻想華シリーズの時代。そして60年前後から82年頃までの宗教的色彩の濃い作品の時期。最後の83年以降は、幻想性や神秘性が影を潜め、明るい円熟した画風となっていると解説は書いてあった。でもそうすると4つの時期にわかれることになり、へんなものである。
むしろ現在までを含めて3つの時期にわけた方がはっきりすると思う。
第一は49〜52年までの模索の時期。
これははっきりと模索の時期といって良い。
第二は53年頃から82年までの時期。
ここははっきりとこの人の宗教的理念が絵に貫かれた時期と捉えて良いと思う。幻想華シリーズといっても、それ自身を長い画業の中でみれば、宗教的世界の一部であったから。
しかしこの時期においても、いくつかの変化は読み取れる。
50年代から60年代にかけては、絵が極めて暗い。
それはほとんど黄泉の国・死者の世界を描いているといっても間違いではないと思う。たとえば60年に書かれた「黄泉の国」という作品。ここでは大気は重くたれこめており、地球の始源の世界を描いたかのようで、大地も灼熱の地獄である。そしてそこに描かれた花は全て、南国の花々をモチーフとしている。死者の国というよりも、むしろ地獄を描いているといった方が適切かもしれない。
それが70年代初頭から雰囲気が変わってくる。
空が明るくしだいに清明になるのである。そしてその描かれた世界の菩薩が登場し、迷える悩める魂に救いが現れるかのような表現となる。たとえば71年の「寂韻」という作品。ここで初めて観音菩薩が描かれる。さらに73年の「無遍光」という作品では、画面一杯に太陽とその光が燦然と大地をおおう様が描かれ、仏の慈悲の世界が明確に描かれている。
70年代後期になると、描かれた作品は完全に極楽の世界となる。
たとえば77年の「青雲」や「森と草」という作品。青く澄み渡った美しい大気のもと。南国の美しい花々が草原に乱れ咲き、森の緑は青くとても清々しい。伝統的なハスの花の世界ではないが、明確に極楽だと思う。この点を裏付けてくれるのが、82年の「三界流転図」。般若心経の世界を描いたと画家は言い、現世をあらわす青い天体=地球から、死者の魂=白い蝶が群れをなして飛び立ち、灼熱の地獄で苦しみ、仏の慈悲により導かれて極楽へと飛んでいく様が描かれている。この絵の極楽の様が、70年代後期の世界そのままなのである。
さらに80年代にはいるとこの画家の描く極楽の世界に微妙な変化が起きてくる。
それは花が南国のものから日本のものに変わってくることである。たとえば81年の「幻桜」や83年の「永遠な春」での牡丹の登場。
すでにこの時点において、日本的なものへの回帰が始まっていたと言えるのだろう。
解説を書いた村木明氏の「明るい澄明な色調による円熟した画風」とは、伝統的な日本画への回帰と言って間違いはないと思う。
82年以降は日本的風景が描かれ、そこに咲く花々は桜・牡丹・ナデシコ・萩・すすき・おみなえし・百合と、完全に日本の花となる。そして表現の仕方も、かっての毒々しいまでの原色の使用は影を潜めている。
このような画風の変化をどう見たらよいのだろうか。これはやはり、この画家の思想と時代との関わりで見ていくしかないと思う。
近藤弘明氏は1924年に東京の天台宗の寺に生まれた。この点に画風の変化を読みとく鍵があると思う。
1924年といえば大正13年。2年後の1926年は大正15年であると同時に昭和元年である。氏の人生はまさに激動の昭和史そのものである。1945年の敗戦時には21才。戦争に動員されているはずである。そして高度成長の始まりであり、安保に始まる政治的激動の始まりである60年には36才。世の中の矛盾と理不尽さに翻弄される中で、真剣にありうべき世界を若者が模索した時代である。
この時代に生きた若者が、時代の影響を受けないわけがない。しかも近藤氏は宗教者の家に生まれ、6才にして得度、僧籍に入っている人である。真剣に現実と格闘しながら、人間の生と死という問題に直面したに違いないのである。ここに、この画家が、魂の漂いとしての死後の世界を描き続けた背景があると思う。
ではその彼が、年を経る毎に仏の慈悲による救いの世界に入りこみ、最後に日本的世界に回帰したのは何故だろうか。
ここには現在の仏教思想のもっている性格がそのまま現れているように思う。
本来の仏陀の教えは、因習に囚われた現状の変革の思想であり、現状肯定の思想としての輪廻転生の思想を否定し、魂も生まれ変わりも、そして神をも否定した思想であった。仏陀が説いたのは、現実を深く見つめ、そこの裏にある事柄の繋がりや矛盾をみつけだし、それと闘うところに救いがあるというものであった。
しかし、仏陀死後の仏教はすぐさま変質した。仏陀自身が魂や輪廻転生の思想を反語的に使って自身の思想を述べていたことに依拠して、仏陀の思想をその正反対のもの、つまり魂を認め、輪廻転生を認める思想へと替えてしまったのである。
今の仏教は現実の矛盾を認める。そしてその下で人々が苦しんでいることも認める。だがここからの救いを、人々自身の認識の深まりと戦いに求めるのではなく、「神による魂の救済」に解消している。そしてそれはそのまま、今自分が生きている世界の肯定。それは矛盾はあるが、どうにもならない運命的なものとなり、むしろその美しさを積極的に探し出し、それと一体になろうと求める傾向すらあるのである。
「運命」という言葉すら、仏陀が使用した意味と今日の意味とは違う。
仏陀は運命とは自分の力と認識で切り開くもの。現状への深い洞察に基づく必然としての未来への認識。そこへ向けた自己の能動的関わりによってつかみとるもの。こう認識していた。しかし、今日の使用法は全くの正反対であることは多言を要しないと思う。
天台宗とは、そのように現状肯定の思想と化した仏教である。
近藤氏はこの思想の下に現実に関わってこられた。この思想の下ではどんなに現状の矛盾とそれによる人々の災危に気付こうと、最後は神による魂の救済へと収斂され、それは現状肯定へと導かれる。
近藤氏の思想のこのような変化をうかがいしる手掛りが作品の中にある。
それは、作品に署名された製作期日である。おもしろいことに年号が記入された作品は、1989年の1月までは、全て西暦で記されている。そしてこの年の1月以後はなんと「平成」が使用されている。
昭和天皇の死と共に、「昭和」への現状否定の思想としての西暦使用から、元号使用へと変化するとは。あまりに、氏の思想の内実を象徴する出来事である。
作品展の最後に、同じことを象徴する氏自身の言葉があった。
「自然をみつめ、その中にひそむ懐かしみ望む原風景─寂園をいつまでも自分は描きふかめていきたい」と。
近藤弘明氏の作品はとても美しい作品であり、高い思想性に裏打ちされて、深い感動と思考を促す作品ではあるが、だからこそこの作品の中に、氏の思想の限界そのものも刻印されているのであろう。