〔身体と表現1920−1980ポンピドゥーセンター所蔵作品から〕96.5.5
20世紀美術の問題を、人間の身体をどのように表現してきたかを主題として考えてみようとする作品展。
20世紀の初めから中頃(第二次世界大戦)の時期を考えてみると、その初期においては、人間存在に対する信頼が感じられる作品が多い。たとえばマチスやピカソなど。とてもふくよかな暖かな表現が多いように思われる。
しかし後半期になると、人体の表現は、醜く醜悪なものへと変化し、人の存在そのものに信を置くことが不可能となっていったように思う。
代表例として、フリオ・ゴンザレスの1935年のブロンズ像「モンセラスの叫ぶマスク」。
まるで能面である。見る角度により、表情が変化する。しかもとても哀しげな表情。しかし、頭部は破壊され、目と口とは虚ろな空間となっており、第一次世界大戦によって、人の醜さを見てしまった悲しみー心の叫びを表現しているようである。
この傾向は第二次世界大戦後も続くが、1970年代以後は、新しい傾向が見られる。それは、人間存在そのものをあるがままに見つめていこうとするものではないか。
1982年のミロの作品「女」。太い筆で書きなぐったような太い線があるだけ。しかし、すごいエネルギーを感じる。生命そのものへの讃歌なのかもしれない。
同じ1982年の作品で「頭部」。これはポンピドゥーセンターに来た人の顔をVTRで撮影して合成しただけのもの。四つのテレビに写すのだが、その一つだけは顔が変化せず他の三つの画面はめまぐるしく顔が変化するという映像。
よく見てみると、顔が変化しないように見えたテレビは、一秒間に二万コマを超える人の顔を写しだしているので、それが見る者の頭の中で合成されて、一つの顔のように見えるだけ。他の三つの画面は、一秒間のコマ数を落としてあるだけというもの。そして四つの画面を交互に一つずつ高速回転させ、合成画像を作り上げるというもの。
その何十万という人の顔を合成していくと、とても穏やかな美しい人の顔が浮かび上がってくる。元の画像は老若男女、様々な表情をした人達なのだが、合成された顔は、神々しいまでに美しい、穏やかな顔になる。作者は、一人一人の人間の中に、その存在を越えた「神」とでもいうべき普遍的な生があるとでも言いたいのであろうか。
70年代以後、宗教ー自然が注目されていることが、美術作品における身体の表現の中にもうかがわれて、とてもおもしろい。