〔デュフイ展〕95.7.23
この画家の作品は、1920年ごろに大きく変化している。これまでの作品はフォーブ的な荒々しさが特徴であったが、その傾向は影を潜めてしまう。色彩はあくまでも透明で明るく、事物の形はぼやけ、色彩の帯または塊となり、事物の形は色彩とは半ば独立して、軽いタッチの線によってのみ表現されはじめる。この会場の作品では、1920年に描かれた「森にて」という作品に見られる変化である。
そしてこの新しい作風は1924年ごろには完成をみていたようだ。「ニース、馬車寄せのあるカジノ」では、事物の色彩と形が分離され、柔らかな線と明るい色彩による、詩的な美しい余韻あふれる作品となっている。
このような画風は以後彼の生涯にわたってつづくものである。そして当時の状況でいえば、これは極めて特殊な流れである。戦争と革命のこの当時、多くの著名な画家たちの作品は、社会の矛盾に直面した人間の苦悩を描き、そこからの救いを求めようとする、激しい作品が多かった。その中にあって、以前の荒々しい作品から詩的な美しい作品への変化がなされたことはいったいどういうことなのであろうか。
年譜によれば、直前の1913年から19年までのデュフイの絵は、第一次世界大戦の中にあって極めて愛国的な激しいものであったそうだ。そして43才となった20年には初めての南フランスのブァンスに滞在する。絵が変化しはじめたのはこのころである。そして1922〜23年にかけて長期のイタリア、地中海旅行をおこなう。この過程をとおして、彼の絵は決定的に変化したのである。
彼もまた、社会の矛盾を激しく突き出す画風から、愛国的な活動と戦災による悲惨な状況との直面という契機を経て、戦争・破壊・貧困からの救いを求めるようになったということなのだろうか。
この企画展の中心は、1937年のパリ万国博覧会に出品された大作壁画「電気の精」の縮小版である。縮小版といっても、縦1.1mで横が6mもある大作である。テーマは電気に象徴される近代文明への無条件の賛美であろうか。美しい透明な色彩と柔らかなタッチの線によって文明の発達史として描かれている。この絵では巨大な発電所がギリシアの神々のやどるオリンポスの山に擬せられ、「電気の精」が世界の救いの女神であるかのようにして、世界中を飛び巡るさまでこの絵は終わっている。「電気の精」には、現実に闘われている激しい階級闘争も戦争も、そして貧困でさえも全く影を落としてはいない。あくまでも詩的に美しく描かれているのみである。同じ万国博覧会のスペイン館にピカソのゲルニカがあったことと併せ見るならば、デュフイはなぜこれほどまでに文明の賛美の立場を取れたのであろうか。
1937年のフランスといえば迫りくるドイツとの戦争の影と世界恐慌による経済の破綻を背景として、国内は麻のように乱れ、階級闘争も激化していた。その状況の中で人民戦線による挙国一致内閣が成立し、対ドイツ(=反ファシズム)の闘いへとフランス国民を統一していこうとした時期である。パリ万国博自体がこの目的で設けられたのであり、スペインにおけるファシズム派=フランコ派をスペイン人民戦線政府の側から非難する意図をもって書かれたピカソの「ゲルニカ」も同じ意図をもっていた。しかし、ピカソには戦争(=文明)への激しい怒りがあった。デュフイには、それは影ほどもなくただ詩的に美しく、文明=資本主義を賛美するのみである。
戦後のデュフイは、音楽・色彩・花に埋もれた詩的な世界に益々浸っていった。この人の心には、アウシュビッツも広島も影を落とさなかったのであろうか。進歩的知識人の一つの型ではあるが、不思議な事である。