少将乞請

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▼主な登場人物 

◆藤原成経:11551202 大納言藤原成親の長男。母は藤原親隆の娘。父が後白河法皇の寵臣であるため出世も早く、1170年(嘉応2)に15歳にして叙爵、丹波守、翌1171(嘉応3)に16歳にて従五位上、同じ年の9月には右少将、さらに翌1172(承安2)年17歳にして院の御給で正五位下、翌1173(承安3)年には18歳で従四位下と、そして1174(承安4)年には19歳で丹波守を重任。このため丹波少将と通称される。父成親と共に彼自身も後白河の寵臣であった。安元3(1177)6月、22歳のとき、暴走する後白河院政を支え天台座主流罪を画策した罪で流罪となった父成親に連座し、俊寛、平康頼とともに薩摩鬼界ケ島に流されたが、翌々年(1179)平徳子ご懐妊の大赦で都に上り、1182(寿永1)年には院の御給により従四位上となり、翌1183(寿永2)年には右少将に還任、1184(元暦2)年には右中将、平家滅亡後の1189(文治5)年には34歳で蔵人頭、翌1190(建久1)年には参議に経上がり、さらに翌1191(建久2)年には近江守を兼任するとともに従三位と自身を解官・流罪として平家滅亡を尻目に、どんどん出世した。しかし1192(建久3)年3月の後白河院逝去により出世はそこまでで、1193(建久3)年に正三位となったのを最後に以後は昇進は止まり、官もこの年の皇太后宮大夫が最後であった。良くも悪しくも典型的な後白河院寵臣で、何か特別のことを成したというわけでもない。

◆平教盛:11281185 平忠盛の子で清盛の異母弟。母は関白藤原師通の次男家隆の娘で、待賢門院(後白河院の母)女房。この母の縁で教盛も後白河院の近臣として出世し、その縁で後白河院寵臣の藤原成親とも近しくなり、その息子成経を娘婿とする。官歴は20歳のとき鳥羽院判官代として従五位下・蔵人が始めであったが、保元の乱後の論功行賞で播磨守・大宰大弐・参議と急速に公卿として出世した兄清盛に代って、平家軍団を統率する地位につき、1158(保元3)年に左馬権頭となって朝廷の軍事の長ともなり、以後これを重任。1164(長寛2)年には内蔵頭、1166(仁安1)年には春宮亮、そして1168(仁安3)年2月の高倉天皇即位に伴って蔵人頭となり、同8月には正三位・参議となって朝政にも参画する平家を代表する公卿となった。平忠盛の子供たちの中で長兄清盛に最も信頼され可愛がられた者で、清盛側近として朝廷でも栄達し、多くの国主を歴任するとともに、常陸、能登、越前などの知行国主であった。養和1(1181)年の清盛没後は一門の長老として、平宗盛を補佐して洛中守護の参謀となり、1183(寿永2)年の一門都落ち以後は、事実上の平家軍事総帥として戦いの指揮をとるが、元暦1(1184)2月の一の谷の戦では、長子通盛、3男業盛を失い、文治1(1185)年、壇の浦の合戦では、戦いを指揮した次男能登守教経を失い、自身も兄経盛と手を取り合って入水と「平家物語」は伝えている。

 

<物語のあらすじ> 

安元三年529日の夜、 少将成経は院の御所法住寺殿に宿直しており、翌61日の朝はまだ御所から退出していなかった。そこに父大納言成親の侍どもが大納言が西八条に捕らわれたことを急報。直後に舅の平教盛の使いが訪れ、入道相国が教盛に対し、成経を召し連れて西八条に参れと命じた旨が知らされる。大納言が謀反の罪で今夜斬られるならば成経も同罪であろうと後白河院に暇を請い、教盛の館に向かった。館では成経の北の方がお産間近であり、そこに成親捕縛と成経召し連れの知らせが入り、少将の身を案じていたため、少将が御所から戻ると、乳母の六条らが口を極めて「いかなる目に会うのでしょう」と心配するので少将は、平宰相がおわすのだから命までは取られまいと宥めた。宰相の車の尻に少将も同乗して西八条に向かったが、少将は館の近くに止め置かれ、宰相のみ中へ。しかし入道相国との面会は許されず、宰相が成経の御預けを申し上げると、「無分別なことよ。謀反が成就しておればそなたも無事ではあるまい」と即時拒絶の返事が。宰相は重ねて、吾身のこれまでの功績に替えて少将を申し受けたいことと、お許しあれば出家入道する覚悟であることを伝えると、入道相国はようやく、成経を宰相に預けることを承諾。宰相は成経に相国との対面は叶わなかったが、宰相の宿所に成経を置くことを許された由を伝えた。

 

<聞きどころ>

 「少将乞請」は四つの段に別れる。
 最初は院の御所に宿直していた成経が平教盛の館に戻るまで。
 基本は「口説」で語るが、重要なところだけ曲節を変える。まず舅の教盛から使いが来て「何用かわからないが、西八条まで成経を同道せよ」との清盛の命が伝えられたとき成経がすでに事態に気付いており今一度院に会いたいという箇所は「折声」で成経の想いを切々と語り、その後「指声」に替えて院への申しごとを語る。そして院との対面を「口説」でさらっと語った後、「中音」の節で、少将との別れを惜しむ院の御所の人々の様子を歌い上げた後、「初重」に替えて、教盛館でお産間近の北の方との対面の場面を粛々と語り終える。
 第二段は教盛館での場面だが、少将の乳母六条が少将の身を案じるさまを「口説」で語ったあと、宰相教盛が付いているのだから案じることはないと成経が宥める場面を「折声」で切々と語って、そのまま西八条から再三の催促があるので宰相の車に少将も同乗して西八条に向かった旨を「指声」で少々不穏な雰囲気を含んで語り終え、最後に戦功の多い宰相だが大納言成親の息子を婿に取ったばかりにかかる憂き目を見ると「中音」で悲し気に語って終わる。
 第三段が、西八条邸での教盛・清盛「対面」の場面だ。
 ここでは冒頭、宰相一人が西八条館に入ることを許され少将は門の外に武士の監視のもとに置かれたと「口説」でさらっと語ったあと、不安げな少将の心を「下げ」で語り、館に入った宰相に対して清盛は面会もせず、側近の源太夫季貞を通じてやり取りする場面は、宰相が成経を自分に預けよと清盛に申し上げたが最初は返事もせず、少し後になって、成親の謀反が成功すれば御身とても無事ではないのになぜこれほど婿を庇うと冷たく言い放った場面だが、「素声」「口説」で、さらっと語り、清盛に切々と自分の想いを語る宰相の言を、「折声」⇒「口説」⇒「中音」と節を様々に替えて語るところが、この段の見せ場である。この宰相の懸命な想いに清盛は応えて成経を宰相に暫く預けるのだが、ここも「口説」でさらっと語り、我が子の縁に連なる者だからこそこれほどに心を砕いて庇うのだと、教盛の想いを「峯声」⇒「初重」と極端な節替えで切々と語って、教盛・清盛「対面」の場面を終える。
 最後の四段目は、清盛の返答を教盛が成経に伝える場面。
 ここは三段目最後の「峯声」⇒「初重」から一転して、「素声」⇒「口説」で、二人のやり取りを淡々と語り、最後に「三重」で教盛の切ない心情を思いやって切々と語り上げ、そのまま「三重」の節から「下げ」て宰相の車に少将が同乗して六波羅門脇の館に戻ったところ「死人が生き返った」と人々が悦ぶさまをさっと語って、句を結んでいる。

 

  <参考> 

 この話では成経が清盛の下に召喚されたのは、父成親が捕縛されたのと同日、安元36月1日に、岳父平教盛に伴われて、清盛の西八条邸に赴いたとしているが、これは「平家物語」作者の虚構である。

 成親が捕縛されたときの成経の動向は諸史料では不明であり、その動向が史料で確認されるのは、当時右大臣の九条兼実の日記「玉葉」の安元3618日の条に、すでに処罰されている大納言成親が正式に解官されるとともに、左少将尾張守盛頼(成親の兄)・右少将丹波守成経(成親の息子)・越後守親實(成親の息子)を解官する宣旨が出されたと記し、謀反人成親に連座してその親族もまた解官されたことを記したのが最初だ。
 その次に成経が史料に出てくるのは、623日。神祇伯顕広王の日記に、「今日、丹波少将成経、まさに福原に向かうと云々。このこと無残なり」と記されたとことだ。つまり618日に解官されていた成経が、入道相国の住む福原にこの日召喚されたということだ。

 したがって成経が61日に清盛の西八条邸に召喚されたというのは物語の虚構で、成経が清盛に召喚されたのは623日であり、場所も福原であって京の西八条邸ではなかった。
 しかし解官から福原召喚までは日数があり、この間成経が妻の父である参議平教盛の六波羅の館に留められていた可能性は高い。618日の彼の解官に際して、平教盛が兄の入道相国に、娘婿の成経を処分が決まるまでの間、自身の六波羅の館に留め置くことを懇願した可能性もあり、日時と場所は異なれども、物語が描いたような状況があった可能性は極めて高い。

●山口安世「長門本平家物語の藤原成経の独自記事について: 第六「丹波少将康頼入道上洛事」を中心に」関西学院大学日本文学会刊「日本文藝研究」56 2005-03-10 参照。